「少し休憩するか」
昼下がり。小さな川のほとりの周辺を走るアリシアとハールは、風通りの良いその場に足を止めた。
基礎体力をつけたいと、ハールに付いてアリシアが始めた行動から、ひと月半。
「走るのにだいぶ息切れしなくなったな。顔色も前より良いぞ」
「本当?」
ハールに付き添われて初めて自分のお金で買った、ピンクの線が縦に入った黒のトレーニングウェアを身に付けたアリシアは、被っていたウェアのフードを下ろしながら、横に立つハールを見上げた。
日影にばかりいたせいか、病的な程であったアリシアの白い肌は、以前よりも少しだけ、健康的に明るくなったように見える。
「ああ。星の光に当たるのも良いが、時には陽にも当たらなくちゃな」
「わたし、自分でも"きそたいりょく"ついたと思うわ。ハールのお陰ね」
「俺は良いコースを教えるついでに自分の運動不足を解消しただけだ。それに、付かなきゃ良い作品を見逃す」
現に本日、ハールはアリシアに付いてのトレーニング中、またも突然『ストップ!』と声を出し、その場で素描し始めていたのだった。
「これで3体目に取りかかれる。ありがとう、アリシア」
「わたしこそ。ありがとう、ハール」
「なあ、アリシア……」
微笑んでいるアリシアから目を離し、川の方へと顔を向けるハールは、『この先、どうするんだ?』と、いつもよりやや低めのトーンで質問を投げた。
「これから先?」
「ああ」
「うーん……」
唸りながら考えるアリシアは、数秒黙ってから質問に答えた。
「実はね、やってみたい事があるの」
「やってみたい事?」
「ベルがやった事を、わたしもやってみたい」
「ベル?」
アリシアはハールに、大事にしている本の内容と、その中に登場する主人公、ベルの事について簡単に説明した。
「例えばどんな事がやりたいんだ?」
「色々あるのよ。後、ベルが思ってる気持ちも知りたいの。ハールには故郷がある?」
「故郷か……」
故郷と訊かれ、ハールが懐かしくも思い浮かべた場所は、家族と過ごした静かな湖畔の家だった。
楽しい思い出も、悲し過ぎる思い出もあったその地には、もう誰も待ってはおらず、帰りたくても帰れない。
「故郷というべき所はもう無い。今の俺には、あの家に帰るしかないさ」
ハールの視線の方向には、川を挟んだ向こう側の木々の間から、青い三角屋根が見えていた。
「あ、ねえハール。これからもまた、ハールのお家に行っても良いかしら?」
顔をアリシアへと向けたハールは、心なしか戸惑っているようだった。
「た、頼んだ仕事は終わったんだぞ? もうあの家に来る必要も無い」
「終わったらハールに会いに行っては駄目なの?」
「駄目というか……普通は報酬を渡してこれでさよならをする。仕事を続けるならまた依頼をとなるが、俺はもう引退するし、会う理由も無くなるだろ」
「でもわたしは、これからもあなたに会いたいわ」
これは会う理由にはならないのかと、アリシアは尚続ける。
「あなたもあの家も、なんだかとても懐かしい気持ちになって、わたし好きなの」
異性としての『好き』ではないのに、ハールの心臓は激しく高鳴った。
「ねえハール──」
その時、『迂闊に心を許しちゃイケないんだよ♦︎』という言葉が、アリシアの頭の中で響いた。
何も知らないアリシアは騙されやすいと、メルサの一件でヒソカが言った忠告だった。
──ハールは、メルサとは違う。
アリシアは、脳裏に浮かんだメルサの顔をかき消すように首を振った。
「わたしとお友達になって!」
「と、友達?」
「そう。わたし、あなたとお友達になりたいの」
まさかの『友達になりたい』という発言に、ハールは困惑しながらアリシアから顔を逸らし、そのまま背を向けた。
「普通、俺のようなのとは友達になんてなりたいとは思わない」
「わたしはなりたいわ。ハールとお友達に」
静かな沈黙が2人の間を流れた時、アリシアは、背を向けるハールの前に回り込んで立った。
俯き加減のハールは、髪や髭で隠れていて表情がうかがい知れない。
「俺の事を何も知らないだろ。あんたを騙す為に、全てが嘘だったとしたらどうする?」
それはまるで拒絶するような、ぞっとする程の重々しい声だった。
──え?
あの日の出来事とメルサが過り、アリシアの心は酷く揺れる。けれどアリシアは再び首を左右に振り、その場で大きく息を吸い込むと、ハールを見上げながら言った。
「お願いハール! わたしの目線に合わせて!」
不思議な感覚に襲われる。まるでテレビの電源が落とされるように、ハールの思考は一度止まった。時間にすれば数十秒。気付けばアリシアの言われた通り、ハールは目線を合わせる為にしゃがんでいた。
「今何を────」
目の前には、何もかも見透かしそうな大きな星空の瞳が、ハールを真っ直ぐに捉えている。アリシアの細くて長い指先がハールの前髪に触れれば、ハールの身体全体がびくりと跳ねた。
「ハールはわたしをタベない。騙したりしないわ」
鼻先程の距離まで顔を近付けられ、指先で右側の前髪をかき分けられたハールは、金縛りにでもあってしまったかのように動けない。
これが"混ざり者"とは違う、"純血者"……。
絵画に描かれた以上の妖しい美しさがアリシアにはあると、ハールは哀しくも改めてそれを実感する。
「あなたの事、全部知らない。でもほら、わたしと同じ目のあなたは、嘘なんかついてないわ」
ハールの右目を見つめて、アリシアは柔らかく微笑んだ。
──眩しい。
"混ざり者"のハールには、"
──だが、俺にそれが許される筈がない。
アリシアから『友達になりたい』と告げられたハールの心情は、嬉しくもあり、悲しくもあった。
「何で、何でなんだ? どうして……」
どうしてアリシアを見つけてしまったのだろうか。ハールは堪らず、心の言葉を口に出してしまっていた。
偶然にも見つけなければ、温かい光を知らなくて済んだのに。葛藤などしなくても良いのに。しかしアリシアは、それを自分への問いだと勘違いし、答えたのである。
「わたしと同じミムノイチゾクの血があなたにも流れてるって知ってから、なんだか不思議なの。これはきっと、わたしの中のミムノイチゾクの血が、あなたに会いたいって言っているのね」
アリシアからそれを聞いた瞬間だった。ハールの頭の中で懐かしくも遠い過去が、稲妻が走ったように今とリンクしたのである。
『私の中のほんの少しの血が、"純血者"を求めてるんだわ。きっと』
優しく美しかった姉の顔が、声が、言葉が、ハールの中で鮮明に蘇った。
「ハール? どうしたの?」
ハールの右目から、ゆっくりと一粒の涙が流れ落ちていく。
「何で泣いているの?」
「……姉ちゃんっ、同じだった! 同じ……っ」
「ねえ、ちゃん? 同じ?」
ハールはその場で崩れるように地面に頭をつけると、嗚咽を漏らして泣き出してしまったのである。
「どうしてしまったのハール? わたし、あなたに何か酷い事を言ってしまったの? ねえ?」
熊のような大男がおいおいと泣いてしまった事に動揺したアリシアは、あたふたと慌てふためきながらなんとかしなければと、上から覆い被さりながらハールを抱き締めてみる事にした。
「ごめんなさいハール。泣かないで、お願い」
その後30分程、ハールは泣き続けた。
幸いにも周りには通る人が現れず、泣き喚く大男に覆い被さった少女の図は、人目を引かずに終わった。
「もう平気なの?」
泣き終えたハールと共に家に戻ったアリシアは、項垂れてソファに座るハールの隣に腰を下ろした。
「ああ、突然すまなかった。大の男が、ガキみたいに喚き散らして」
「わたし、やっぱりあなたに何か酷い事を言ってしまったんじゃ?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
ハールは目を伏せ、心の奥に仕舞い込んでいた辛い記憶を、頭の中で巡らせた。
憎い男の顔。簡単に心を許し、騙されているとも知らない少年時代の自身。無残に殺された家族。右眼をえぐり取られた姉。
まるでカメラのシャッターを切るように変わる記憶は、今はもう無い、ハールの左眼の傷を疼かせる。
「……俺が信じたばかりに、みんな死んじまった……」
左眼辺りを手で押さえ、震える口でハールが言った。
「……知れば嫌になる」
少年だったハールは、"混ざり者"でも価値がある事をちゃんと理解出来ていなかった。どんなに恐ろしい話を聞かされていても、『いつかは、信じられる人に必ず出会える』そう希望を持っていたからだ。
人を避け、逃げて隠れる生活に嫌気がさしていたある日。ハールはある男と出会った。
「最初は恐かった。だけどそいつは、聞かされていたような恐ろしい人じゃなかった」
優しく穏やかだった男からは知らない世界を学び、色々な知識を得た。家族の誰にも知られずに会っていた秘密の友人。しかし、自分が"混ざり者"である事を知れば、どうなるか。
「一年経ち、完全にそいつを信じきっていた俺は、コンタクトで隠していた瞳の片方だけを晒して、自分が"混ざり者"である事を告げたんだ」
知った男の態度は、少しも変わらなかった。
『君と私は友人じゃないか』
この男こそ、いつか出会えると信じていた人だ。きっとそうだ。ハールは心の底から喜んだ。希望を持っていて良かった、信じて良かったと。
「俺は簡単にほだされ、浅はかで愚かだった」
男は金に困っていた。莫大な借金を抱え、自殺を図ろうと森に入った時、偶然にもハールと出会ったのである。
何度か死のうと試み、葛藤しながら一年。『これで最後だ』と告げる前に、ハールが"混ざり者"であると男は知った。
「そいつは借金取りに俺を、家族を売りやがったんだ……!」
いつものように男に会う為に抜け出していたハールが家に戻ると、家の中は酷く荒らされており、壁には血飛沫が。転がる父親の首と体。立て半分に分かれた祖母の屍体があった。
ハールは半狂乱に陥った。何が起こった。姉は何処だ、一体誰がやったのだ。
すると背後から何者かに殴られ、気付けば知らぬ倉庫の中で椅子に縛り付けられていた。
恐怖を感じて震えていると、真ん中で裸にされて倒れている姉の姿が目に入る。
『悪く思うなよ。騙されたお前が悪い。"混ざり者"でも、お前には価値があるんだ』
借金取りはケタケタと笑って、ハールの左眼を強引にくり抜いたのである。
「恐怖が通り過ぎ、怒りと悲しみ、痛みと憎しみが俺の身体から溢れ出そうになった時……俺は全員を殺していた」
先祖返りの
暫くして全身の痛みに目を覚まし、這いずりながら姉の側に寄れば、右眼をくり抜かれた冷たい屍体に変わり果ててしまっていた。
「怒りに狂った俺は、売った奴を死に物狂いで探し出し、遂に居場所を突き止めた」
貧しい建物で暮らしていた男は、出来たばかりの家族と幸せそうに笑っていた。身重の妻の腹を摩りながら、ハールの事など忘れてしまったかのように。
「俺は許せなかった。幸せそうに笑うあいつを……」
怒りは収まらない。ハールは建物に進入し、ソファで一人くつろぐ男の背後を取った。『覚えているか?』と問えば、男は驚きとも恐怖とも言えない声を上げた。
『し、仕方なかったんだ! どうしても金が必要だったんだよ!』
不思議な瞳を持つハールと、魅夢の一族という知らない一族の事が妙に気になった男は、町外れにある古い図書館で、その存在の価値を知ったのだ。
『……純血じゃなくても価値があった。お前を売ったお陰で、私は死なずに済んだ。しかもお前だけじゃない。ラッキーだったよ。借金全額返済どころか、金も手に入った』
男の身勝手な言い訳に、更に悲しみと怒りが湧いてくる。男に対しても、信じた自分に対してもだ。
泣いて許しを請う男を見つめれば、無残に殺されてしまった家族の姿と重なって見える。
「女の叫び声で我に返った時、俺の両手は血に塗れていた」
床に何度も激しく叩きつけられた男の顔は、もはや原型を留めてなどいない。身体は真逆を向き、ピクリともしていなかった。身重の女は腰を抜かしながら、まだ少年であるハールを見上げて震えている。
『ひと、ごろ……し!』
声にならない声で女が言う──と同時。女は腹を押さえながら痛みに苦しみ始めた。
ハールはその場から逃げるように走り去ると、一度も後ろを振り返りはしなかった。それからその身重の女がどうなったのかは、未だ不明なままである。
「あの男が許せなかった。俺を騙した憎いあいつを殺してしまえば、消えると思ったんだ。悲しみが、怒りが……!」
だが、消えはしなかった。
殺したところで、全てが元に戻るわけではない。
あの男が騙さなければ──いや、あの時、"混ざり者"であると明かさなければ、こんな事にはなっていなかったのではないか。
「俺が殺したんだ。家族を、あいつも。俺の手は血に塗れてる。今も、この先もずっと消えはしない」
語り終えたハールの両手は、僅かに震えている。黙って聞いていたアリシアはハールの隣に移動すると、その背中を優しく摩った。
「理解されるつもりで話をしたんじゃない。いっその事、俺を嫌ってくれればと思ったからだ」
嫌だろう? 恐ろしいだろう? こんな奴と友達になど、なりたいとは思わない筈だ。ハールはアリシアから顔を背けて言った。
ハールは恐れている。裏切られる事も、人に心開く事も。本当は信じたい相手も一人はいた。けれど、過去がそれを許さないのだ。
「……あなたを嫌いになんてならない」
ハールに寄り添ったアリシアは、
ハールよりずっとずっと、わたしが……。
食べられるのを恐れ、身を守る為にあの
「わたしの方こそ血に濡れているの。恐ろしい能力で、何人も何人も……」
嫌われてしまうのは、わたし。と言ったアリシアの言葉に対し、ハールはとても驚いた様子だった。
「わたしの方が、恐いでしょ? 嫌いになった?」
アリシアが、悲しそうな顔で微笑んだと同時だった。
「嫌いになんてならない……!」
大きな体で覆い被さるように、ハールはアリシアを抱き締める。このまま距離を置いて、そしてもう二度と会わぬようにするつもりだった。今までそうしてきたように、ひとりで生きていくべきだった。
しかし、ハールは出来なかった。何故か。人は信じられない。けれどアリシアは信じたい。何故だ。
"混ざり者"だからか、アリシアが"純血者"であるからか。
「本当に?」
「本当に!」
アリシアは、ハールの大きな背中に腕を回しながら、『わたし、ハールとお友達になりたい』と告げる。
「後悔……するぞ」
「こうかい?」
「後になって、『やっぱり友達になんてならなきゃ良かった』ってなる事だ」
「何で? わたし、ならないわ」
「そうか……」
少しだけ二人の間に沈黙が流れると、アリシアは再度ハールに告げた。
「お友達になりたいの、なってくれる?」
ハールは何度も頷きながら、アリシアを抱き締めるその腕を更に強めた。
「今日から、──俺とあんたは友達だ」
パドキア共和国デントラ地区、ククルーマウンテンの、某邸宅。とある一室にて、肥満体の若い男がひとり。
パソコンのモニター画面に表示された、専用ネットオークションサイトを食い入るように見つめながら、男はニタニタと笑みを浮かべていた。
「
"Woden"とは、フィギュア界隈でも名の知れた有名作家である。
Wodenの作る洗練されたフィギュアは多くのコレクター達を魅了し、1体に億の値がつけられる程だ。
──定期的にアクセスしてて良かった!
今回久しぶりに出品されたWodenの作品は、フィギュア作家として最後の作品だそうで、ファンとしてはなんとも残念ではある。
──欲しい!
Wodenの作品はアニメやゲームのキャラクターが従来だったが、最後の作品は珍しくオリジナルが3体。
サンプル画像を見れば、同じ少女の違うポーズが三種類。画像で見ても可愛さが伝わってくる。
「グフゥ! か、可愛いイイイイ……!!」
これは間違いなくプレミアがつく作品だ。是が非でも手に入れたい男は、既にいくつか入札されている今の最高入札額に目をやると、余裕の笑みで躊躇いもせず、3体共にそれ以上の額で入札した。
「絶対に全て手に入れてやるからな!」
Wodenの最後の作品を手に入れる為、世界中のコレクター達との熱き