ウサギを追いかけて
「この森から出てはイケナイの」
母親はいつも言っていた。
「私とアナタが"ミムノイチゾク"だから」
──ミムノイチゾクって、何?
「絶対、これ以上奥へ行ってはダメよ」
少女の問いかけには、決して答えてなどくれない。
──約束は守らなくちゃ。
今日も少女は、森に囲まれたこの小さな家でひっそりと静かに暮らしていく。誰も訪れることのないこの場所で。そう、ひとりで……。
暗い暗い森の中、一点だけ陽が照らす場所。その場所に、小さなレンガ作りの家があった。
その家に一人住んでいる少女の名は、アリシア。年の頃なら18ぐらいだろうか。
僅かな小動物が行き交うだけで誰も訪れず、たった独りで暮らすアリシアは、物心ついてこのかた人と会話は勿論、人間に会った事すらない。
少女がどうして独りなのか、それは彼女にもわからない。
母と呼べる人はいたのだが、アリシアが10歳になったばかりのある日、病気でこの世を去った。母親は生前、何故この場所に二人だけでいるのか、それを一切語ろうとはせずに、アリシアも特別気にはならなかった。
ただ、一つだけ母親がアリシアに言い聞かせていた事がある。
「この森からは出てはイケナイ」
理由を訊いても答えはいつも同じだった。
「私達はミムノイチゾク。この森から出ると喰われてしまうのよ」
ミムノイチゾクとクワレテシマウ。
意味はよくわからなかったが、それがとても恐ろしい事であると自分の中で解釈し、アリシアは今なお約束を守っていた。
この森の中がどれくらいの広さなのか、近くにある川辺と家周辺の小さな世界しか知らないアリシアは、森の奥に通じる外に何があるのかを想像出来ない。
「森の外はどんな世界なのかしら?」
くたびれてしまっているお伽話の絵本の一つを読み終えたアリシアは、この頃そんなことを呟いては、窓から見える森の奥を見つめていた。
『森の中から出てはイケナイの』
母親の言葉がアリシアの脳裏をかすめる。
「わかっているわ、
この森でたったひとりになってしまった時、泣きながら母親を土に埋めてからずっと、約束を守って静かに暮らしてきた。何の疑問も持たないアリシアの唯一の楽しみと言えば、絵本の中の人物達と頭の中で想像しながら会話をすること。しかし、最近それがつまらなく思えてきていた。
「本物の人とお話がしてみたい」
森の外の世界が気になるのは、アリシアが自分以外の"人"と会話をしてみたいと、僅かながらも思い始めていた事が原因であった。
「……でも無理ね。母様と約束したもの」
『クワレテシマウわ』
──ああ、でも。
一度気になってしまうと、後はそればかりが頭の中を占めた。
そんな日々が一ヶ月も続いたある午後の日。アリシアの小さな世界は、静かに終わりへと向かおうとしていた。
いつもと変わらぬ午後。惚けながら森の奥を見つめていたアリシアの前に、白い一羽の兎が現れた。
「あら、うさぎさん」
よく見れば、兎の前足が赤く血に染まっているではないか。
「大変! 怪我をしているわ」
治療をしてあげようとゆっくり近寄ったアリシアに、兎は慌てて逃げ出した。
「待ってうさぎさん!」
それを慌てて追い掛けるアリシアは、家から遠くへと離れて行ってしまっている事に気付けなかった。
「……あ!」
兎をひたすらに追いかけ続けていると、目の前にいた筈の兎の姿が忽然と消えた。
兎の姿を見失ったアリシアがその場に立ち止まって後ろを振り返るが、今まで過ごしてきた家がもう見えなくなっている。
「戻らなきゃ……」
これ以上先へも進んだ事のないアリシアは、母親と約束した事を思い出して戻ろうと試みた。
「でもうさぎさんが……」
兎の足の怪我が気になった。今は手当てをしてあげたい。心臓がどくどくと脈打つのを感じつつも、アリシアは兎を追うのを止めなかった。
──大丈夫。手当てをするために追っているんだもの。
捕まえたら直ぐにでも戻れば大丈夫だと、自分に言い聞かせながら走るアリシアの頭の中は、兎の事で一杯になっていた。
「あ! うさぎさん、待って!」
すると、先程の兎が生い茂っていた草の中から飛び出て来た。しかし再び追えど兎は捕まらず、距離は離れていくばかり。
息を切らしたアリシアが我に返るように足を止めれば、辺りはいつの間にか闇に包まれている。
「どうしよう、母様との約束なのに……」
見知った森の様子ではない事に、ここに来て漸く不安感と焦りが襲ってきた。怪我をした兎はいつの間にかいなくなっていて、けれどそんなことはどうでも良くなっていて。アリシアは慌てて元来た道を戻ろうとした。しかし──。
「……え?」
この木々を抜ければきっと、という思いであったが、アリシアの知る森はどこにも無かった。目の前に見えるのは、初めて見た狭い路地裏である。
「……どこ?」
再度戻ろうと振り返った先もまた、狭い路地だった。
「森じゃない。うさぎさんもいない、ここはどこ……?」
頭の中がパニックに陥る。右往左往するように辺りを見回すが、周りには灰色の壁以外何もないのだ。
『森から出てはイケナイ』
母親の言葉が、ぐるぐるとアリシアの頭の中に響く。
「ご、ごめんなさい母様……。わた、わたし……」
すると背後から何かの気配が。それを感じ取ったアリシアは、思わず体をびくりとさせて振り返った。
「女だ」
5人のならず者の男達が、ニヤニヤと薄気味悪く笑いながらアリシアに近寄って来るではないか。
「……ヒト?」
小さく呟く様にアリシアは言った。
目の前にいるのは紛れもない、絵本でしか見たことのない母以外の人間である。唖然としながら男達を見つめ、焦りなど吹っ飛ぶくらいの感動にうち震えるアリシアが、喜びの笑みを向けて挨拶をする。
「はじめまして、わたしはアリシア!」
笑顔のアリシアに男達は気味悪くニタつくばかり。足元から顔までを舐めるように見つめれば、『はじめましてお嬢ちゃん』と言葉を返した。
返事が返ってきた事に更に感激したアリシアが、この後の会話をどうしようかと考えていると、『早く輪姦そうぜ!』と誰かが言う。
アリシアには、その言葉の意味がわからなかった。
「まわす? ぐるぐる?」
アリシアは訊いた。
「へへっ、そうだよ。今からダンス。楽しい楽しいパーティーさ」
「まあ! 素敵!」
目を輝かせて男達に付いて行く。アリシアを囲んで歩く怪しげな男達の企みなど、気付きはしない。
今いた場所よりも更に奥へと進むと、少し開けた森の様な場所に辿り着いた。周りは月明かりのみで薄暗く、パーティーなどやる気配さえ感じない。不思議に思いながら辺りをきょろきょろとするアリシアは、背後から突然口を塞がれて驚いた。
「ひゃはは! とんだ馬鹿なお嬢ちゃんだ!」
周りを囲まれ、口を塞がれて恐怖で体を硬直させたアリシアの首筋を、背後から男が舌でれろりと舐める。
「ひぃ!」
全身が粟立った。びくりと身体を震わせたその姿を見て、男達は下品に笑った。
「ヒヒッ、小鹿みたいに震えてやがるぜ!」
塞いだ手を離した一人の男が、アリシアを乱暴に突き飛ばす。
「きゃっ!」
その衝撃で地面に倒れながらアリシアは、何が何だかわからぬままに、周りを囲む男達を怯えた瞳で見上げた。
「……あ、あの、パーティーは?」
震えた声で問うと、男達は皆、一斉にケタケタと腹を抱えて笑い出した。
「今からパーティーさ、最高のな……」
──恐い。もしかしてわたしは、嘘をつかれたの?
やっと気付いた現実に眩暈を起こしそうになった。恐怖で抜けてしまった腰を地面に擦りながら、アリシアは男達から後退した。
『タベラレテシマウ』
また、母の言葉が頭の中に響く。
「いや……」
「叫んだって誰も来やしねぇ」
「ごめんなさい……」
あれ程出てはイケナイと言われていたのに。約束をしたのに。破ってしまった過ちに身体が震え、止まらないのである。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめっ──」
「うるせぇな!!」
一人の男が、黙らせる為にアリシアの頬を激しく叩いた。
「ひっ!」
さっさとやってしまおう。そう言って、男達はアリシアの身体を仰向けにすると、強引に地面へと押さえつけた。
『タベラレテシマウ』
また、母の言葉だ。
──ごめんなさい。約束を破ってごめんなさい……。
何度も、何度も謝った。けれど目の前の恐怖は終わらなかった。
「ごめんなさい……かあ、さま」
周りから早くしろと急かされた1人が、『うるせぇな』と苛立ちを見せつつ、抵抗しないアリシアのスカートの中に手を入れる。
「──いやあぁっ!」
急に暴れ始めたアリシアに手こずらされながらも、一人は無理矢理アリシアの脚を割って入ろうとした。
「イヒヒヒっ!」
「助けて、かあさまぁ!!」
──いや、イヤよ。タベラレたくない……!
母親の顔を浮かべ、アリシアは固く目を閉じた。──その時である。
覆いかぶさっていた重みが急に消えたかと思うと、周りの男達のがっ、ぐっ、ぎゃ、と言う絞る様な声が、頭上から耳に入ってきた。そして次に起こったのは突然の雨。ザーッと生温かい雨粒がアリシアに降りかかったのだ。
その雨は一瞬で止み、アリシアは閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
「……え?」
空は満天の星空だった。
どうして──。地面から身体をそっと起こし、アリシアは辺りに目をやる。
どういうことなのか。数人いた筈の男達の姿は何処にもなく、何故急に居なくなってしまったのか不思議に思っていたが、それと同時に沸き起こる違和感は、一体何だ。
「何、この臭い……?」
雨水とは似ても似つかない生臭い鉄の臭い。それに手で拭った体中が異様にべたつくのである。
ふらつきながらその場で立ち上がり、真っ暗な闇に包まれた森のような場所を、もう一度見渡した。
眩い月の光に照らされた地面に目をやれば、そこは一面赤く、血で濡れているのがわかった。
「な、なにこれ……?」
体中から血の気が引くのを感じた。
一体誰のだろうか。そして、まさかと思いながら自分の顔を両手で拭い、手のひらを光に照らし当てた。
「ひっ!」
アリシアの手のひらは、真っ赤でどろどろとした血に染まっていた。先程の雨の違和感。それは、鮮血であったからなのだ。
──これは誰の?
茫然と両手を広げ、アリシアはその場に立ち尽くす。
──あのヒトたちは、一体どこに行ってしまったの?
先程まで確かに存在していた筈の男達の姿が、誰一人としていないのは何故か。全身の震えが、再び始まったその刹那──、背後からする声に、アリシアはゆっくりと振り向いた。
「やあ……♦︎ 急な雨にでも、降られたのかい?」