トンネルを戻る一行は、静かだった。
途中リーマスからシリウスにバトンタッチしたスネイプの運搬は、実に雑なものだ。
あちらこちらに体をぶつけ、土だらけになっている。
リーマスとアルテはピーターに杖を突き付けながら歩いている。
リーマスは、アルテの目付けも兼ねていた。
アルテのピーターへの怒りはかなりのものだ。
ともすれば、シリウスに向けていたものをも超えているかもしれない。
「……こいつを引き渡すということ、それがどういうことか、分かるかい?」
トンネルの後半に差し掛かった辺りで、シリウスは出し抜けにハリーに話しかけた。
「――貴方が自由の身になる」
「そうだ……しかし、それだけではない。誰かに聞いたかもわからないが、私は君の名付け親でもあるんだよ」
「ええ、知ってます」
ハリーが頷く。
シリウスは緊張した面持ちで、一つ息を呑んだ。
「つまり……君の両親が、私を君の後見人に決めたのだ。もし、自分たちの身に何かあれば……とね」
ハリーは黙って、次の言葉を待っていた。
シリウスが何を言おうとしているのか、たった一つ、予想があった。
その予想はハリーの希望でもあった。そうあってほしいと、ハリーは何処かで願っていた。
「……勿論、君がおじさんやおばさんとこのまま一緒に暮らしたいというなら、その気持ちはよくわかるつもりだ。しかしだ、考えてほしい……私の汚名が晴れたら……もしも、君が……別の家族が欲しいと思うのなら……」
「――貴方と暮らすの?」
「無論、君はそんなことは望まないと思う。思うのだが――」
ハリーの中で、何かが爆発した。
思わずハリーは頭を大きく上げて、天井にぶつけた。
「とんでもない! 勿論、ダーズリーのところなんか出たいです! 住む家はありますか? 僕、いつ引っ越せますか?」
「――そうしたいのかい? 本気で?」
「ええ、本気です!」
痩せこけたシリウスの顔が、急に満面の笑顔になった。
まるで、十歳も若返ったのではと思う程に、その変化は劇的だった。
そしてその笑顔を見て気付く。ハリーが貰った、ハリーの両親の結婚式の写真で、快活に笑っていた名前も知らない男は彼だったのだと。
シリウスは、全てが救われたような面持ちだった。
それまでと同じ人間とは思えないほどに優しい笑顔が、ハリーには嬉しかった。
トンネルを出ると、クルックシャンクスが真っ先に木の幹のコブを押す。
大人しくなった枝は、誰も襲うことはなかった。
既に外は真っ暗だった。
灯りと言えば、遠くにうっすらと見える城の灯りだけだ。
全員が外に出て、籠っていない息を吸う。そうしてから――アルテは、シリウスに歩み寄った。
「ん?」
「……」
無言のままに、アルテは小さく頭を下げた。
僅かに困惑するシリウスに、ぼそりとアルテは呟く。
「……勘違いしたまま、魔法、使ったから……」
「……そんなことか。気にしなくていい。君はリーマスの――お父さんのために怒ったんだろう? もう終わったことなんだ。私も、何も気にしていない」
シリウスは骨ばった手を、アルテの帽子の上に置いた。
確かに魔法は受けた。特に『ディフィンド』で受けた裂傷は、スネイプの杖を奪ったついでに軽く止血をしておかなければ、危険だったかもしれない。
だがそれは、リーマスのための怒りあってこそ。それをシリウスは咎める気にはなれなかった。
リーマスは驚いていた。彼女が素直に謝るなどと、考えられないことだったからだ。
だが――それは良い成長だ。
シリウスも特段気にしてはいない。これからは彼とも、良い関係を築けるだろうと思った。
シリウスに導かれるようにアルテが木の被害を受けない安全圏まで行くと、低い鳴き声がアルテを迎えた。
闇に紛れ辺りと一体化するほどの黒。
その中に輝く爛々とした瞳――オリオンだ。
アルテの表情が一層明るくなり、オリオンに走り寄る。
ヒッポグリフは多くの生物の中で、取り分けプライドの高い種族だ。
普通こんなことをすれば気分を損ね、その爪の餌食になるだろう。
ヒッポグリフの特性を知っているリーマスとシリウスは思わず引き留めようとしたが――オリオンは何ら不満を見せることなくアルテを受け入れた。
オリオンはアルテに全幅の信頼を寄せているようで、アルテもまた、ほんの少しの警戒もしていなかった。
「アルテ……そのヒッポグリフは?」
恐る恐ると言った様子で、リーマスはアルテに問いかける。
「オリオン」
「あー……ハグリッドのヒッポグリフです。最初の授業でアルテと仲良くなったみたいで、魔法生物飼育学の授業中はずっと一緒なんです」
名前だけ答えたアルテを補足するように、ハーマイオニーが説明する。
もしかしたらアルテにとってはそれ以上の感情があるかもしれない――とハーマイオニーは薄々思っていたのだが、それは伏せておいた。
もしも真実であれば、既に今日数年分の出来事があっただろうリーマスのキャパシティを超えかねない。
「そうか……ヒッポグリフと仲良くなれる者は初めて見たよ」
リーマスは、アルテの意外な才能を見せられたような心持ちだった。
シリウスは何やら、そのオリオンという名前にひどく動揺していたが、深呼吸をして己を落ち着かせる。
妙にご機嫌になったアルテの隣を歩くオリオンを加え、一行は城へと真っ直ぐ向かった。
そこからは皆無言だった。
木を失ったスネイプがふらふらと浮き、ピーターが恐怖に震えているくらいで、それ以外の者たちは全員ピーターを警戒していた。
ピーターは少しも逃げられる可能性はない。
これだけの面々に見られていれば、たとえ図体の小さいネズミに化けようとも逃げ切ることは出来ない。
誤解の解消と、真犯人の確保。
全てが終わるだろうホグワーツ城の灯りがだんだんと大きくなってくる。
誰しもに、もう少しで終わるという安堵と油断があった。
ゆえに――全員が忘れていたし、手遅れになるまで気付きもしなかった。
「――――」
校庭にぼんやりとした影が落ちた。
急に辺りが明るくなったことに、皆が気付く。
空から降り注ぐ、青白い光。
月明かりだ――一行は特に感慨もなく空を見上げて――アルテとシリウスが大きく目を見開いた。
「ッ、リーマス!」
アルテはリーマスに駆け寄った。
シリウスは、ハリーたちを手で制止し、リーマスを注視する。
硬直していた。じっと月を見るリーマスの目が震えている。
その異様な様と、二人の反応、そして空に見える光と先程のスネイプの言葉とを重ね合わせれば、ハーマイオニーにも今の状況が理解できた。
「――先生は薬を今夜飲んでいない! 危険よアルテ、離れて!」
「逃げろ、四人とも、逃げなさい! 私に任せて!」
「リーマス! リーマスッ!」
シリウスの怒号が飛ぶ。だが、ハリーたちは逃げられなかった。
ロンは怪我をしており、走ることすら出来ないのだ。
アルテはリーマスの体を揺すり、呼びかけ続けている。
普段ならばそんなことはしない。だが、今は周りに人がいる。
誰にも被害を出す訳にはいかないのだ。
「ッ、ぁ――――」
低い声を零したリーマスの体が変化していく。
頭が、体が伸び、背が盛り上がる。体中に荒々しい毛が生え、手の先に鉤爪が伸びる。
並んだ鋭い牙を打ち鳴らす。
衝動的にその腕が動いた。その体を抑えていたアルテが弾き飛ばされ、ハリーたちの傍に転がってくる。
オリオンが鋭い金切声を上げた。
爪を輝かせ、リーマスに迫ろうとするのを見て、アルテが叫ぶ。
「オリオン、駄目!」
咄嗟に停止したオリオンの目の前を、巨大な黒犬が駆け抜けていく。
シリウスが変身した犬だ。ハリーたちを庇うように前に出てきたシリウスは、リーマスと揉み合い、互いに噛みつき始めた。
アルテは立ち上がり、戦う二人に歩いていく。
一旦シリウスが離れたタイミングで、リーマスはアルテに気付き――唸り声を止めた。
変身し、誰が誰かなんてわからなくなっている状態の筈なのに、リーマスはじっとアルテを見ている。
「あ、アルテ……? 危ないわ!」
「大丈夫――こうなったリーマスが自分から襲おうとするのは、人だけ」
アルテは帽子を取り、耳を立たせた。
犬の状態のシリウスが瞠目する。
当たり前のように、自分に向けて大人しくしているリーマスに、アルテはゆっくりと歩み寄る。
「リーマス――リーマスは、わたしと約束した。その姿になっても、誰も襲わないって。帰ろう、リーマス」
アルテはリーマスの傍まで歩いた。
襲い掛かる気配はまるでなく、彼に意識が残っているようだった。
落ち着かせるように、長い爪に手で触れる。
アルテの言葉が分かるように、その獰猛だった瞳が落ち着いたものへと変わっていく。
そして、アルテはそっとリーマスを城に導こうとして――
「――セクタムセンプラ! 切り裂け!」
背中から首筋、腕や足――広範囲を蹂躙するような鮮烈な痛みに、崩れ落ちた。
「え――」
飛んできた閃光が齎した結果――アルテの背に走った幾つもの切り傷に、ハリーたちは暫し呆然としていた。
蹲ったアルテの傍に生えていた草が、あっという間に真っ赤に染まっていく。
その魔法を放ったのが、リーマスが落とした杖に飛びついたピーターだと分かった時には、既に彼はネズミへと変わり、追うことも出来なくなっていた。
それを気にしている暇すらなかった。アルテの背中は鋭利なナイフで滅多切りにしたようで、裂傷を刻む『ディフィンド』では難しいほどの広さ、深さだ。
その場の二つの“獣”が吠えた。
シリウスでさえ見たことがないほどに激昂したリーマスと、細かった目を大きく広げて掠れたような声を上げるオリオン。
リーマスは狂ったように腕を振り回して辺りの草木を掻き毟り、オリオンもその鋭い爪でネズミが隠れていそうな草むらを踏みしめる。
シリウスは彼らの異常な怒りに思わず後退るも、すぐに冷静になり、アルテの傍まで駆け寄ると人の姿に戻った。
「エピスキー、癒えよ――応急措置だ、このままでは危ない。すぐに城に連れていかないと。だが……」
すぐさまアルテの傷に処置を施したシリウスは、しかし今の状況が気になって仕方ない様子だった。
暴れ狂うリーマスや、逃げ出したピーター、どちらも放っておけば手遅れになる。
ハリーたちにアルテを任せ、自分がこの場をどうにかしよう、そう決意した時。
「っ……」
「こ、こら! 重傷だぞ、大人しくしているんだ!」
「大、丈夫」
アルテがふらふらと立ち上がった。
痛みで視界が霞む。あまりの威力に意識を手放しかけていたが、今はそれをしてはいけないと思った。
今、自分にしか出来ないことを考えれば、痛みは消えた。
背中は妙に熱いのに、背筋から冷たくなっていくような感覚は不快だったが、それは――後でも良い。
「リーマスと、オリオンは、わたしが何とかする」
「キミ……」
目を細めるアルテに、シリウスは確たる信念を感じた。
まるでアズカバンを脱獄する決意をした己のような――。
それに動かされるのは間違いだと分かっていても、シリウスは咎めることが出来なかった。
昔ならいざ知らず、今のリーマス・ルーピンという男を誰よりも知っているのはこの少女なのだ。
であれば、彼を止めるなら自分よりこの子の方が相応しい――そう、感じざるを得なかった。
「……リーマスを頼む。私はピーターを追う。だが、無理はするな。君たち、この子に何かあれば、すぐに城に連れ帰るんだ。いいね?」
言うが早いか、シリウスは再び犬に変わり、走っていった。
その気配が遠くなっていくのを感じながら、アルテは二つの獣に向かって歩んでいく。
すぐに、離れたところから犬の悲痛な鳴き声が聞こえてきた。
居ても立っても居られないと、ハーマイオニーが止める間もなくハリーが駆け出した。
「――オリオン」
そんなことを、アルテは気にしない。
暴れ狂うオリオンと目が合った。
一瞬、戸惑った様子を見せたオリオンだが、すぐに怒りの表情のままに唸りを上げ、その翼を器用に動かし、アルテの肩に置く。
まるで、大人しくしていろ――自分たちに任せろ――と、告げているように。
しかし、アルテはその翼に手を置いて、じっとオリオンの目を見る。
「……わたしは、大丈夫。怒ったら駄目」
唸り声を止め、アルテを凝視するオリオン。
その嘴を愛おしそうに撫でると――視線を外しふらふらとリーマスに向かう。
今度はオリオンが追従した。
これ以上危険には晒すまいと、翼の片方を広げ、盾のようにアルテの背を守っている。
「――リーマスッ」
獰猛に振るわれる爪に、アルテは構うことなく歩いていく。
「危ない!」
顔を爪が掠める。
ロンが叫ぶ。ハーマイオニーは声すら上げることすら出来なかった。
目の前を通り抜けた腕をアルテは掴む。
獰猛な目を真っ向から見据える。
リーマスは、アルテに襲い掛かることはない。
「アルテ!」
「――この姿のリーマスとも、ずっと過ごしてきた」
アルテはその腕を離し、リーマスの懐に歩いていく。
オリオンは少し離れて立ち止まり――しかし、いつでもその爪をリーマスに突き立てられるように低く構えている。
「このままじゃあ、リーマスは誰かを襲ってしまうかもしれない。あんな男のために、そんなことしちゃ駄目。朝まで、一緒にいよう。その間、リーマスの手は、わたしが押さえてる」
その毛に包まれた大きな体を、アルテは力を込めずに抱き締める。
我を忘れている筈のリーマスは、アルテの小さな体をじっと見ていた。
ロンとハーマイオニーは、いつリーマスがアルテに向かって口を開けるか気が気でなかった。
しかし、そんな二人の心配とは裏腹に、リーマスは今一度唸りを上げることはなく、その場に立ち尽くしていた。
※シリウスとも和解。
※ヒッポグリフに駆け寄るアルテにビビるリーマスとシリウス。
※オリオンの名に反応するシリウス。別に彼との関係はないです。
※リーマスがアルテに見出す意外な才能。知らない方が幸せなこともある。
※やっぱり飲んでなかった薬。
※狼VS犬VSヒッポグリフ(未遂)。
※空気を読まないピーター渾身のパクリ呪文。
※三学年をノーダメで終われなかったアルテ。
※ピーターの意図としてはアルテを傷つけ場を混乱させて逃げ果せること。大成功。
※獣の奏者アルテ。
※大事なく収束。なおシリウスとハリー。あと放っとかれるスネイプ。