とても悲しい夢を見た。
汗で濡らした体を起こす、此処は何処だ。此処は私室の寝台の上だ。
蝉の鳴き声が耳にこびりつくように反響する。窓から差し込む光は眩しくて、影は色濃く見えた。今は夏の真っ盛り、粘っこくて不快な暑さが肌に纏わりついてくる、汗を吸い取った前髪が額に張りついて煩わしかった。呼吸は少し荒い。眠いわけではないが、眠気のような気怠さが全身に重くのしかかる。体を動かしたくなかった、このまま、もう一度寝てしまおうかと思った。そうすれば、今一時、この物憂いな感覚から逃れることができる。
瞼を閉じる、思っていたよりも目が醒めていたようで眠ることができなかった。それでも動きたくない気持ちがあって、寝台の上で無為な時間を過ごし続ける。先程から流れ続けている涙の意味が分からなかった。
ただ、とても悲しい感覚が胸の奥に残っている。
それは激動の時代だった。
戦に次ぐ戦、最初は賊を相手に戦い、次は国同士の戦いに発展する。
誰もが自分が守りたい者の為に剣を取り、そして互いの命を奪い続けていた。皆が戦いの中で朽ち果てる。敵も味方も関係なく、戦場は容赦なく命を刈り取った。数千、数万の血で大地を濡らして、それでもなお雄叫びを上げながら兵達は戦い続ける。そんな凄惨な戦いであるにも関わらず、誰もが自ら望んで命を燃やし尽くした。戦場から逃げ出すほとんどが独り身で失うものを持たない者達、故郷に帰り待つ誰かが居る者に限って、簡単に命を投げ捨てようとする。良い奴から死んでいく、生き残ることを望まれた者から先に死んでいった。それを知りながら
何を想って、指揮を執り続けるのだろう。何を求めて、兵達を殺し続けるのだろう。果たして、それは人の心をしているのか。果たして、それは人の姿をしているのか。その心にあるのは深い哀しみ、その目は遥か遠い過去を映している。妄執染みた望郷の想い、もう手が届かぬと知りながら、月を目指す兎のように手を伸ばし続けた。
血で血を洗い流すような戦いの果てにあったのは、誰一人残らなかった孤独の丘。眼下の平野には彼女に付き従う兵達が何千、何万と地面を埋め尽くすように並んでいる。私ではない誰かを慕う将兵、その誰もが孤独に生きる彼女を理解しない、できるはずがない。そして理解させてはならなかった。彼女の瞳は何時でも空に向いている、彼女の求める澄み切った青空の先にある。彼女は未来ではなく、天を見た。そこにいるはずの故人に彼女の心は向けられていた。
彼女はきっと慕われていた、彼女の為に戦う人間は数多くいた。それを知りながら見て見ぬふりを続ける彼女はいつも申し訳なさそうに微笑んでいた。そして彼女は何時も誰かのことを褒めていた、良くやったね、と頭を撫でるのが好きだった。決して誰かを非難せず、決して誰かを突き放さず、全てを許容する人間性に誰もが惹かれていった。
そして私ではない誰かは皆から、媽媽、と呼ばれて親しまれた。
まるで聖母のような生き方を続けてきた彼女は、良くやったね、と頭を撫でて褒められたいだけの人間だった。彼女の想いは故人に向けられる、褒められたい相手はもう何処にもいない。決して手に入らないものを追い求め続けた果てに、彼女が辿り着いたのは孤独の丘。そして眼下の大地は赤い血で染め上げられる。全てを許容する彼女の瞳は、誰も見ていなかった。全てを失って、なおも彼女は空を見上げている。今あるものに目を向けられなかった彼女には何も残らない、残してはならない。ただ失われるだけの日々、彼女は何も手に入れようとしなかった。だから彼女からは失われるだけだった、だから手元には何も残らない。
死ぬことだけが彼女が救われる道だった。
窓から差し込む光が傾き始めた頃合い、
昼間よりも涼しくなったことで漸く体を起こす気になれた。目元が少しだけ痒い、流れていた涙はいつの間にか止まっていた。汗で衣服が肌に張り付いて気持ち悪かった。水を浴びようと思って部屋を出る。着替えるのは、それからで良い。その方がきっと気持ちが良いはずだ。重い体を引き摺って、井戸に辿り着いた時には息絶え絶えだった。喉は渇いていなかった、思考が鈍くなっているのがわかる。体が水分を欲していた。井戸に落とした釣瓶を、全力で引き上げて、揺れる水面を手で掬った。袖口と首元が濡れるのも気にせず、ぐびぐびと何度も手で掬った。お腹が膨れた、飲み過ぎて気持ち悪くなった。体が冷えたのか、幾分か頭がはっきりとしてきた。井戸の縁に腰掛けながら空を見上げる。
あの夢はなんだったのだろうか、知らない光景だった。戦というのは言葉として知っている。でも実際に戦を経験したことはない。あの異常なまでの熱気を知らない、あの狂ったような咆哮は聞いたことがない。そして人間の中身なんて見たことがなかった。気持ち悪いとは感じなかった、ただ寂しかった、ただ哀しかった。あれは誰なのだろうか、彼女が見ていた景色は私が見た光景と同じだったのだろうか。分からない、分からなくても良い気がする。何故なら夢は夢であり、夢は忘れるものだからだ。哀しみだけを胸に残して、いずれ忘れる。そんな気がした、それで良いと思う。夢なんて、そんなものだ。それは誰かの記憶の一部であり、確かにあった何処かの現実であったとしても、それは私にとっては夢想の切れ端に過ぎない。
私は井戸の縁から地面に降り立ち、そして今日を生きよう、明日も生きようと歩き出す。生きることは食べること、眠ること、難しいことはいらない。なんとなしに生きられることが幸せなんだって、私はそう信じている。
ふわっとした生き方が好きだった。
†
薄暗い書庫の奥には、外の光を入れるための小さな窓がある。
その付近にある本棚を背にしながら床に座ると、適当に選んだ書籍を開いた。書き連ねた文章を指でなぞり、小さな声でぶつくさと呟きながら読み耽る。
こんな姿を周りから見れば、熱心な読書家に映るのかも知れないが、文章を読むこと自体は好きではなかった。黙読をしていると目が滑ってしまうから音読しているだけで、文章に没入している訳ではない。かといって知識欲を満たしたいという気持ちもなかった。では何故、書籍を手に取るのか。私は熱心な読書家ではないが愛読家ではあった。要は書籍を読むという意識や姿勢を取っていることが好きなのだ。どれだけ内容がつまらなくても読み続けることができるし、面白い内容であれば適度に読み込むことができる。私は書籍を読むという行為そのものが好きだった。
頁の端を摘んで、ペリペリと捲る。その時、ふと香る乾いた紙と墨の匂いが好きだった。
水面の上澄みだけを掬い取るように文字に目を通す。
「
真名で呼ばれる、ゆっくりと顔を上げると犬耳の上着を被った少女が将棋盤を両手に見下ろしていた。
「こんにちは、
ふんにゃりと笑顔を浮かべて、ひらひらと手を振ると「ええ、こんにちは」と少女は笑みを浮かべる。
「嫌味を言ってもこれではね。相変わらず、張り合いのない奴だわ」
「どういたしまして」
褒めてない、と龍花は私に向き合うように座ると使い込んだ将棋盤を床に置いた。巾着袋に入った駒が盤上にばら撒かれて、何を言うわけでもなく二人で駒を並べる。その時に「今日は御飯を食べたの?」とか「何を読んでいたの?」とか他愛のない質問を投げかけられ、それに私が答える度に龍花は眉を顰めたり、「はあ?」と大きな口を開けて大袈裟に驚いたりする。駒を並べると龍花が歩を五枚取ると、盤上に転がすように振り投げる。と金が三つ、今回は私が先手のようだ。
「ん〜、どうしよっかな?」
少し悩んで、頭の中にある将棋の専門書を開いた。
パラパラっと戦術の項目を捲り、今日はこれで行ってみよう、と気儘に駒を摘んでパチンと小気味良い音を立てる。
それだけで龍花は楽しそうに笑みを浮かべてみせた。
「鬼が出るか蛇が出るか、何が出るのか予想が付かない玉手箱。今日は飛車は振るのか振らないのか」
龍花は一手目から考え込むことが多かった、そして五手目辺りから差す手が早くなる。
答え合わせをするように、示し合わせたように序盤を終えて、中盤の攻防に入る。私は記憶の中にある棋譜から、それっぽいものを適当に選んで駒を動かした。考えるのは苦手だった。だから記憶の中にある戦術の中から面白そうなもの選んで指すことが多い。それが龍花にとっては好評のようで、目新しい一手を見つけると「ちょっと待って!」と呼び止めて、その一手の意味を深く読み解こうとする。私は自分の指した手の意味なんて、よく分からないから彼女が思考をしている間、暇な私は書籍を開いていることが多い。
龍花が自分の思考を纏めるためにぶつくさと呟き、私は書籍を読み込むためにぶつくさと呟いた。
「劉表、荀攸、また書庫に集まって。……講義は始まっているのよ?」
顔を上げると、見知った顔が私達を見下ろしていた。
「慮植先生が講義してくれるなら出てあげても良いわよ」
それだけを告げて龍花は盤上に向き直る。
もう、と顔を顰めながら慮植もまた将棋盤を見た。
私は書籍に視線を落とす。
「難しい局面……劉表、貴方って意外と打てるのね」
慮植の賞賛に「はえっ?」と私は首を傾げてみせる。
「打てないわよ」
と龍花は盤上を睨みつけたまま告げる。
「椿が相手なら百回やっても百回勝てるわよ。千回やって漸く一度、取り零すことがある程度かしら」
「そうかしら? 状況は悪くないように見えるわ」
「ある程度は拮抗するように打ってるのよ。何か手を打つ前に潰すともったいないからね」
それに勝ち筋は見えてるわ、と龍花が駒を進める。対応するように私がすぐ手を差せば、「詰みよ」と龍花が宣言した。「詰みですか、参りました」と私は流れるような動作で頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って。まだ終盤に差し掛かったばかりじゃない」
そんなことをいう慮植に「詰みよ」と龍花が澄まし顔で告げる。私も慮植の言っている意味がわからなくて首を傾げた。
「龍花が詰んだと言えば、詰みですよ」
「さっきの一手で、金ではなく、この歩を進めておけば、十二手後に詰むことはなかったわね」
「では、それで進めてみます?」
「ええ、お願い」
動かした金を戻して、歩を進める。合わせるように龍花も歩を押し出す。
更に一手ずつ進めた後に似た局面の棋譜を思い出し、これで行ってみよう、と数秒と待たずに駒を差した。その手の早さに龍花はにんまりとした笑みを浮かべて駒を手に取る。それから更に五手ほど打ち込んだところで「ちょっと待ちなさい」と龍花が手を止める。私は書籍を手に取って、ぶつくさと呟いた。龍花もぶつくさと呟いている。
何時もの光景、何時ものやり取り、しかし慮植の顔は引き攣っていた。
「……貴方達は何をやっているのかしら?」
ほぼ同時に「将棋/読書」と私達は全く別のことを答える。
「楽しいの?」
という問いかけには「楽しい
「ちょっと待って、私には貴方達のやり取りが理解できないわ」
慮植が大袈裟に頭を抱えてみせる。
私は読書が好きだし、龍花は将棋が好きだ。他にも囲碁をすることもあるし、お互いに読書を嗜むことがある。
そして私は龍花が傍にいる感覚が嫌いではない、むしろ好きだった。
ただそこに居てくれるだけで嬉しくなる。
「理解されるとは思ってないわよ」
と龍花は吐き捨てると持ち駒を数枚、手に取ってカチャカチャと弄り始める。
「仲が良いのね」
慮植が諦観するように呟いた。
それを聞いた私達は「それはどうかしら」と異口同音で告げる。
慮植は天井を仰ぐと、大きく溜息を零した。
「ちょっとくらい二人で盛り上がる話題とかないのかしら?」
その問いに龍花は、特に、と素っ気なく答える。
慮植のことが不憫に思えてきたので考える素振りだけでも見せておこうと腕を組んだ。
そして、ああそういえば、と数日前のことを思い出す。
「この前、不思議な夢を見ましたね」
「不思議じゃない夢ってあるのかしら?」
龍花の言葉に、そういえばそうですね、と私は考え込んだ。
不思議ではない夢とは何か。夢らしい夢といえば不思議なものであるし、現実的な夢というのは夢にしては不思議だ。
どのような夢であったとしても夢は不思議なものなんだなって、ぽんやかと思った。
「それで不思議な夢ってなんだったのかしら?」
慮植に促されて、ああそうでした、と私は思い出したように夢の内容を口にする。
朧げな記憶の中にあるのは、それが戦場だったという事だ。そして、とても悲しいという気持ちだけが強く意識に残っていた。憐れむ訳でもなく、同情した訳でもない。ただ夢の誰かの想いが、私の心に感情を刻み込んでいた。
ふわっとした曖昧な記憶、それをゆったりと紡いで語り聞かせる。
「――それは私の見たことも聞いたこともない戦場でした。確か旗には蜀の他に晋という文字がありました」
「蜀に晋? 奏ではなくて?」
語り聞かせた後、慮植がそんなことを呟いた。
「さあ、夢なのでよく覚えていません。ああ、でも漢という文字はあった気がします?」
言いながら駒を進めると「はい、詰みね」とパチンと龍花が駒を打ち込んだ。
「漢の時代に晋と蜀があったかしら?」
「夢だから気にすることなんてないわよ。それに椿って知識だけは豊富なのよ、知恵はないけどね」
その割には現実味があったなあ、と私が呟けば、ああでも、と龍花が盤上を片付けながら付け加える。
「もしかしたら未来の話かもしれないわね」
「未来?」と私が問い返すと「ええ」と龍花が頷き返す。
「夢なんて不思議なものだわ。夢で五十年近くもの人生を歩んでも、現実的には一炊にも満たない時間かもしれないのよ」
だから夢について考えるなんて無駄よ、と龍花が手で振り払うような仕草をみせる。
まあ所詮は夢だしね、と私は駒を最初から並べ直す。振り駒をするのは龍花の役目、今度は歩が四つで龍花の先手になった。
パチンと打たれた歩に、私は角交換で応じることにする。
「……ねえ、確か荀攸が千勝してるって言ってたわよね」
「ええ、比喩なしに。数えてないけど千勝近くはしてるはずだわ」
「なら逆に劉表に負けたことって何回あるのかしら?」
その質問に対して、はいはい! と私は片手を上げて答える。
「九勝です! あと少しで両手の指では数えきれなくなりますよ!」
「その全てが嵌め手だったわよね」
えっへんと胸を張って答えてみせる私に、龍花が嘲るように補足する。
「誇るべきことではないでしょうに」
慮植が心底、呆れ果てた顔をすると「もう少しでこの私から十勝できるのよ、誇るべきね」と龍花が素っ気なく答える。それに、ねー、と私が同意して、ねー、と龍花が悪戯っぽく笑ってみせた。そして、どういう訳か龍花が私の頭をうりうりと撫で回してくる。
「貴方達の仲が良いことだけはよく理解したわ」
そんな溜息交じりの声が聞こえるも、龍花に可愛がられるのに忙しくて頭に入らなかった。
今日も幸せ日和の夢気分である。
†
とても悲しい夢を見た、数日前の出来事になる。
汗で濡らした体を起こす、此処は何処だ。此処は私室の寝台の上だ。
蝉の鳴き声が耳にこびりつくように反響する。窓から差し込む光は眩しくて、影は色濃く見えた。今は夏の真っ盛り、粘っこくて不快な暑さが肌に纏わりついてくる、汗を吸い取った前髪が額に張りついて煩わしかった。呼吸は少し荒い。眠いわけではないが、眠気のような気怠さが全身に重くのしかかる。体を動かしたくなかった、このまま、もう一度寝てしまおうかと思った。そうすれば、今一時、この物憂いな感覚から逃れることができる。
瞼を閉じる、思っていたよりも目が醒めていたようで眠ることができなかった。それでも動きたくない気持ちがあって、寝台の上で無為な時間を過ごし続ける。先程から流れ続けている涙の意味が分からなかった。
ただ、とても悲しい感覚が胸の奥に残っている。
意識が遠のき、穏やかな寝息が立ち始める。
たぶん寝ていた、半分は起きてた。でもきっと寝ていた気がする。
真っ暗闇の意識の中、ゆったりと瞼を開ける。
気付けば、窓から差し込む光が傾き始めた頃合い、
昼間よりも涼しくなったことで漸く体を起こす気になれた。目元が少しだけ痒い、流れていた涙はいつの間にか止まっていた。汗で衣服が肌に張り付いて気持ち悪かった。水を浴びようと思って部屋を出る。着替えるのは、それからで良い。その方がきっと気持ちが良いはずだ。重い体を引き摺って、井戸に辿り着いた時には息絶え絶えだった。喉は渇いていなかった、思考が鈍くなっているのがわかる。体が水分を欲していた。井戸に落とした釣瓶を、全力で引き上げて、揺れる水面を手で掬った。袖口と首元が濡れるのも気にせず、ぐびぐびと何度も手で掬った。お腹が膨れた、飲み過ぎて気持ち悪くなった。体が冷えたのか、幾分か頭がはっきりとしてきた。井戸の縁に腰掛けながら空を見上げる。
あの夢はなんだったのだろうか、知らない光景だった。分からない、もう朧げにしか思い出せない。ほとんど忘れてしまっている。そして、それでも構わないって思った。
私は井戸の縁から地面に降り立ち、そして今日を生きよう、明日も生きようと歩き出す。生きることは食べること、眠ること、難しいことはいらない。なんとなしに生きられることが幸せなんだって、私はそう信じている。
ふわっとした生き方が好きだった。そして、今の私は幸せだった。
現の今が幸せだから、夢を忘れることは悲しくない。
前と軽率に性格が変わる劉表さん。
見た目的には大学生盧植、高校一年生劉表、小学生高学年荀攸。