ダローガの森は、サヘルタ合衆国の北西に存在する。
ハールと共に飛行船に乗船したアリシアは、ダローガの森から比較的近い空港に降りると、とある街に入った。
この街に入る理由は、ダローガの森へと通じる道が唯一繋がっているからである。
遊びに来たわけではないので、長居は無用。という事で、街で一番高い建物を目標に進み、その建物の裏通りを真っ直ぐ西へ。暫く歩いた先の右側に赤い看板が見えれば、店と店の間にある、普通の人ならまず通らないであろう薄暗い細い路地裏を通る。
その路地裏を抜けて左に曲がり、途中、三つに分かれた道の真ん中を奥まで進むと、人が一人通れるくらいの小さな門が現れた。
「扉が開いてるな」
普段は閉められているらしい門扉は、何故か意味有り気に開かれている。
「付き添えるのは此処まで。後は、あんた一人で行くんだ」
ハールが指差す方向、開かれた門から外へと目を向ければ、遠くの方に小高い山が見えた。その山を囲む様に生い茂る森林が、ダローガの森であると言う。
「この先はどうなるかわからない。認められなけりゃ、森の入り口に戻され、認められたら反対側の出口から出られる」
森の方向を見たまま黙っているアリシアの肩を、ハールは優しく叩く。頑張れと、敢えて言葉には出さなかった。
アリシアがハールの家で住むと決まって二週間。
その間特別何をするでもなく、周辺を共に走ったり、買い物をしたり、家のソファに座ってお互い好きな本に没頭したり。短くも濃い日々を過ごしたハールの心は、とても満ち足りていた。
「家への帰り道は、わかるか?」
「ええ。ちゃんと覚えたわ。それに、迷ったらこれを使うから」
アリシアは、羽織るマントの下に着ていた、薄紅色のロリータワンピースのポケットの中から、白いうさ耳型のケータイを取り出して見せた。
ハールから『持っておいたほうが良い』と、連れて行かれた街の専門ショップ内で一目惚れし、初購入したのである。
薄型で持ちやすく、機能には通常の電話やメール以外に、テレビ視聴とナビ機能まで搭載されているケータイだ。
ハールは、なんとか電話機能ぐらいは使える程度にと考えていたが、意外にもアリシアはケータイの扱いを覚えるのが早く、一日で使いこなせるようになっていた。
「アリシア」
目線を、同じくらいの高さに合わせるように屈んだハールと、アリシアは向き合った。
「気をつけてな」
「うん」
ニカッと笑いかけるハールに『いってきます』と微笑み返したアリシアは、フードを深く被り直すと、ダローガの森へと向かう道に前進する。
門をくぐれば、天空闘技場でのヒソカの部屋から初めて勝手に出た時のとは、少し違った高揚感。
──ベルも、こんな気持ちだったの?
ハンター試験を受ける前の心境とは、こういうものなのだろうか。……だとしたら、ベルと同じ気持ちになれて嬉しい。見えない先は恐ろしいけれど。アリシアは、決して後ろを振り返らずに、前だけを向いて歩いて行く。
「森には、あんたを苦しめる
後ろ姿を見送るハールは、誰にも聴こえない声でぽつりと言った。
──本当に良かったんだよな、これで。
今更悔いたところで何になろう。少女はもう、前に進んでしまっているのだ。
してやれる事は、今は無い。ナビゲーターに認められようが認められまいが、試験に合格しようが落ちようが、ただ待つのみ。
──無事であってくれ。
アリシアの姿が完全に見えなくなると、ほぼ同時だった。小さな門扉が、自然に閉じられていったのは。
小高い山を目指すように、ダローガの森へと続く道を歩くアリシアの足取りは、今のところ軽い。
──このまま行けば良いのよね?
道沿いを進めば、鬱蒼と茂る森が見えてきた。近くに立て札などは無く、どこが入り口なのかもわからない。アリシアは森に入る手前で立ち止まり、はるかに高い木々を見上げた。
「空まで届きそうだわ……」
住んでいたあの森とは全然違う。そのような事を思いながら、一歩ずつ足を踏み入れる。
外はとても明るいのに、中に入ればあっという間に暗くなった。それは、びっしり葉を茂らせている高い木々が、陽の光をさえぎっているからだろう。
森の中に人はおらず、まともな道らしき道も無い。木々を縫って暫く歩いたアリシアは、その場に一度足を止めた。夜には慣れているので、段々と深まる暗闇に視界がはっきりとしてくる。
「誰かいるの?」
声は反響し、森中に響いた。
声を発したのは、何となく、誰かに見られている気配がしたからだ。
森の
アリシアは辺りをぐるりと見回し、少し息を飲んで耳を澄ませる。すると突然、どこからか微かな歌声が聴こえてきた。
「誰かが、歌っているわ」
……しかも女性だ。透明感のある、耳に心地良い声だ。一体何を歌っているのか知りたくなったアリシアは導かれるように、その歌声のする方へと走った。
おいでや おいで いますぐおいで
ここは こわい もりのなか
おいでや おいで いますぐに
歌声は、アリシアを繰り返し呼んでいる。
──どこまで行けば良いの?
止まらない歌声に呼ばれて着いた先には、一際細く、一際短い一本の木が、開けた場所の真ん中に、ぽつんと生えていた。
「この木から?」
近付いて耳を傾ければ、アリシアの背の半分位の高さしかない木から歌声が聴こえてくる。
ねむれや ねむれ いますぐに
ねむれや ねむれ いますぐに
ねむれや ねむれ いますぐに
まるで母が歌う子守唄のように、その歌声はアリシアを眠りへと誘っていく。ゆっくり、ゆっくりと。
完全に瞼が閉じられた時、アリシアは小さな木の前で倒れた。
『……さい』
誰かの声が。
『ごめ………さい』
何だか懐かしい声に目を開ければ、近くで誰かの泣き声が耳に入ってきた。
──誰が泣いているの?
上半身を起こし、フードを下ろして、泣き声のする方へと顔を向ける。広がる闇の中、一筋のスポットライトが当てられた先には、ベッドに横たわる女性と幼い子供の姿があった。
目を凝らしながら母娘らしきその二人を見れば、アリシアは驚愕して口もとを両手で押さえた。
あれは、母様……わたし?
なんとそこにいたのは、命の消えかかった母と、幼い自分であったのだ。
『ごめんなさい、アリシア。あなたをひとり残してしまう私を許して……』
『かあさま、わたしをおいていくの? いやよ。わたし、かあさまと一緒にいる。いってしまわないで』
美しかった母の頬はこけ、痩せ細り、身体を自分で起き上がらせる力も、もう残ってはいない。そんな母に縋り付くように抱きつきながら、幼いアリシアは泣いて駄々をこねている。
『アリシア。私がいなくなっても、この森はあなたを隠してくれる。守ってくれるの』
『いや! いやよ!』
『……よくお聞き。私達はミムノイチゾク。この森から出ると喰われてしまうの。だから、森の中から出てはイケナイ……!』
切り替わる場面演出のように暗転し、暗闇に戻る。すると今度は、背後からすすり泣く声が。振り向けば、スポットライトが当てられている先にまた幼い自分の姿があった。
母様は、とても軽かった……。
冷たくなった母を一生懸命にベッドから降ろし、爪が剥がれてしまいそうになるくらい深く土を掘り、泣きじゃくりながら母を埋め、朝を迎えるまでその土の上で眠る。──という悲しい光景を再び違う視点から見ていたアリシアの胸は、今にも張り裂けそうになる程に痛んだ。
──死んでしまったモノを土に埋めるという事を知ったのは、いつだった?
「かあさま。うさぎさん、なんでうごかないの?」
ある日、生い茂る草の上で倒れて動かない兎を見つけたアリシアに、母はこう答えた。
「兎さんはね、『死』んでしまったのよ」
冷たくなった兎を両手ですくうように抱えた母は、木の根元の隣に穴を掘って、その兎を埋めて見せた。
「生きているものにはいつか終わりが来る。これは『死』というの」
「し? わたしにも、かあさまにもやってくる?」
「ええ。『死』はみんな同じにやって来る。私にも、勿論あなたにも」
これが、アリシアが知った初めての『死』だった。
意識をふと、スポットライトを浴びた幼い自分へと戻せば、土の上で眠って閉じている筈であった目が、何故か此方をじっと見ているではないか。
──え?
恐ろしい程に開かれた目と見つめ合えば、また暗転。再び暗い空間に戻り、アリシアはその場からゆっくりと立ち上った。
──これは、何なの?
ダローガの森の主は一向に現れず、代わりに現れたのは、アリシアの悲しい記憶だった。
『はじめまして、わたしはアリシア!』
自分の声に肩をびくりと震わせ、咄嗟に振り向いた。次は何処からなのか、と。聴こえてきた方向を頼りにアリシアは走る、走る。
『へへっ、そうだよ。今からダンス。楽しい楽しいパーティーさ』
『まあ! 素敵!』
アリシアは足を止めた。それは突然目の前に現れた、スポットライトを浴びた自分の姿に驚いたからだ。
まさか……。
目を輝かせて男達に付いて行く。囲んで歩く怪しげな男達の企みなど、気付きもしていない。
森を出てしまったばかりの、外の世界を何も知らない自分だった。
「ダメよ! ついて行ったらダメなの!」
声は届かない。アリシアはなんとか自分を止めたいと、必死になって追いかけた。
「な、なんで……?」
追付けるぐらいの速さで走っているのに、何故か追い付けない。
とうとう
『助けてかあさまぁ!!』
「やめて──!」
無理矢理脚を割って入ろうとする男達を止めるように、アリシアは手を伸ばした。……が、すり抜けて触れやしない。
「ダメ! アリシア!」
思わず、自分の名前を叫んでいた。
『グウっ、……フゥっ!』
『ギッ……、ヤアッ!!』
苦しそうに顔を歪める男達は、少しずつ地面から身体を浮かせ、その身を限界まで膨らませていく。
『ぐぐぅっ!……ガァアァ!』
パァンと音を立てて弾け破れ、細かく飛沫となった血が、地面に倒れている自分に降り注がれる様子を、アリシアは呆然と見つめるしか出来なかった。
「やめて……」
再度暗転。今度は、あのメルサが目の前に姿を現した。
『メルサ、そっちは真っ暗よ』
『大丈夫、月が照らしてくれるから』
確かこれが、メルサと会った最後の夜であったと思い出す。アリシアは酷く動揺して心臓の鼓動を速めると、己の胸元をぎゅっと強く押さえた。
メルサ……。
周りの草影から三人の柄の悪い男達が現れ、メルサの側に寄って怯える自分の姿。冷たい表情を向け、『目障りなのよ』と突き飛ばす、メルサ。
──やめて。
見たくない。見せないで。アリシアは目を瞑り、両耳を塞いだ。
『──やだ、タベラレタクナイ!!』
塞いだ筈の耳から自分の叫ぶ声が響き、反動して目を開ければ、再びあの光景が始まった。
「いや!!」
アリシアはその場から逃れるように走った。暗い闇の中をひたすらに走れば、段々と息が切れてくる。
「あっ……!」
何かに躓いて膝を付いたアリシアの前には、新たなスポットライトが当てられる。
『い、いたい……っ! や、めて……!』
『無理♥ だって、止まんないから……♥』
太股を肘で開き、両膝裏に手を入れて持ち上げ、覆い被さる裸身のヒソカの下で顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らした自分と目が合った。
『恐い、痛い、痛い。クルシイ、やだ、母様、タスケテ……!』
此方に向けて伸ばす手を、アリシアは慌てて掴もうとしたが、またも暗転。
『アリシア、ねえ、アリシア』
茫然自失となったアリシアを呼ぶのは、赤いベッドの上でヒソカと愉しそうに絡み合う、もう一人の
「ど──」
──どうして。その姿にショックを受けたアリシアは、思わず絶句した。
今まで、自分の悲しい過去や辛くて恐い記憶が現れていたというのに、目の前の場面には全くもって覚えがないのだ。
「嫌!」
目を逸らし、この場から離れるアリシアを止めたのは、いやらしげに舌を出して微笑む自分である。
『今はコワイ、イタイ、クルシイ。でも、そのうちキモチヨクなるわ』
──ならない!
『こんなのはね、恐くないの』
アレも、コレも。そう言って左右に指をさせば、初めて能力を使った時の血を浴びた自分と、メルサが用意した男達に押さえつけられている自分が現れ、そして闇にフェードアウト。
『勿論、ヒソカもね』
嫌な予感がした。アリシアは、もう一人の自分の足によって、顔を踏まれて悦んでいるヒソカに目をやった。
「ヒソカはお友達よ!」
『トモダチ? ……本当に?』
高笑いを一つ。踏み付けている力を強めれば、ヒソカは恍惚とした表情を浮かべ、長い舌先でその足の親指を
それに対して蔑んだ目を向けるもう一人のアリシアは、まるでボールを蹴るように、ヒソカの顔面を思い切り蹴り上げたのである。
『痛かった、恐かった。でも、トモダチだから我慢した──ううん、してあげたのよ!』
悲痛な顔をしたアリシアを睨み付け、気が狂ったように声を枯らせて笑った。
「やめて!」
震えて苦しみ悶えるヒソカが、徐々に身体を膨らませながら浮いていく。
『やろうと思えばいつでも出来る。だから……、恐くないわ』
アリシアがこれ以上見たくないと目を逸らそうとすれば、血塗れの自分と、また別の自分が阻止する為に現れて、二人で片方ずつアリシアの腕を押さえ、目を閉じないよう指で強引にこじ開けて見せた。
「いやぁ! やめて!」
逃げようともがけば、握り締めた掌に爪が食い込んだ。
「いやあああ!!」
膨れ上がるヒソカは、最後に目玉を飛び出させるまで膨れ切って、そのまま醜く弾け割れた。
もう一人のアリシアは歪んだ笑いを頬に浮かべたまま、降り注ぐ血を浴びて空を仰いでいる。その光景に背筋を寒くさせたアリシアは二人に抵抗し、力の限りに振り解いて半ば半狂乱になって逃げた。
「もう嫌! もう見たくない! もうやめて!」
永遠に続く闇の中を走れば、沢山の小さなモニターが周りに現れて、この森に入ってから見せられた悲しくて恐ろしい記憶が、次々に映し出されていく。
『──アリシア』
スポットライトが自分に当たれば、前を塞ぐようにして立つ、もう一人のアリシア。
「消えて! 今すぐに!」
『聞いてアリシア』
対峙した自分は、先ほどの笑みを全て消して言った。
『ミムノイチゾクはね、タべられてるんじゃないの──』
「消えて」
『──タベてるのよ』
"
微笑みながら言う、もう一人の自分と同時だった。オーラを放ったアリシアが、念能力を発動したのは。
自分が弾け割れる
「う……、ううっ!」
涙はとめどなく溢れ、声を上げて泣き叫ぶ。
「……何で、何でこんなの見せるの? 」
ダローガの森の主は、何故このような恐ろしいものを見せるのだろうか。アリシアのすすり泣く声だけが、虚しく響いていた。
『お前の運命の道を選べ』
闇を包むように、頭上から突然知らない男の声がした。
「だ、……誰?」
姿は見えない。
『二つの道がある。一つは光明。もう一つは暗黒。どちらかを選択し、お前の道を生きよ』
目の前に、分岐した二つの光る道が現れた。
「道……?」
『右を選べば、お前の森。左を選べば先の見えない闇。さあ、選べ』
──わたしの、……森?
右に目を向ければ、美しい母の姿があった。
「母様……?」
此方に優しい笑みを向け、母が手を振っている。
『アリシア、帰りましょう! 森へ。恐ろしくて悲しい事は全部お終い。誰もあなたをタベたりしないわ』
「お、おしまい? 全部?」
『ええ、全部。さあ、アリシア!』
両手を広げる母の笑顔に、アリシアは堪らず駆け出した。
悲しくて、恐くて、痛い思いはもう嫌だ。森へ帰りたい。母と二人で静かに暮らしたい。
わたしは、わたしの森を……!
母親の胸に飛び込むまで、後もう少しという時だった。
『アリシア!』
左の先にハールの姿が目に入り、アリシアは足を止めた。
『俺と友達になってくれて、本当にありがとう!』
「ハール……?」
アリシアを呼ぶ母の声が耳に入らなくなるくらい、ハールの声がはっきりと耳に流れた。
『たとえこの道があんたを苦しめても、たとえこの道が闇しかなくても、俺はあんたを救いたい。あんたを支える友でありたい。アリシア、俺はお前の──』
アリシアはハールから母親に目を移す。
『アリシア、この道はあなたを守ってくれる。さあ、いらっしゃい!』
瞬間、母親との懐かしい日々の全てが、走馬灯のように頭の中を走って行った。
「母様。わたし──、母様を埋めたのよ。あの森には、もう、……誰もいない」
それを伝え終えたアリシアは、左の道に真っ直ぐ足を向かわせる。
この道はきっと、恐い、痛い、苦しい。でも、それでも……!
「ハール!」
逆光を浴びながら両手を広げるハールの胸にアリシアは飛び込んだ。
暗闇は一瞬にして明転し、何もかもが光に包まれる。
真っ白な空間の真ん中、低くて小さな木の根に横たわるアリシアのもとに、二人の男女が現れた。やがて光は消え失せ、元の暗い森へと戻っていた。
「暗黒の道を選んだ……か」
真っ黒な髪色をした、長髪の男が言う。
「あんたが満足して選択させたんでしょ? それに、道はこのコが自分で選んだのよ。気にしない気にしない。ていうかさぁ、久しぶりに良い恐怖だったわね」
同じ髪色をした女の方は側でしゃがみ込み、『ごちそうさま』と囁きながら、フードから見えるアリシアの頬を指で優しく撫でる。
「
「可哀想ね。あたし達と同じくらい」
「……フン。同じなものか。──おい、さっさっと連れて行くぞ」
「はいはい。じゃあ行きましょうかね、アリシアちゃん。予備試験合格、おめでとうございま~す!」
二人の男女はアリシアを抱き抱えると、そのまま森の奥へと消えて行った。