ハリー・ポッターと獣牙の戦士   作:海野波香

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猫と狼のお茶会

 マクゴナガルの執務室はシンプルだが落ち着いた調度品で統一されていて、その静けさがジュリアには緊迫感を与えていた。特に、これからどのようなお説教が待っているかについては、なんともワクワクすることで、考えたくもなかった。

 

 マクゴナガルは執務机と思わしきマホガニー材のデスクを挟んで向こう側に座ると、杖を軽く一振りして、こちら側にも座り心地のよさそうな椅子を出した。

 

 

「お座りなさい、ミス・マリアット」

 

 

 どうにもマクゴナガルが説教という面持ちでないことに違和感を覚えながら、ジュリアはおずおずと椅子に座った。

 

 マクゴナガルはなにやら思案している様子だった。次の瞬間にはどんな辛辣な言葉が飛んでくるかと思うと、ジュリアは気が抜けない。けれど、何も考えずハーマイオニーを命の危機に晒したのは事実で、その点に関してはどうしようもなく落ち込んでいたので、なんであろうと受け止めるつもりでいた。

 

 しかし、話題は思わぬ方向へ進んだ。

 

 

「まず、あなたに会って最初に口にするべき言葉を伝え損ねました。よって、私はそこからやり直す必要があります。……ミスター・マリアットとミス・ムーアクロフトのこと、お悔やみ申し上げます。二人は私にとっても大切な教え子でした」

 

「あー、いや、それはあたしが先手を打ったせいで、先生のせいじゃないっつうか……まあ、ありがとうございます」

 

 

 マクゴナガルは本当に沈痛そうな表情だった。思い返せば、ジュリアの母はレイブンクローの生徒であったにもかかわらず、マクゴナガルに師事してアニメーガスになった。そして、それはジュリアの父のためだった。

 

 ジュリアの父、ヘクター・マリアットはどこにでもいる人狼だった。フェンリール・ファッキン・グレイバックとかいう子供でも恥ずかしがるようなダサい名前――ジュリアは本心からそう思っている――に噛まれ、苦しい日々を送っていた。

 

 しかし、とても心優しく、また友と恋人に恵まれていたために、無事学生生活を終えられたのだと、そう母から聞かされた。つまり惚気だ。

 

 二人とももういない。

 

 

「まあ、あれっすね。先生のおかげで母さんはスパルタ教育の術を身につけてたし、そのおかげであたしは母さんが父さんのとこに逝っちまったあとも生きてこれたし。あたしはもっと感謝しなきゃいけねえっつうわけだ。ありがとうございます」

 

「いいえ、いいえ……その感謝を受け取る資格は、私にはないのです、ミス・マリアット。戦争が終わった後、ヘクターを喪ったエレンのそばに私がいれば。そうであれば、服毒自殺など」

 

「――そいつぁ了見違いだ、マクゴナガル」

 

 

 涙をこぼそうとしたマクゴナガルに、ジュリアの冷徹な言葉が刺さった。こんなにも冷たい声が出せるのかと、ジュリアは内心で驚いてすらいた。

 

 

「確かにエレン・マリアットは服毒自殺した。だが、だがよ。あんたならわかるだろ。母さんは一時の感情に身を委ねて取り返しのつかないことをする生き物じゃねえ」

 

 

 まだジュリアが7歳のころだった。

 

 いつも通りストリートチルドレンの格好をして、魔法薬の材料を刻んでいる母を邪魔しないように挨拶だけして出発して、1ヶ月契約だったバイトを終わらせて、初めての給料なんてものに心を躍らせながら、自宅へ帰った。

 

 出迎える声がなくて、大鍋が煮える音もなくて、母はベッドで横になっていた。てっきり遅めの昼寝でもしているのかと思って、買ってきたケーキをテーブルに出して、紅茶を淹れる準備をした。

 

 バスを乗り継いで、薬瓶を握りしめて聖マンゴに駆け込んだのは、大鍋の横に母のノートと遺書が置かれているのを見つけた直後だった。しかし、母の後輩だという癒者を連れて自宅に戻ったが、どんな呪文も解毒薬も意味を成さなかった。そういう魔法薬だったのだ、母がずっと調合していたのは。

 

 初めて、母の幸せそうな笑顔を見た。

 

 

「計算に計算を重ねて、あの人にしかわからねえ方程式から解を導いて、ようやく父さんのところに戻ったんだ。その解は、おそらくあたしが一人で生きていく力を身につける時を指し示していた。それだけの話だ、そうだろうが。なあ。あんたが一番よく知ってんじゃねえのかよ!」

 

 

 机を叩いた拳が鈍く痛んだ。そしてその痛みがすっと消えるころには、マクゴナガルの涙も消えていた。

 

 ジュリアは別にマクゴナガルが薄情だとも、無責任だとも思っていない。ただ、自分が記憶している唯一の家族を誤った文脈で語られたくなかった。それだけだ。

 

 

「……そう、ですね。ミス・ムーアクロフトはレイブンクローきっての成績優秀者でした。そして、それ以上に、スリザリンを思わせるような計算高い人物でもありました。もちろん、愛情深い魔女でしたが」

 

「あー、そのへんは散々聞かされてるんで飛ばしてくれ。完璧に計算され尽くしたデートだとか、精力剤と叫びの屋敷だとか、そのへん。自分の娘に話すかっつうの」

 

「彼女なりの思い出話だったのでしょう。夫の思い出が我が子にないというのは、きっと辛いことでしょうから」

 

 

 マクゴナガルはぎこちなく微笑んでみせると、杖を振ってティーセットを出した。

 

 

「砂糖とミルクは?」

 

「いや、ストレートで。……うまい。紅茶をおいしく淹れる呪文だけは習得したいっすね、いやほんと」

 

「意外ですね。ジャンクフードとコーラのほうが好みかと」

 

 

 大した理由ではない。母の唯一のわがままが紅茶で、ジュリアに淹れさせては「ヘクターはもっと上手に淹れたわ」と真顔で文句を言うのだ。それも砂糖とミルクたっぷりで。

 

 そのせいで、結局ファーストフード店よりも喫茶店のキッチンバイトに入った経験のほうがはるかに多い。ジャンクフードを口にしたことなど数えるほどしかないだろう。ステーキのつけ合わせのポテトは別として。

 

 

「それで、先生。昔話のための居残りじゃないんだろ?」

 

「ええ……ええ。あなたの蛮勇はしっかりと見届けました。かつてのジェームズたちを彷彿とさせる、グリフィンドールの悪い面です」

 

「フォースの暗黒面ってやつか」

 

「何か?」

 

 

 ジュリアは返事の代わりにカップを口に運んだ。

 

 

「あなたはハン・ソロではなく、ルーク・スカイウォーカーを目指すべきです」

 

「いや知ってんならツッコんでくださいよ」

 

 

 あやうくマクゴナガルの顔面に紅茶を吹きかけるところだった。それはあまりにシュールな光景だ。ジュリアはカップをソーサーに置くと、背伸びをして首を鳴らした。

 

 しかし、挙がった名前がどちらも男ときた。ジュリアは別に乙女として見られたいなどと思ってはいないが、もっと他に候補はあったのではないか。ジャンヌ・ダルクとか、フローレンス・ナイチンゲールとか、あるいはマクゴナガル自身とかでも面白い。

 

 

「あなたはミス・ムーアクロフトの悪い部分も受け継いだように見えます。つまり、人間関係において計算と理屈が先にくることです。あなた自身は計算づくで動いていないにもかかわらず」

 

「あー、確かにハーマイオニーとの関係は計算じゃうまくいかない。これまでの考え方を一度白紙に戻す必要がある。そいつはわかってるよ」

 

「そしてあなたは別の計算と理屈を捻り出すのでしょう。自分自身が従えないルールを」

 

 

 柱時計の振り子が鳴らす均一なリズムだけが部屋の空気を振動させていた。

 

 ジュリアにもマクゴナガルが言いたいことはなんとなくわかっていた。つまるところ、もっと子供らしく振る舞え、無邪気に接しろ、そういうことなのだろう。

 

 しかし、ジュリアが母に教わった「人付き合い」とは計算、理屈、パターン、ルール、そういうものだった。そして、母が死んでからはその知識を最大限に活用して、その場限りの「お友達」を渡り歩いてきた。

 

 つまり、ジュリアは友人との接し方をまだ知らないのだ。

 

 ハリーは「生き残った男の子に対してではなく、魔法界の友だちに対しての態度で接してくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにロールプレイした。結果としてハリーはジュリアを友人と見なしている。

 

 ロンは「ウィーズリー家の冴えない末弟から自分を脱却させてくれる、近い距離で導いてくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにリードした。結果としてロンはジュリアを友人と見なしている。

 

 ハーマイオニーは「未知の世界で弱い自分を支えつつ、自分の努力と実力を尊重してくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにカードを切った。結果としてハーマイオニーはジュリアを友人と見なしている。

 

 

「どうしろっつうんだよ」

 

「質問は明確に、ミス・マリアット」

 

「……あたしは計算と理屈での人付き合いしか知らねえ、そんなことはとっくに自覚してんだよ。母さんが教えてくれた人付き合いってのはそういうもんだった! でも、でも、それじゃあだめだってんなら」

 

 

 落ち着け、ジュリア・マリアット。呼吸を荒らげるな。思考を乱すな。ジュリアは頭の中に焼き付けるくらい自己暗示をかけようとして、それでも、気づけば頬に雫が伝っている。

 

 この賢い魔女に泣き顔を見られたくなくて、ジュリアは俯いて膝の上の拳を震わせた。

 

 ジュリアだって、友人になりたいと思っているのだ。

 

 

「あたしは、どうすりゃいいんだよ」

 

 

 マクゴナガルは黙って紅茶にミルクを垂らすと、カップを口に運んだ。静かだった。ただただ、静かで、だからジュリアは自分のしゃくり上げる声が耳障りだった。

 

 

「なるほど、それしか知らない、と。どうやら認識の齟齬があるようですね」

 

「……は?」

 

 

 マクゴナガルがカップを置き、杖を振ってティーセットを消し去った。ジュリアは母が言っていた法則を思い出した。ガンプの元素変容の法則だ。でも、今はどうでもいいことだった。

 

 

「しかし、その齟齬は自ら解消すべきものでしょう。……ミス・グレンジャーは聡明かつ勇敢な魔女です。ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーとも親交があるようですね。二人とも少々問題はありますが、純朴かつ快活な少年です。ああ、ミスター・マルフォイとの間には少々トラブルを抱えているそうですね」

 

「……趣味、わりいぞ。生徒の素行調査かよ」

 

「寮監ですから」

 

 

 マクゴナガルはすまし顔で立ち上がると、時計にちらりと目をやった。思えば随分と話し込んでいる。次の授業は……なんだったか。まるで記憶がにじんでいるようだ。

 

 マクゴナガルにつられてジュリアも立ち上がる。マクゴナガルは杖の一振りで椅子も消し去ると、棚から書類の束を呼び寄せた。どうやら上級生のレポートのようだ。

 

 

「私はこれからこのレポートを添削します。多少ずるをした生徒もいるでしょうが、多くは真剣に取り組んでいることでしょう。間違っていたとしても、ここには学びがあります。わかりますか、ミス・マリアット。ホグワーツには学びがあるのです」

 

 

 ジュリアはその声の柔らかさと優しさに驚いて、返事ができなかった。

 

 マクゴナガルは誇らしげに微笑んでいる。それは自慢でも陶酔でもなく、教師としての誇りと優しさを最大限に発露させたもののように思えた。

 

 

「学べばよいのです、ミス・マリアット。どうやらあなたはすでに授業だけがホグワーツで得られるすべての学びではないと理解しつつあるようですから、これに関してもさほど難しい課題ではないでしょう。いい報告を期待していますよ」

 

「……ひとつ、認識の齟齬ってやつがあるみてえだから言っとく」

 

 

 ジュリアは目元を手の甲でこすってから、マクゴナガルの微笑みに不敵な笑みで返してみせた。

 

 

「ハン・ソロはアウトローの皮肉屋だが、友誼に篤いイカした男だ。エピソード6を復習するんだな」

 

「まったく……口の減らない子です。さあ、お行きなさい。スプラウト先生の薬草学に遅れますよ」

 

「げえっ、温室じゃねえか。急がねえとハーマイオニーに説教食らうな。失礼するぜ」

 

 

 ジュリアは転がるようにマクゴナガルの執務室から飛び出ていった。だから、その背に向けられた穏やかな、少しだけの心配を隠した視線には気づかなかった。

 

 

「どうか、あなたが苦難を乗り越えて、また今のように笑えますように。ヘクターとエレンの子」

 

 

 


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