私には二人のお母さんがいる。
『絶対に許せません。こんな……こんな人を踏みにじるような事を!』
可憐な容姿から、鈴を転がすような、荒々しいうねりのような千変万化の声を出して、どんな役でもこなす人気女優・中野一花と、
「華梨ちゃーん。お母さんと遊ぼう」
掃除ができなかったり寝る時にいつの間にか裸になってしまうダメな所も多々ある上杉一花の二人だ。
と、上杉
「ね、ね、画面の向こうじゃなくてすぐそばにお母さんがいるんだよ」
「今いいとこだから、あとでね」
「風太郎くーん娘が冷たいよー!」
家を空ける事も多い一花に代わって家事のほぼ全てを担っている、一花の夫、華梨の父、上杉風太郎は洗っていた皿をふきんで拭きながら言った。
「華梨、お母さんの仕事が忙しいのは知ってるだろ? 優しくしてやれ」
「しょうがないなぁ……」
「うーんなんだか納得いかないけど、まあいっか」
一花は普段撮影などで触れ合えない分を埋め合わせるように愛娘に抱き着いた。そんな事をされている当人である華梨はというと、抱きしめられる事自体は嫌いではない。むしろ好きなのだ。普段会えない母親からともなればなおさらである。
しかし、ドラマでカッコいいセリフを叫んでいる人物と、目の前にいる母親とが上手く像を結ばずに混乱しているというのも嘘ではないので複雑な心中だった。
「うちの華梨が世界一かわいー」
「お母さん苦しい」
「嬉しいのは分かるが加減しろ馬鹿」
洗い物を終えた風太郎は、行き過ぎた一花の愛に歯止めをかけるべく軽く頭を小突いた。
「あてっ」
「まったく……華梨、おいで」
女優という特殊な職業上仕方のないことだが、上杉家の一人娘華梨は、母親の一花に構ってもらえないので父親の風太郎に良くなついていた。
「ずるい風太郎君、私の華梨を返して」
「ずるくない。それに俺の娘でもあるんだから返すもくそもあるか」
「ぶー」
頬を膨らませて不満を露わにした一花に、もう三十になるんだからその癖を止めとけ、と言った事を思い出して風太郎は苦笑した。「私は心が少女だからいいの」と反論される事も合わせて記憶の中から浮かび上がってくる。
「失礼な事考えてない?」
「考えてない」
「ふーん。まあいいや。華梨ちゃん、最近どんな事があったかお母さんに話して。お父さんに言った事でもいいよ。私は華梨ちゃんから、どんな事でもいいから聞きたいんだ」
さっきまでのおちゃらけた少女の面影は吹き飛んで、優しく微笑んで一花は娘を撫でた。その顔は慈しみに満ちていて、愛しさが溢れて、会う機会が少なくても大好きなお母さんの顔だ。胸の奥がむずむずするような嬉しさを感じながら、華梨は最近あった出来事を話し始めた。
最近の幼稚園の話題と言えば、もっぱらお遊戯会の事だった。
題目はシンデレラ。そのために華梨がいるひまわり組ではアニメ映画を見たり、皆で本を読んだりして備えていた。
皆の中でシンデレラがどういう物語なのか固まったころに、先生は何の役をしたいのか聞いていた。
「シンデレラやりたい人は手をあげてー」
はーい、と言って手をあげる先生につられて何人もの女の子が手をあげた。
しかし最初、華梨は手をあげていなかったのだ。それを不思議に思った友達は首をかしげながら尋ねた。
「華梨ちゃん、しないの?」
「うん。よくわかんないし」
「えーもったいないよ。せんせー、華梨ちゃんがいいと思いまーす」
「ちょっとさーやちゃん……」
華梨の友達のさーやちゃん、武田紗矢子は父親ゆずりのきらきらフェイスからウインクを飛ばしながら先生に推薦した。
「華梨ちゃんもやりたい?」
「わたし……」
「わたしは華梨ちゃんがいいと思います。だって花梨ちゃんのお母さんは女優なんだよ」
紗矢子は無邪気にそう言った。自分の大好きな友達の母親の事を言うのは、何だか嬉しくてついつい口が滑ってしまう。華梨は別に隠そうとしている訳ではなかったが、お母さんと女優という言葉が自分の中でうまく繋がっていないので、口に出すのをはばかっていたのだった。
「えーすごーい! 華梨ちゃんのお母さんってじょゆーさんなんだ!」
女優というものがいまいち分かっていない子でも、その仕事が皆の憧れの職業であることくらいは知っているので、目を輝かせながら華梨に尊敬のような目を向けた。
「うん……」
「私は華梨ちゃんでいい」
「わたしもー」
シンデレラをやりたいと言っていた女の子も、女優という響きにやられたのか華梨を推薦する立場に回った。
「華梨ちゃんはどう? やりたい?」
「えっと……」
先生は最初手をあげていなかった華梨に気遣って意思を確認してくる。しかし、友達がきらきらと期待の眼差しで見つめてくるものだから、とてもいいえとは言えなかった。
「やります」
ここにひまわり組組長上杉華梨が誕生したのだった。
あまり乗り気ではないお遊戯会に、華梨は普段は真面目な児童だがいまいち集中力を欠いていた。
その日も劇の練習をしていたが、華梨の内心は早く帰りたいなあという気持ちでいっぱいだった。
「華梨ちゃん、お母さんが迎えに来てくれたよ」
夕方になってお迎えを待っていた華梨は耳を疑った。いつもならもう少し遅い時間になってから父親である風太郎が迎えに来てくれるのだ。それが今日はこんな早い時間に、それも母親である一花が迎えに来てくれるなんて。
「華梨ちゃんのお母さん!? 見たい見たい!?」
残っていた女の子たちは一気に色めき立った。
幼稚園の行事に参加しているのはもっぱら風太郎の方だったので、彼女達は一花に直接会った事は無かったので否応なしに期待が高まってしまっていた。
お迎えに来た一花は、華梨が大勢の女の子を引き連れて歩いてきているのを見て驚いた。
「あれがじょゆー」
「きれいだね」
後ろにいた友達が口々にそんな事を言うものだから、華梨はなぜだか居心地が悪くなり、一花に抱き着いた。
「華梨ちゃん大人気だねー。お母さんも鼻が高いよ」
一花は抱き着いてきた華梨をそのまま抱き上げて、
「これからも花梨と仲良くしてね」
と付いてきてくれた友達に言って駐車場へと向かった。ばいばーい、と軽く手を振りながら立ち去っていく後ろ姿を眩しそうに眺めながら皆は見送った。
「おーらが違うおーらが」
何人かが意味は良く分かっていないが何だか凄いらしい言葉を言いながら一花をそう評した。そして、お遊戯会の主演を華梨に決めたのは間違いではなかった、と無責任に思うのだった。
華梨はぶすっとして流れる景色を眺めていた。
「どうしたの?」
一花はそんな娘の様子を不思議に思いながら、優しく語り掛けた。
「華梨、皆の人気者じゃん。お母さんびっくりしちゃった。お父さんそういうこと言ってくれないからなー」
呑気な言葉に、華梨はなぜだか怒りたい気持ちになった。
「そんなんじゃないもん」
「え? どういう事?」
「ねえお母さん、女優ってそんなにすごいの?」
「お遊戯会の事で悩んでるの?」
母親のそんな見透かしたような言葉に、華梨は少し恥ずかしくなって、それでも頷いた。
主役になっちゃったけど、どうして皆主役になりたいんだろう。どうして舞台の真ん中に立ちたいのかな。恥ずかしくないのかな。色んな人に見られるって、そんなに楽しい事とは思えないよ。
華梨はところどころつっかえながら、そのような事を言った。
「そっか。華梨ちゃんはお芝居が好きじゃないのかな」
というのも違うような気がしたが、母親のその言葉が自分の気持ちに一番近い気がして、
「うん」
そう頷いたのだった。
「そっか。うーん」
一花はそんな娘の為に知恵を絞ろうとする。この子にどうにか前向きになってもらいたい、という親心だった。
「でもイベントってめいいっぱい楽しんだ方が良いよ。お父さんだって、いっつもあんな仏頂面してるけど、イベントはいっつも凄い楽しみにしてたんだよ」
「そうなの?」
いつも落ち着いている父からは想像もできない、と華梨は目を輝かせた。
上杉風太郎という父親は優しいけれど、勉強の事は優しくない父親だった。別に勉強が嫌いという訳ではなかったが、華梨にとって父親との過ごし方は部屋で本を読んでくれたり、ひらがなの書き取りや簡単な計算を一緒にしたり、という物だ。そんな父親がイベント事を楽しみにしていたなんて、と意外な一面を知った花梨だった。
「でも……」
でもそれはお父さんでしょ。私はお父さんじゃないもん。
そう言いたかったが、普段から世話を焼いてくれる父親を悪く言うのははばかられて口をつぐんだ。
「ね、華梨ちゃん。良いとこ連れてってあげる」
「いいとこ?」
「ついてからのお楽しみ」
ね? と一花は世の男達が卒倒しそうな笑みを浮かべてウインクをした。相手が娘なので男殺しは一ミリも効力を発揮しなかったが。
連れてこられたのは、知らない大人が両手の指では数えきれないほどにいる所だった。
「中野さん、その子は?」
「私の娘」
「へえー。ねえ君、お名前教えてくれるかな?」
母親に手を引かれて歩いてきた華梨を迎えたのは、自分の母親と同じくらいの年齢の女性だった。細い顎に切れ長な目で、どちらかというとカッコいいタイプの女性だった。
花梨はその迫力に思わず後ずさり、母親の影に隠れた。
「うわー可愛い~。うちに頂戴」
「あげないから」
一花は愛娘をこれ見よがしに抱きかかえてベーっと舌を出した。
「でもどうしたの?」
「せっかくだから私の仕事ぶりでも見てもらおうかなってね」
「監督が良いって言うかな」
「ここに来る前にスタッフに聞いたけど、お父さんに見ててもらうって言ったら良いってさ」
入り込めない二人の間に自分の知っている人の話題が出た事で、それを起点に華梨は口を挟んだ。
「お父さん来るの?」
「来るよ~。あ、来た来た」
そう一花が指さした方を見ると細身の男性がきょろきょろ辺りを見回して走っていた。
「こっちだよ」
華梨の手を取ってそれを大きく振ると、こちらに気が付いたようで駆け寄ってくる。カッコいい顔立ちの女優友達は「お邪魔虫は退散」と言って立ち去ってしまった。
「一花、いきなりどうしたんだ」
「ね、華梨ちゃんがお遊戯会でヒロイン演じるの知ってる?」
「え? ああ、もちろん」
「ひどいなあ、ちゃんと私にも教えてよ」
一花は風太郎に娘を渡した。
「だからね、お芝居の先輩としての姿を見せてあげようかなと思ったの。じゃあ行ってくるね。よろしくお願いします」
「お願いされます」
夫婦の二人は軽く笑い合うと、婦の方、一花は衣装に着替えに行った。
パリッとしたパンツスタイルのスーツに身を包んだ一花が撮影の準備を進めているのを見ると、華梨は不思議な気持ちになった。
あれは上杉一花じゃなくて中野一花だ。
と、思ったのだった。
カメラの、音声の、光源のスタッフが慌ただしく動き出して、本番の準備が進められる。
「華梨、しーだぞ」
風太郎のは唇に人差し指を立てて喋らないように注意を促した。
華梨は頷いて、母親に見入った。
一花の演じる女性刑事が上司と問答をしているシーンだ。
何を言っているか細かい所は分からなかったが、一つとても心に残ったセリフがあった。
一花はポケットから手帳を取り出すと、そこに挟んでいた写真を見て言う。
『……息子は、私に残された最後の希望ですから』
気の強い役柄の、そんな気弱な所を見せるシーンは見せ場の一つだ。
普段は吊り上がった目元が優しく下がって、気の張る必要がないからか、口元がほころぶ。
「おかあさ……」
そんな母親の姿を見て、思わず華梨から声が漏れる。抱きかかえている父親にも聞こえないほどの小さい声だったので咎められることは無かったが、約束を破ってでも声をあげたかった。
チェックを終えて、オッケーが出たので一花は娘の下へ歩いて行く。
「お母さん!」
華梨はやって来た一花に駈け出して、そして飛びついた。
「うわ、どうしたの華梨ちゃん?」
そんな娘を一花は優しく受け止める。その顔を見ると大きな瞳に涙を浮かべて、月明かりが光って波打つ。泣き出しそうなその顔に、そうっと頭を撫でて答えて上げた。
「私男の子じゃないよ」
「え?」
娘のその突拍子もない言葉に一花は一瞬固まる。しかしその意味に気付けば、微笑ましいおかしさが胸の内から湧き上がって笑い声となって零れる。
「……ぷっ、あはは」
華梨はさっきのセリフを一花が本心から言っていると思ったのだ。お芝居と現実をごっちゃにしてしまう幼さを、一花はなんて愛おしいんだと思った。
「ねえ、お母さんどうだった?」
「え……えっと、違う人みたいだった。」
「うんうん」
「いきなり息子がとか言っちゃうし」
「それで?」
「でも、カッコよかった」
一番聞きたかった言葉を娘から聞けた一花は、力いっぱい抱きしめた。
「苦しいー」
「ねえ華梨ちゃん。お母さんさ、家ではダメダメだけど、でもそればっかりじゃないよね……たぶん」
「うん」
華梨は普段の一花を思い浮かべる。
家にいる時は眠い目を擦りながら朝ご飯を用意してくれる優しい所。自分が悪い事をしたときに叱りつける厳しい所。自分とお父さんを引っ張っていってくれる頼もしい所。
「違う人かと思った。息子とか言うから、って言ったよね」
「うん」
「でもね、同じ人なんだよ。一緒に過ごした事がない息子に、あんな風に言えるのは、華梨ちゃんが大好きな気持ちを使ってるからなんだよ。自分の中にある気持ちを使ってるんだ」
そんな母親の言葉を聞くと、華梨の中で歯車がかみ合う感覚がした。別々の人のように感じていた女優の『中野一花』と母親の『上杉一花』がきちんと像を結んだのだ。
あの可愛らしい女の子の役も、お父さんと恋をした経験があったからできたんだ。
あの怖い先生の役も、自分を叱ってくれたりたまに勉強を教えてくれたりする所からできてるんだ。
そう思うと、演じるという事は素晴らしい事に思えた。自分の嬉しい気持ちで、多くの人を嬉しくさせたりできるのは、きっととっても凄い事なんだ。
「お母さん」
「なあに?」
「私もお母さんみたいな女優になれる?」
そこにはお遊戯会の主役が嫌だとぐずっていた華梨はいなかった。演じるという事への興味と、自分の中にあるもので他の人を喜ばせる事ができるのかな、という走り出して確かめたいような好奇心に満ちていた。
「なれるよ。だって私の自慢の娘だもん!」
――
ガラスの靴が差し出される。
意地悪な母親がそれに足を入れる。だが入らない。
意地悪な姉がそれに足を入れる。しかし入らない。
意地悪な姉が馬鹿にしながらシンデレラがそれに足を入れる様を見ている。
それは正に魔法のように彼女の足にぴたりとはまった。
シンデレラはにこりと笑って王子様との結婚を喜ぶ。
誰も彼も、彼女の笑顔に見とれていた。
――
「ねえお母さん、本読んで」
「んー? はいはーい」
あのお遊戯会から、華梨はよく本を読んでもらいたがるようになった。
その理由は、
「お母さんダメ、人魚姫のとこは私が読むの」
この前みたドラマで、役者は本読みをするというのを見たからだった。
そんな娘に苦笑いする一花を見て、風太郎は心底おかしそうに笑う。
「一花、とんだライバルを生み出してしまったかもしれないな」
「そうなっても風太郎君は私を応援してくれるよね」
「お父さんは私を応援するの!」
そんな二人の可愛らしい火花に、風太郎は今度は声をあげて笑った。