被改竄情報:吸血鬼であること
要奪取情報:運命を操る程度の能力
ほんの少し、違和感を覚えることがあった。昼と夜を何度も何度も繰り返し、石油のような色の夜空に浮かぶ純白の月が満ちていく都度に、レミリアの周囲で小さな異変が起きていた。詳しく言うと、日に日に怪力が強くなっていっている。つい先日など、とうとうドアノブを握り潰してしまった。そして、今までどうということもなかった流水も、振れれば水膨れを起こしてしまうようになっていた。
「力が戻っているってことなのかな……?」
至極真っ当な僕の予想を聞いても、レミリアは眉ひとつ動かさず、興味なさげに翼をぱたぱたと揺り動かすだけだった。
僕の家のカレンダーは日付の右隣にその日の月の形がデザインされているタイプのものなのだが、それは完全な上弦の月の前日だった。夕食を優雅な所作で口に運ぶレミリアが、ふとナイフとフォークを動かす手を止め、僕に告げてきた。
「……私、多分明日には完全に元通りになると思う。」
「どういうこと?」
僕が尋ねると、レミリアはおもむろに右手に持ったナイフで、左手の小指をすっぱりと切り落としてしまった。驚愕する僕の目の前で、肉と骨と皮の塊と化した細い小指、そして真っ赤な血液がテーブルに零れ落ちる。しかし、次の瞬間にはレミリアの左手の小指はまるで何もなかったかのようにフォークの柄を支えていた。
「ほら、再生能力まで戻ってるわ。最近、私の力が段々私の中に戻ってくる感じがしてたのよ。」
「それは……よくここまで力を振るうのを我慢できたものだね。」
「あら、私はもう人間を支配しようだなんて考えていないわよ? 少なくとも、今はね。」
何とも恐ろしい一言を添えると、レミリアはナプキンで口元を拭い、あてがわれた自室の方へと去っていった。
そして次の日、僕は学校で任されている仕事の作業に手間取ってしまい、マンションのエントランスに到着したのは、既に綺麗な上弦の月が夜空に煌めくような時間帯だった。普段通りに開いてしまうドアノブに違和感を覚え、家の中に入ると、何と全ての部屋の照明が消えていた。
「レミリア?」
名を呼べど、その返事は聞こえない。根拠のない焦燥感が僕の心臓を震わせた時、僕が交わした第一の契約の力が身体の奥底からどこかへと向かっていく感覚がした。その感覚に従って来た道を引き返し、エレベーターの上昇ボタンを押してエレベーターに乗り込むと、僕の指は勝手にそのボタン――最上階の数字を押していた。
ちぃん、と鈴のような音を響かせ、エレベーターが最上階、屋上庭園へと到着する。小走りでエレベーターから飛び出し、周囲を見回すと、上弦の月を見上げるレミリアの背中があった。
「レ――!」
呼ぼうと思った、その瞬間。
「こんばんは、詐欺被害者さん。」
僕の背後から声がした。聞き間違えるはずもない。その声の主の方を振り向くと、やはり僕の直感通りの人物がそこには立っていた。レミリアのそれにもよく似た帽子を被り、ロングドレスの裾をふわふわと揺らしながら、手の中の日傘を転がし弄ぶ、金髪の少女。
「紫さん……!?」
名を、
「ど、どうしたんだい? レミリアを迎えに来たの?」
「あら、貴方には世界が一筋縄で太刀打ちできる安易な物に見えているようね。若さの特権かしら。」
紫は手にした日傘で、海の上に燦然と輝く上弦の月を指し、口を開く。
「水平線は水と空の境界線。つまり結界の境界よ。そして上弦の月は鏃が水平線へと向けられた弓の月。弓は此処から彼方へと力を届ける物。そして届ける力とは……当人が当人であるための証明となる力。」
「な、何が言いたいの?」
その真意が掴めずに狼狽する僕へと、紫は淡々、言葉を紡ぐ。
「その力を奪い取り、他人事のように慌てふためく半神半人を打倒し、その力を自らの元へと取り戻したその時、水平線は彼の地への道を切り拓く……。」
「紫さん!!」
僕が叫んだ時には、既に紫の姿はそこにはなかった。代わりに、悪寒がするような圧力が僕の背後から伝わってくる。恐る恐るそちらを向くと、そこには相変わらず優雅な立ち居振る舞いでこちらを見つめるレミリアがいた。彼女の背の奥で純白に輝いていたはずの上弦の月も、いつの間にか昨日テーブルの上に広がった血のような深紅色に染まっていた。
優しく微笑むレミリアは、静かに、そして荘厳にその言葉を僕へと投げかけた。
「ねぇ……あんた、
あぁ……綺麗な月。さぁ、こんなに月も紅いから……。本気で殺すわよ。」
僕が交わした第一の契約とはすなわち、異界の神が持っていた『現実世界に干渉する事象に関する情報を改竄する力』。それが幻想郷であれこの世界であれ、人間が住まうことのできる世界において具現化できる『事実』を書き換える力だ。故に僕がこの力から解放されたのは紫の隙間の向こう側であった。
閑話休題、僕は弱まったとはいえ健在な第一の契約の力を用いてレミリアが放った巨大な炎弾を掻き消すと、思い切り前方に向かってジャンプし、その首元に盛大に右ストレートを叩きこむ。どうやら自分に対して行う情報改竄も未だ使用できるようで、レミリアは僕の思い通りに屋上のフェンスを突き破り、地上二百メートルの夜空へと放り出された。
だが、その場でくるんと一回転し、まるで空の上に立っているかのように静止したレミリアは、余裕綽々といった表情で、先程よりも巨大な炎弾を同時に十数個生成した。
「デタラメが過ぎないかなぁ、さすがに……。」
「あら、あんたの能力の方がよっぽどデタラメじゃない。」
「僕、もうほとんど一般人みたいなものなんだけど!」
「あらあらまぁまぁ、こっちの世界の一般人も空を自由に飛べる物なんだねぇ。」
そう言ってキシシと笑うレミリアの言葉通り、僕もレミリアが飛ばす炎弾をマンションに直撃させないよう、レミリアと同じ高度を浮遊していた。
先程自分で言った通り、僕の中の第一の契約の力は日に日に薄れており、大規模な情報改竄は既に不可能になってしまっている。できて『自分の腕力はレミリアのそれより下である』という事実と、『自分は何の助力もなしに空を飛ぶことはできない』という事実に関する改竄程度。少し前であれば『空気は金属ではない』、『小枝は金剛より脆い』等の事実すら改竄できたのだけど……。
「でも、あんたは今最高に私の癪に障る力を持っているわ。――何か、わかる?」
「え――?」
その瞬間、レミリアは手中に深紅の魔力で作り上げた大槍を生み出し、裂帛の雄叫びと共にそれを僕目掛けて投擲した。
「『スピア・ザ・グングニル』ッ――!!」
咄嗟の出来事に僕の反射神経は追いつけず、ダメージ覚悟でその場で防御の姿勢を取った。しかし、その大槍は僕を貫くことは無く、僕の耳元を掠めてマンションの外壁を盛大に崩壊させた。
「――……わかったかしら。あんたが今無意識化で持っているもうひとつの能力。私が幻想外れした一番の要因。」
「あんたは今――私の『運命を操る程度の能力』を意識せずに発揮しているのよ。」
唖然とした。茫然とした。愕然とした。深紅の月を背に優雅に浮遊するこの幼女が口にしたその『事実』は、僕の動きを止めるのに十分な威力を持っていた。何故なら、納得してしまったのだ。心の中でモヤモヤしていた自分も知らない能力があること自体はレミリアがこちらにやって来てから幾度となく感じていた。その正体が、レミリアの口から放たれたその一言で一気に腑に落ちた。
それと同時に、紫が僕を受け皿にした真意も。紫はこう言った。『その力を奪い取り他人事のように慌てふためく半神半人を打倒し、その力を自らの元へと取り戻したその時、水平線は彼の地への道を切り拓く』と。
「君たちが幻想入りできる条件は……
「さぁね。」
レミリアは短くそう返すと、再び冷酷な表情で手の平の上に悪魔の炎を呼び出し、静かに死刑宣告にも等しいその言葉を紡いだ。
「紅く美しい夜の夢は、終わらない――! 『スカーレットデスティニー』……!!!」
次の瞬間、僕の体躯は紅い魔力を纏ったナイフによって隙間なく突き刺されていた。
「かはっ――!?」
ナイフが重りとなってその場で反転してしまった僕の背にも、また隙間なくナイフが無数に食い込む。それでも僕は死なない。第一の契約は神との契約。ほぼ失ったとは言え、神に匹敵する生命の頑丈さは健在なのだ。
超高温の大玉弾幕に身を焦がされようと、脆くなった皮膚に突き刺さるナイフが臓腑を捻じ切ろうと、僕は死ぬことを許されなかった。
「タ――ス……ケ、テ。」
潰れた喉で声にならぬ命乞いをしようと、レミリアは弾幕を止めようとはしない。彼女は一体どんな表情で僕を嬲り殺しているのだろう。灰燼に帰した眼球はその姿をとらえることができない。人の形すら保っていない僕にひたすらナイフの嵐をぶつけて、悦に浸っているのだろうか。感覚すら喪失した僕にはもう何もわからなかった。
気が付くと、僕はマンションの駐車場の入り口で五体満足、無傷のまま倒れていた。身に纏っていた学校の制服は綺麗な状態だ。無意識のうちに『自分の耐久度は有限である』、『自分の人体は再生不可能である』及び『自分が身に着けている物質は再生不可能である』という事実を改竄していたようだ。
周囲にレミリアの気配はない。夜は既に明けようとしており、水平線の向こうに月が沈もうとしていた。エレベーターに乗り込み、自室のドアの前に戻ってくると、ドアノブが律儀に握り潰されていた。しかし、部屋の中に人の気配はない。代わりにテーブルの上には紅茶が注がれたティーカップが置かれており、一口分だけ飲まれていた。
「……つまり、運命は再びあの子に宿ったってことなのかな。」
そんなちょっぴりサムい独り言を漏らす部屋に響いていた幼子のワガママはもう聞こえない。何だか変な気分だ。殺されかけたと言うのに、怒りや悲しみよりも寂しさの方が強い。一人暮らしゆえの感想なのだろうか。
しかしそんな時、インターホンが静寂を破って鳴り響き、僕はドアノブを直すのを忘れていたのを思い出しながらドアの方へと歩み寄った。そしてドアをおもむろに押し開けると、そこにいたのは。
「あっ、お久しぶりです! 今日から少しの間お邪魔することになりました、現人神要素のなくなったただの巫女です!」
新たな客人が立っていた。