それは、ダフネにとって真実、何よりも恐ろしいものだった。
自分の親友であるアルテが体中に血化粧を施している姿。
それだけであれば、トラウマにこそなれど忌避する、恐怖の対象にはならなかったかもしれない。
ボガートが化けたアルテの姿がダフネの恐怖として刻まれた最大の要因は、あの笑顔だった。
バジリスクを打倒し、死に瀕したアルテが、既に動かない体を無理にでも動かして
そして遂にその命に触れたことによる至上の喜び。
闇の帝王など、最早恐怖の比較にはならなかった。
嬉々として日記を引き千切るアルテこそが、ダフネにとっては怖かった。
それは違うと、ボガートが変わる筈がないと、自分に言い聞かせた。
闇の帝王に変わってほしい。その方が何倍もマシだ、と。
しかしながらボガートはその偽りを見抜いてしまった。
自分の中に押し込めておけば良かったその姿を、生徒たちに晒してしまった。
「……そうか」
――リーマスに打ち明けるのは、心苦しかった。
彼は深刻な顔でダフネの言葉を聞いていた。
「……継承者と『秘密の部屋』の怪物を倒したことは知っていた。その場にダフネ、君もいたんだね」
「……はい」
リーマスは熱い紅茶を喉に流す。
ダフネは、アルテと共に闇の帝王と戦った。
であれば、話しても良いと思った。
「……アルテは、話すことが出来るようになった頃から、闇の帝王への執着を見せていたんだ。他の誰でもない、自分自身が倒すとね」
「な、なんで、そんな……」
「……私にも分からない。アルテとはね、一歳の時、森の中で出会ったんだ。その年齢さえ確かじゃない。腕に巻かれていた腕輪のプレートに日付が記されていたことからの仮定だ。ダンブルドア校長は、闇の帝王に抗する何らかの組織か一族かが作ったホムンクルス――つまりは人造人間だと考えている」
錬金術によって人に近しいモノを作り出すという技術は、あくまで理論上可能とされているが成功例は存在しない。
人型を鋳造することが出来ても、それに魂を作り上げ、自在な思考を与えることが出来ないのだ。
近しい闇の魔法は存在する。幾つかの材料で新たな肉体を作り上げる、という外法だ。
だが、それは新たな器に注ぐ魂が元よりあってこそのこと。
魂を用意できなければ、どんな人型を作ったとしても、操り手がいなければ何も出来ない人形に過ぎない。
だが、アルテはそんな理論の上の技術を以て作られたのではないか。
闇の帝王を滅ぼすという統一された方向性から魂を作り上げ、ホムンクルスとして完成させたのではないか。
ダンブルドアはそう考えた。
可能性はごく低い。だが、理論上可能ということは不可能ではない、ということだ。
事実、保護して間もない頃でさえ、触れれば精神を破壊されるほどの、闇の帝王が作り出した道具を単独で破壊せしめた。
絶対的に“彼”を滅ぼすことに特化した存在。はじめから役目を与えられているそれは、現在知られている技術ではホムンクルスでなければあり得ないのだ。
「君が見たという笑顔は、本来の役割を前にしてのことだと思う。私は、彼女に色々なことを教えた。間違ったことは間違いだとも教えてきた。だけど……アルテが存在意義だと考えているそれだけは、変えられなかった」
「存在意義って……でも、例のあの人は……」
「そう。もう闇の帝王は滅んでいる。アルテはそれでも己の役割を疑っていない。危険なんだ、とても。私は、例え闇の帝王が滅んでいなかったとしても、アルテに危険に飛び込んでほしくはない。この二年間は、奇跡的に助かったんだ」
親として、教師として、大人として、アルテが戦うことなど容認できなかった。
少なくとも、闇の帝王に相対した時だけ笑みを浮かべるなど、到底認めたくない。
――その気持ちは、ダフネも同じだった。
だけど、誰が言っても彼女は止まらない。きっと闇の帝王を前にすれば、何をしている最中だろうと全て投げ捨ててそこへ向かう。
そうなった時の末路など、分かり切っている。
これまでのものは単なる奇跡、偶然に過ぎなかったなど当たり前だ。
ダフネはあのトム・リドルがアルテを嬲る目的で生かしていたことを知っている。
拷問など掛けずとも一瞬で命を奪う恐ろしい魔法を、あの闇の帝王が知らない筈がないのだ。
「アルテには、その部分を変えてほしい。難しいのは分かっている。けど、不可能じゃないはずだ。君たち友人と共にあることで、アルテは変わることが出来ていると思う。自分が普通の魔女として在って良いのだと、いつかアルテに思わせることは、絶対出来る」
自分の役割がそれだけだと、存在意義がそれだけだと決め付けているアルテを、すぐに変えることなど出来ない。
だが、彼女たちという友人の中にあれば、いずれ己に別の価値を見出せると、リーマスはそう考えていた。
一年、二年と、長い時間が掛かるだろう。
少しずつでも変化を齎していくことは出来る。
「……私も、アルテには変わってほしい。ちゃんとした笑顔を浮かべてほしい。そのためなら、何だってできます」
「君が危険になったら本末転倒だよ。だから、君にはあくまで友人としてこれからもアルテと付き合ってほしい。私がわざわざ言うことでもないかもしれないけど」
「はい。そのつもりです。どんな一面があったにしても、アルテは私の親友ですから」
やはりこの子に打ち明けたのは間違いではなかった、とリーマスは確信した。
彼女が傍にいれば、アルテは絶対に変わることが出来るだろう。
「……うん。それが聞ければ、私からはもう何もない。授業は……まだ間に合うか。顔は出しておくといい。話は通しているけど、宿題が出ているかもだからね」
「――はい。その前に」
ダフネも打ち明けたことで随分気が楽になった。
秘密を他人と共有するということは、精神的に大きな助けとなる。
ゆえに、思考に余裕が出来た。この打ってつけの場で言うべきことを思い出すくらいには。
「もう幾つか、アルテについてお話があります。ルーピン先生にではなく、アルテのお義父さんに」
「ん? なんだい?」
「アルテの倫理観についてです」
リーマスが固まった。思い当たる節がある、という反応だった。
「女の子らしさの無さ、寝る時に脱ぐ癖、裸でいること羞恥心の無さ。まだまだあります。一つ一つについて、どういう方針で教育なさっていたかお聞きしたいんですが」
「あ、いや、それについては本当に申し訳ないというか」
「とにかくアルテは無防備過ぎるんです! 去年ロックハートに求婚されたときも何されたかすら分かってなかったんですよ! 危なっかしいってレベルじゃないんです!」
「求婚!? ま、待つんだ、それは聞いてない!」
ダフネはホグワーツにおける保護者として、リーマスに溜まった不満をぶちまける。
リーマス自体も初めて知ったロックハートの蛮行に混乱し、しかしダフネは止まらない。
不満の吐露は二時限目が終わるまで続いた。
三年次から始まる、選択科目。
昼食の後からある『魔法生物学』はアルテも取った科目であった。
昨日の雨は上がり、薄鼠色の空が広がっている。
この科目は四人組が全員取った科目であり、アルテたちは揃って禁じられた森の端にあるハグリッドの小屋に向かっていた。
スリザリンとグリフィンドールの合同授業だ。ハリーら三人は何やらぎくしゃくしつつも、バラバラになることなく集まっている。
ミリセントとパンジーは、先のボガートが気になっていたものの、ダフネの『心の整理がつくまで聞かないでほしい』という頼みにより、疑問を押し込めた。
またもやアルテは他のスリザリン生から距離を置かれることになってしまったが――アルテ自身はやはり気にしていないようだった。
「ところで、誰かこの教科書まともに開けた?」
「無理。何よこれ。馬鹿げてるにも程があるっての」
今年の魔法生物学の教科書として選ばれた『怪物的な怪物の本』は、暴れ回り本同士で取っ組み合い噛みつくというとんでもない本だ。
表紙を留めておかなければ大惨事になるため、誰もがベルトやロープで縛ったり、袋に押し込んだりしていた。
アルテも買ってこそいたが、その本性は知らなかった。
買ったものがちょうど疲弊したものであったらしく、その隙に店員に縛られたものだったのだ。
ゆえに、戦々恐々としているミリセントたちをアルテは怪訝に思いながら、紐を解いていく。
どのみちこのままでは開くこともままならない。
「あ、アルテ、やめといた方が――」
「……? 何で――」
次の瞬間紐が解け、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように本が暴れ出した。
「ッ」
「アルテ!」
その勢いで引っ繰り返ったアルテはすぐに状況を把握し、本と格闘を始めた。
濡れた庭に転がり、泥だらけになることも厭わず、目の前の敵に立ち向かう。
――いや、そんな大それた話でもないのだが、誰しもが苦戦していた本との格闘だ。関心を集めない筈がない。
「な、なんだ? ルーピンがまた何かやってんのか?」
「すげぇ……あの本とやり合ってる……」
「ほら、結局ああするしかこの本はどうにも出来ないのよ。こんなのを教材にするなんてどうかしてるわ」
このようにまともに戦えもしない限り、この本は扱えない。
この光景はその証左であり、バジリスクさえ討伐した彼女でもなければ無理な話だ、とこれを見た生徒たちは思う。
本と取っ組み合いながら坂を転がっていったアルテは、ダフネたちが慌てて走り追いついたころにはその戦闘を終えていた。
「アルテ、あんた……」
「……」
立ち上がったアルテは、授業が始まる前から泥だらけになっていた。
争っている間に落とした帽子を拾ってきたダフネは、呆れて物が言えなかった。
制服は破れてこそいないが乱れているし、今朝ダフネが梳かした髪もまた寝起きのようにくしゃくしゃになっている。
その頭のてっぺんに、帽子のように覆いかぶさっている――というか、噛みついている本。
それをアルテが引き抜けば、本は大人しくなっていた。
「開けた」
「……それ出来るの、あんただけだから……」
「多分本と取っ組み合いする生徒なんて前代未聞よ、アルテ……」
「そういうところだっての、アルテ……!」
ダフネは帽子を返しながら、『スコージファイ』で汚れを清めていく。
アルテが原因でダフネはこの魔法が随分上達していた。
汚れは取れても服や髪の乱れは直らない。
そしてそれを気にしないアルテは帽子を被りなおし、開いた本をぶら下げて再び歩き出す。
「……そういえば、ルーピン先生に言ったのよね、ダフネ」
「うん……ただ……授業はともかく普段の生活の方は駄目駄目っぽい」
「やっぱり……私たちがどうにかするしかないって事よね」
まあ、あのくらいなら気にするまでもないだろう、と判断する。
幸いこれから始まるのは魔法生物学だ。
防衛術ならともかく、ハグリッドの授業であればあの状態でも気にはされないだろう。
「さあ、急げ。早く来いや!」
生徒たちが集まると、ハグリッドが声を上げる。
厚手木綿のオーバーを着込み、足元にボアハウンド犬のファングを連れていた。
「今日は皆にいいもんがある。凄い授業だぞ! よーし、ついてこいや!」
一瞬ハグリッドは森に連れていくのではないか、と生徒たちの足が止まった。
入ってはならないと毎年ダンブルドアが言っていることだ。
ハリーやドラコなんかは一年次、森でとびっきりの嫌な思いをしているし、ドラコはそこであった出来事がボガートになってしまう程のものだった。
それにハリーとロンは去年、あの場所で怪物の手がかりを掴むためアクロマンチュラのアラゴグに会いに行った。それも彼らにとっては嫌な思い出だった。
ハグリッドは森の縁に沿ってどんどん歩き、五分後に放牧場のような場所に到着した。
「皆、ここの柵の周りに集まれ! そーだ、ちゃんと見えるように……イッチ番最初にやるこたぁ教科書を開くこった」
「どうやって?」
ドラコがハグリッドの言葉を遮った。
「どうやって教科書を開けっていうんです? アルテみたく本と取っ組み合えって?」
ハグリッドは付いてきた生徒たちを見渡す。
髪がくしゃくしゃになっているアルテが、己より力強い相手に従うように大人しくなっている本をぶら下げているくらいだった。
「る、ルーピンだけか? 他にはだーれも教科書を開けなんだのか?」
ハグリッドはがっくりと肩を落とした。
「お前さんたち、撫ぜりゃー良かったんだ」
当たり前の事なのに、と言いたげにハグリッドはハーマイオニーの教科書を取り上げた。
本を縛り付けていたスペロテープを剥がし、暴れようとした本の背表紙を、巨大な親指で一撫でする。
すると本はブルリと震え、開いて大人しくなった。
「ああ、僕たちってなんて愚かだったんだろう! 撫ぜりゃ良かったんだ! どうして思いつかなかったのかねぇ!」
「お……俺はこいつらが愉快なやつらだと思ったんだが」
鼻先で笑うドラコにハグリッドは愕然と答える。
「ああ、恐ろしく愉快ですよ。僕たちの手を噛み切ろうとする本を持たせるなんてまったくユーモアたっぷりだ!」
「黙れ、マルフォイ」
うなだれるハグリッドに攻め寄るドラコに、ハリーが静かに言った。
ハリーとしても理解しがたい教科書ではあったものの、ハグリッドの友人として彼の初授業をどうにか成功させてやりたかった。
「えーっと……そんじゃあ、こんだぁ魔法生物が必要だ。そんじゃ、俺が連れてくる。待っとれよ」
やることを思い出しながら、ハグリッドは大股で森へと入っていく。
「まったく、この学校はどうなってるんだろうねぇ。あのウドの大木が教えるなんて、父上に申し上げたら卒倒なさるんだろうなぁ」
「黙れ、マルフォイ!」
「去年も大概だったけど、今年は特に酷い。なあポッター、君ら防衛術はまだだろう? こっちの木偶の坊も酷いが向こうも中々だ。何だか年々まともじゃなくなって――」
よせばいいのに、余計な方向にまで飛び火したドラコの嫌味に、取り巻きのクラッブとゴイルはトロールのような頭に似付かわしくない程素早く危険を悟り、離れていった。
一応、ダフネたちに取り押さえられ、アルテが飛び出すことはなかった。
仕方なくアルテが本をドラコに放る。命令を受けたように突然活き活きとしだした本がドラコに襲い掛かった。
「……今のはドラコの自業自得ね」
悲鳴を上げるドラコを、彼に気のあるパンジーも流石に擁護出来なかった。
ハグリッドを馬鹿にするだけであれば喜んで便乗してやれたのに、何故敵に回さなくてもいい方向に火を点けてしまうのか。
確かにトラブルはあったし、人の恐怖を無造作に暴き立てたのは問題だろう。
だが妖怪と戦う実践経験を積むという面では非常に有効だったし、教え方も見事だった。
アルテの餌食になるということを抜いても、あえて嫌味を言うほどのものではなかったのだ。
大暴れする本に襲われるドラコをグリフィンドール生は爆笑しながら見守る。
どうにか怪我なく本を振り払ったドラコを追撃しようとする本だが、とりあえず気は晴れたのかアルテがその本に近付くと、本はそちらを向いて暴れるのを止めた。
どうやら完全に主を認識したらしい。
「あ、アルテ、何するんだ!」
「手が滑った」
アルテなりに二年間で覚えた冗談だった。
その、どうでも良いような声色に今度はスリザリン生も笑う。
そうしている間に、ハグリッドが魔法生物を連れて来た。
誰もが見たことないような奇妙な生き物が十数頭、早足で向かってくる。
奇妙ながら、その姿には威厳があった。
胴体から後ろ足、尻尾は馬で、頭から前足、そして羽根は巨大な鳥の形をしていた。
鋼色の嘴とオレンジ色の目は、鷲にそっくりだ。前足の鉤爪は十五センチ以上もあり、見るからに殺傷力があった。
それぞれの首輪から伸びる鎖の端をハグリッドが纏めて握っている。
「ヒッポグリフだ! 美しかろう? もうちっとこっちこいや」
半鳥半馬の生き物を、ハグリッドは嬉しそうに紹介する。
ハグリッドの言葉に従って近づいたのは、ごく僅かな生徒だけだった。
「まずイッチ番先に知らなければなんねぇことは、こいつらは誇り高い。すぐ怒るぞ。絶対侮辱しちゃなんねえ。そんなことしてみろ、それがお前さんたちの最後のしわざになるかもしんねえぞ」
ドラコにクラッブ、ゴイルは聞いてもいなかった。
懲りずにどうやったら授業をぶち壊しに出来るか企んでいるのだろう。
「かならずヒッポグリフから動くのを待つんだ。それが礼儀ってもんだ。こいつの傍まで歩いて、そんでもってお辞儀をする。こいつがお辞儀を返したら触っても良いっちゅうことだ。もしお辞儀を返さなんだら素早く離れろ。こいつの鉤爪は痛いからな。さて、誰が一番乗りだ?」
殆どの生徒が答える代わりに後退りした。
しかし、それでは授業が進まない。ハリーが息を呑んで名乗り出た。
「偉いぞ、ハリー! よーし、そんじゃ、バックビークとやってみよう」
ハグリッドは鎖を一本解き、灰色のヒッポグリフを群れから引き離した。
そうしている間にハリーは放牧場の柵を乗り越え近付いていく。
その様を他の生徒たちは息を呑んで見守る。ドラコは意地悪く目を細めていた。
「さあ、落ち着けハリー。目を逸らすなよ、なるべく瞬きするな。ヒッポグリフは目をしょぼしょぼさせるやつを信用せんからな……」
あえて言われると、たちまち目が潤んできた。
バックビークは巨大な、鋭い頭をハリーの方へ向け、猛々しい目の片方でハリーを睨んでいた。
「そーだ、ハリー。それでええ……それ、お辞儀だ……」
ハリーは軽く頭を下げる。
それを暫く見下ろしていたバックビーク。
そして、やがて応じるように鱗に覆われた前脚を折り、ハリーと同じ位置まで頭を下ろした。
「やったぞハリー! よーし、触ってもええぞ、嘴を撫でてやれ、ほれ!」
ハグリッドが狂喜する。
ハリーとしては下がってもいいと言われた方がご褒美だったが、とにかくゆっくりとバックビークに近寄った。
手を伸ばし、何度か嘴を撫でると、バックビークはそれを楽しむかのように目を閉じた。
その成功に生徒たちは拍手する。ドラコたちはひどくがっかりしていた。
「そんじゃハリー、こいつはお前さんを背中に乗せてくれると思うぞ」
「え!?」
ハグリッドはハリーを抱え上げ、バックビークに乗せた。
箒ならお手の物だが、ヒッポグリフは全く違う。
一面羽根に覆われていて、何処を掴めばいいのか分からない。
「羽根を引っこ抜かねえよう気を付けろ。嫌がるからな……そーれ行け!」
ハグリッドはバックビークの尻を叩く。
なんの前触れもなしに、四メートルもの翼がハリーの左右で開いた。
かろうじてハリーが首の周りにしがみ付くと、バックビークは空高く飛翔した。
箒と快適さは大違いだ。いつ降り落とされるか気が気でなく、飛ぶのを楽しんでいる時間はなかった。
放牧場の上空を一周すると、バックビークは降りてくる。
着地するとハグリッドをはじめとして、その場の面々が歓声を上げる。
「よーくできたハリー! よし、よーし! 他にやってみたいモンはおるか?」
バックビークからハリーが下りる。
ハリーの成功に励まされ、ほかの生徒も恐々と放牧場に入った。
アルテは表情を変えぬまま、同じように入っていく。
その瞳は一頭のヒッポグリフに向けられている。
偶然、彼らがここに来た時、目が合った一頭。
それからどちらも目を逸らさない。
――アルテは初めて、己の心臓の音というものを聞いた気がした。
呆然と、まっすぐ歩み寄り、ハグリッドがその一頭を解き放つと、向こうからもゆっくりと歩んでくる。
黒一色の荒れた毛だった。
細い目は、しかし鋭くアルテを見据えている。
一メートルほどの距離を開け、アルテとそのヒッポグリフは立ち止まった。
「アルテ、お辞儀! お辞儀!」
互いの間で何が交わされているのか、誰にも分からなかった。
冷や汗を流すダフネに耳も貸さず、アルテは黒い一頭と見つめ合っている。
「……」
――どちらともなく近付いて、伸ばした手と嘴が触れ合った。
それはまるで互いが惹かれ合ったようで、頭を下げることなく、認めたのだ。
「不思議なこともあるもんだ。イッチ番、気難しくて人嫌いなオリオンが認めるなんて。そいつはまだ誰にも頭下げたことがねぇヤツなんだ」
なら何故連れて来たのか、と辺りの生徒は思わずにはいられなかった。
人嫌いでお辞儀したことのないヒッポグリフなど、この授業に最も向いていない個体だ。
しかしながら今のそのヒッポグリフ――オリオンに人嫌いという印象はない。
アルテに撫でられ大人しくしているオリオンは、それに対するように嘴をアルテの頬に寄せている。
既に信頼感が生まれているようだった。アルテの手をオリオンは静かに受け入れ、アルテも、頬を撫でる羽毛の感触を心地よく感じていた。
ダフネは、普段自分に向けている無防備なものとも、リーマスに向けているものとも、今のアルテが放つ雰囲気は違うと感じた。
そんな中、バックビークに近付いたドラコは、頭を下げることなく嘴を撫でていた。
「簡単じゃないか。お前、全然危険なんかじゃないなぁ? そうだろう? 醜いデカブツの野獣君」
ドラコが冷たく笑った瞬間、鋼色の鉤爪が光った。
大きく仰け反って倒れたドラコのローブは見る間に血に染まり、草の上で身を丸める。
慌ててハグリッドが駆け寄り、バックビークに首輪を付けようと格闘する。
「し、死んじゃう! 見てよ! あいつ、僕を殺した!」
「死にゃせん!」
バックビークを抑えたハグリッドが蒼白になって言う。
生徒たちはパニックになっていた。
「この子をこっから連れ出さにゃ!」
ドラコの腕には深々と長い裂け目が走っていた。
血が草地に点々と飛び散っている。
ひんひんと泣き喚くドラコを抱え、ハグリッドは城に向かって坂を駆け上がっていった。
生徒たちはショックを受けて、慌ててついていく。
「すぐにクビにするべきよ!」
「マルフォイが悪いんだ!」
泣きながらパンジーはハグリッドを罵倒し、グリフィンドールのディーン・トーマスは顔を青くしながら言い返す。
ハグリッドの初授業は、大失敗に終わった。
「私たちも行きましょう、マルフォイはともかくパンジーも行っちゃったし」
「そうだね。行こう、アルテ」
ともかく授業はこれで中止だ。
アルテの手を引いてオリオンから引き剥がし、城へと向かっていく。
「……アルテ?」
放牧場を離れている最中、ずっとアルテはオリオンをぽけっと見ていた。
オリオンも、追わないながらアルテから目を離さず、見えなくなるまで首を動かさなかった。
妙に様子のおかしいアルテを不思議に思いつつも、今はそれどころではないとダフネたちは城へと歩く。
その様子の理由は、ダフネにも、ミリセントにも――アルテ自身にも、わかっていなかった。
――その、アルテにとっても訳の分からない感情の正体を知るのは、随分と先のことになる。
※ヴォルデモート<<<<<血みどろアルテ。
※ホムンクルス疑惑。
※アルテを普通の女の子にしたい同盟。
※アルテのおかん役からの追及タイム。
※色々知ったリーマス。
※本と戦うアルテ。
※そういうところだぞアルテ。
※義父に呆れる保護者組。
※アルテ「本、かみつく」 本「ピカチュー!」
※目と目が合う瞬間云々。
※黒ヒッポグリフ、オリオンとの出会い。
※なんか様子のおかしいアルテ。
※次回は明日二十一時の予約投稿となります。