リーマスが大人しくなっているのが気まぐれではないと、ロンやハーマイオニーに分かったのと、辺りが不気味に冷たくなったのは、殆ど同時だった。
ロンも、ハーマイオニーも、冷水を全身に浴びたような錯覚に陥る。
その冷たさは、覚えがあった。
この一年間、何度かそれを味わっている。
今年この城の番人として招かれたアズカバンの看守――吸魂鬼だ。
悍ましい数が集まってきているのを感じた。
アルテたちの方ではない。そこから離れた――シリウスやハリーが走っていった方向だ。
ハーマイオニーは先のシリウスの悲鳴の正体を知る。
彼にとって吸魂鬼はさぞ恐怖の対象だろう。あの悍ましい生物を見て、恐慌に陥ってしまったのだ。
だとすれば――彼だけではなくハリーも危険だ。
駆け出そうとして、足は動かなかった。
幸福を吸い取られ、恐怖を煽ろうとするその冷たさが、すぐ傍からも感じられる。
「――ひっ!?」
いつの間にか、アルテたちの近くに一体の吸魂鬼がいた。
向こうの――湖の方に集まる異常な冷気から逸れたのか、それとも此方にもっと狙いやすい獲物を見つけたのか。
その姿を見てしまえば、脳漿も指先も冷え切ってしまう。
ロンたち二人は、あの生物たちへの対抗手段を持っていない。
逸れた一体だろうと、それは彼らにとって逃れ得ない絶望だった。
「……どいて」
――そんな二人の、冷たくなった耳に届いたのは、いつになく穏やかなアルテの声だった。
リーマスに体を預け、彼を極力刺激しないように力を抜くアルテは、その吸魂鬼にまっすぐ杖を向けている。
ハーマイオニーは必死でロンを引き摺り、その直線上から逃れる。
そして、二人を追おうとしたのか彼らに次いで動く素振りを見せた吸魂鬼に対し――アルテは今宵最後の魔法を唱えた。
「――エクスペクト・パトローナム」
結局、何を考えたわけでもない。
最も幸福な記憶――守護霊の魔法を使うためにそれを掘り起こそうとしても、何も浮かんでこない。
だから、いつも通りの魔法のようにそれを唱える。
相変わらずの、不快な感覚。
どうして、幸福がトリガーである筈の魔法がここまで不快なものなのか、アルテはここに来て初めて不思議に思った。
だが、今は構わない。この場でこの魔法の正しい効果が出るならば、どうでも良いことだ。
銀色の煙が杖先から噴き出て、瞬く間に巨大な獣を形作る。
獅子の頭、山羊の胴体、竜の尾。
透き通った銀色のキメラは吸魂鬼の前に立ちはだかり、僅か睨んだ後、跳びかかった。
吹き飛ばされる直前、吸魂鬼は目が見えないにも関わらず、驚愕に後退ったような気がした。
そして、まるで許しを請うようにしゃがみ込むような動きを見せていたが――それが何なのか、最後まで見る前に吸魂鬼はその場から消え去った。
辺りにもう彼らの脅威がないことを確かめると、銀色のキメラは消えていく。
アルテは杖を仕舞い込むと、ハーマイオニーに目を向けた。
彼女も、ロンも吸魂鬼の気に当てられたのか、眠るように倒れていた。
「……オリオン。三人を見てて。誰か一人気が付いたら、またこっちに来てくれる?」
もう此方は問題ないだろうが――シリウスの悲鳴が心配だった。
湖の方向にも吸魂鬼がいるならば、ハリーの現在の守護霊では完全な対処は難しい。
オリオンは一つ肯定の鳴き声を上げた。
「リーマス、行こう。向こうにまだいる筈」
落ち着いたリーマスとともに、歩き出す。
痛みはない。背筋の冷たさと熱さの混じったような感覚は、いつの間にかなくなっていた。
湖に近付くと、不意に木の枝を踏むような音をアルテの耳が捉えた。
「ッ」
咄嗟に杖を構え、そちらに灯りを向ける。
アルテは、己の目を疑った。
灯りに照らされて目に入ってきた人物にハリーがいるのは別におかしくない。
だが、ハーマイオニーがいるのはどういうことか。
「あ、アルテ……! ってルーピン先生まで!」
「……なんでここに?」
アルテは率直に疑問をぶつける。
彼女に見つかったことより、リーマスの存在を気にしているようだったが、このままでは埒が明かないとハーマイオニーは語り出した。
「あー……そう。私たち、とある道具を使って、少し先の時間から来たの。大体日が変わるくらい先から」
「……?」
「その仕掛けについては話せないんだけど、とにかく、私たちはシリウスを助けるために来たのよ!」
怪訝な表情のアルテだったが、シリウスの名を聞くと目の色を変える。
「……どういうこと?」
「時間はもう少し先ね……付いてきて!」
ハリーとハーマイオニーは速足で湖に向かっていく。
妙にハーマイオニーは時計を気にしていた。
シリウスという言葉にアルテも足を急がせる。
リーマスはそれに追従しながらも、前を歩く二人の“獲物”に対し、時折手を伸ばす素振りを見せていた。
その度にアルテが彼と目を合わせて止め――密やかな命の危機を知らないまま、ハリーとハーマイオニーは湖のほとりに辿り着いた。
アルテは目を細める。向こう岸を埋め尽くす、真っ黒な霧の如き人影の群れ。
吸魂鬼だ。先程アルテが退治したような、一体だけではない。
百は優に超えよう。この学校に送られた全ての吸魂鬼と言われても納得できるほどの数だった。
そしてその真ん中にいる――もう一人のハリーとシリウス。
少し先の時間から来た――その仕組みは知らないが、事実であるならばあちらのハリーが先程まで共にいたハリーなのだろう。
間違いない、襲われている。
アルテは杖を構えようとするが、それを止めたのはハリーだった。
「待って! 大丈夫、父さんがもうすぐ来てくれる。僕の父さんが、完璧な守護霊を使って退治してくれるんだ」
アルテは、ハリーの正気を疑った。
彼の両親が闇の帝王に殺されたことは、アルテも知っている。
だというのに、ハリーは何を言っているのだろう。
辺りを見渡してみるも、自分たちの他に吸魂鬼の襲撃を受けていない人物は見当たらない。
ハリーも同じように探していたのか、困惑の声を漏らした。
「父さん、何処なの? 早く――」
しかし、誰も現れることはない。
そうしているうちに、向こう岸の二人を襲っている吸魂鬼の一人がフードを脱いだ。
誰か、何かをしなければ、もう何分も経たないうちに手遅れになってしまう。
いい加減やらなければ――ハリーを振り払って杖を突きだそうとしたアルテ。
だが、それより先に、何かに気付いたように息を呑んだハリーが駆け出し、吸魂鬼の群れに杖を向けた。
「エクスペクト・パトローナム!」
ハリーは叫ぶ。アルテは、駄目だと思っていた。
彼は度々リーマスから守護霊の教えを受けてきたが、完全な形を構築できたことはまだない。
それでは、追い払えて数人が限界だ。
しかし――アルテの焦りは無用のものだった。
ハリーの杖の先から噴き出た銀の霞は、たちまち眩しい光を放つ獣を作り出す。
枝分かれした二本の角が凛々しく聳えた牡鹿だ。
完成されたハリーの守護霊は水面を走り吸魂鬼に向かっていく。
これほど完成度の高い守護霊ならば、吸魂鬼も一溜まりもない。
慌てて逃げ出す吸魂鬼を追うように駆け回った牡鹿は、やがて足を止めて、ハリーに向きなおる。
その角を見てか、ハリーは呟いた。
「……プロングズ」
呟いた途端に、守護霊はその姿を解れさせた。
守護霊を出現させていられるのは、思い出に集中している間のみ。
しかしながら辺りの吸魂鬼を追い払うには十分だったようで、もう黒い靄のような人影は見えなかった。
困惑するハーマイオニーに、ハリーが振り向き、苦笑した。
「……僕だった。僕が、守護霊を出す僕を見たんだ。それを僕は、父さんと勘違いした。何もおかしなことは起きてなかったんだ」
「で、でも、ハリー。信じられないわ。あの吸魂鬼を全部追い払うような守護霊を貴方が作り出せるなんて。それってとても高度な魔法なのよ?」
「ずっと練習してたんだ。アルテと一緒に、ルーピン先生に習ってた。失敗するとは思わなかった。だって、さっき一度出した訳だから……何か変かな?」
「ううん――――ハリー、見て!」
頭がこんがらがるような感覚に陥っていたハーマイオニーだが、突如また向こう岸を指さした。
アルテも振り返る。倒れ込んだハリーとシリウスに向かって、またも黒いローブの人物が歩いてきていた。
スネイプだ。ロンとハーマイオニーを担架に乗せてやってきたスネイプは、さらに二つ担架を作り出し、ハリーとブラックを乗せる。
それを見ている間に、オリオンがアルテの傍に走ってきた。
何故かバックビークもいることに、アルテは疑問を持ったが――ハリーたちが特段驚いていないことを見るに、先程まで彼らに同行していたのかもしれない。
「スネイプが行った……そろそろ時間ね。シリウスはこの後捕まって、閉じ込められる。そうしてから彼を助けないと」
「今取り返した方が手っ取り早い」
「駄目よアルテ。この後の時間では、シリウスは捕まったことになっている――その流れを変えたらどうなるか分からないわ」
少し先の出来事を二人は知っている。
少なくともその時点で同じようになっていないと、二人の思う通りの未来にはならない、ということ。
アルテは苦々しく思いつつも、シリウスを連れていくスネイプを見ていた。
それから、三十分ほど経っただろうか。
その場にしゃがみ込んだリーマスとオリオンの間に座ってじっと湖の水面を見ていたアルテは、同じようにしていたハーマイオニーが立ち上がったことで視線を動かす。
「もう私たちが気付いて、スネイプや大臣と一緒にいる時間の筈よ。行きましょうハリー。アルテは……」
ハリーは当然とばかりに、バックビークの綱を持った。
それを首輪の反対側に結び付け手綱のようにして背中に乗れる状態を作る。
ハリーもハーマイオニーも知っている。この夜、アルテだけが医務室に運ばれていないことを。
では、彼女がどうしていたのか。今の二人には知らなかった。
「……ここにいる。リーマスの姿が戻るまで、一緒にいるって言ったから」
アルテは、立ち上がることはなかった。
今のアルテはリーマスやオリオンにとって鎖のようなもの。
まだ近くにピーターがいるかもしれない以上、彼らを落ち着かせるのはこれしかない。
「……そう。ダンブルドアには理由を話しておくわね。そうすればきっと、何の罰則もない筈だから」
「ん……」
アルテが小さく零れるような返事を返すと、ハリーとハーマイオニーはバックビークに乗って飛び去って行った。
シリウスを救出に行くのだろう。それで、シリウスは再び自由になり、また何処かへ身を隠す筈だ。
ハリーと共に住むという望みはまだ叶わないだろうが、少なくとも悪いようにはなるまい。
それを確信し、安堵したアルテは、リーマスの手に自分の手を重ね、オリオンに背中を預けて目を閉じる。
明け方にアルテが目を覚ました時、リーマスは既に人の姿に戻っていた。
大きな罪悪感を隠すように微笑むリーマスを気にするなと諭すように、アルテはその手を握りこんだ。
世間において、シリウス・ブラックの脱獄という一大事件は終わっていない。
だが昨晩、ほんの数人のみにだが、冤罪を証明することが出来た。
無論、だからといってシリウスが往来を歩くことは出来ないし、彼の無罪を知った人間が主張したところで共犯を疑われるだけだ。
つまり、殆ど何が変わることもない。
しかしシリウスにとっては誰より知っていてほしい者に真実を伝えることが出来たし、真実を知った者たちにとってはシリウスは闇の魔法使いではなくなった。
彼ら数人にとっては大きく変わった夜だった。
それが明けて、朝が来る。
一晩帰ってこなかったアルテが何食わぬ顔で寮の自室に入ってきた時、その姿を見てダフネたちは開いた口が塞がらなかった。
「……」
「……」
「……」
「……何?」
三人の目元には、薄く隈が刻まれていた。
アルテが帰ってきていないことを心配し、だからといって夜に寮を抜け出すことも出来ず、殆ど夜通しで起きて待っていたのだ。
戻ってきたら全力で怒鳴ってやろうと思っていた三人は――ただの夜遊びでこうなる筈のないアルテの姿に言葉を失った。
「…………アルテ、どうしたの、その恰好」
ようやく言葉を絞り出したダフネ。
あちこちに埃や土がついているだけならおかしくない。
明らかに不自然なローブに嫌な予感を覚え、ミリセントとパンジーがアルテの背後に回り込む。
鋭利な刃物で斬り裂いたような跡はローブや制服だけでなく、その下の肌にまで届いていた。
既に傷口は塞がっているようだが、赤い線のような切り傷は、付いた直後どれほどの重傷だったのかを否が応にも想像させる。
そしてもう一つ。
アルテの浅黒い肌を際立たせる白銀の髪。
背中まで伸びていたそれはばっさりと切られ、肩ほどまでの長さになっていた。
あちこちを跳ねさせているアルテの髪型ゆえ不自然さはあまりないものの、整えたらバラバラになった毛先の長さは非常に不格好に見えるだろう。
一晩で大変貌を遂げたアルテ本人は特に気にすることもなく、代えの制服を引っ張り出してからボロボロのそれを脱ぎ始める。
「切られた」
「誰に!?」
「………………ネズミ?」
厄介な事態ゆえ、不用意に話す訳にもいかず、アルテは誤魔化した。
その答えに、三人は間違いなく重症だと悟った。
何があったかは分からないが、今のアルテはもしかすると錯乱の呪文を受けているのかも知れない。
「す、すぐ医務室に行かなきゃ! マダム・ポンフリーに――」
「駄目」
手早く着替えたアルテは、ダフネの言葉を拒否する。
治療など受けていては、何時間拘束されるか分からない。
他の日ならいざ知らず、今日だけはそれは許容出来なかった。
「なんで!?」
「今日は、ホグズミードの日」
浮足立ってすぐに部屋を出ていくアルテに、三人は顔を見合わせる。
結局何があったかは曖昧にされるのだろう――そんな予感を覚えながら、三人は溜息をついてからアルテを追いかける。
夜に何があろうとも、関係ないほどにアルテはこの日を楽しみにしていたのだ。
リーマスと共にホグズミードを散策できる、絶好の機会を。
寮を出て、まずは朝食を食べるために大広間に向かう四人。
その道中、他の二人より冷静になったダフネが何となしに『スコージファイ』をアルテに向けて唱えた。
応急手当の『エピスキー』と並び、向こう見ずなアルテのおかげで不本意ながら妙に得意になってしまった魔法である。
アルテにくっついた泥やら埃が消え、とりあえず、髪以外はいつも通りになっただろう。
髪については――まあ、どうにか誤魔化すしかないと、視線で三人は示し合わせる。
これもまた、アルテの保護者として不本意ながら身についてしまった妙な特技だ。
大広間に辿り着く。夜、部屋にいなかったことを不思議に思ったのは同室の三人くらいであり、特に視線を向けられることもない。
髪についてもまだ気づかれていないらしい。
三人の気の張りようを他所に、アルテは自分の席に着く。
昨日の夜はなし崩し的にシリウスの一件に巻き込まれたため、何も食べていなかった。
カップに注いだミルクを飲み干し、乾ききった舌を濡らしてから、目の前に並んだ料理をいつもより多めに取る。
この後に楽しみが待っているとしても――いや、待っているからこそ、その食事の誘惑に抗うことは出来ない。
相変わらずなアルテに、警戒を馬鹿馬鹿しく感じ、ダフネ達も席に着いた。
そしてダフネがふと大広間の入り口に目を向けてアルテの肩を叩く。
「アルテ、ルーピン先生だよ」
「ッ」
先程着替えるために一旦別れたリーマス。
彼もまた汚れを落とし、服を着替えてやってきていた。
アルテの傍まで来ると、まだ少し調子の悪そうな顔で笑みを作る。
「リーマス――」
「大丈夫だよ、アルテ。ホグズミードには、約束通り行ける」
その答えに、アルテは新しいローブの下で尾を揺らす。
彼の悩みの種も、もうなくなった。
少しの失敗はあったものの、結局リーマスは誰を襲うこともなく朝を迎えた。
ゆえに、二人はこの日を存分に楽しめる。それは確信だった。
この後のホグズミード行きは、罪なき者を救った一夜の褒美といっても過言ではなかった。
そんな二人の様子を見て、待ちかねたとばかりに近付いてくるスネイプの、いつもより数倍は不気味な雰囲気に、大広間中の生徒が黙り込む。
そして、静寂に包まれた大広間の全域にまで届く様な、彼にしては異様によく通る声で――
「――やあルーピン。昨晩はあの後大事はなかったかね? 私も心配でならなかったよ。満月の夜に、誰あろう人狼である君が外を出歩いていたとは」
――その、二人の細やかな幸福に、早すぎる終止符を打った。
※アルテVS吸魂鬼。
※また留守番のオリオン。
※二週目のハリーとハー子に会っても普通に納得するアルテ。
※ハー子「シリウスはこの後捕まってしまうわ」
アルテ「任務了解。
※リーマス&オリオンと一夜を過ごすアルテ。
※朝帰りアルテ。
※ピーターの不意打ちで血と一緒に吹っ飛んだ髪。
※治療系の魔法が上達するダフネ。
※テレパシーを習得しだす保護者娘たち。
※最悪のタイミングでトドメを刺しにいくスネイプ。