焼きたてのお菓子なんて大嫌いだ。
焼けた小麦粉の香ばしい匂いに、砂糖の甘いベールが躍り出して、部屋いっぱいに幸せのワルツが躍り出す。
温かいお菓子を口にすれば、オーブンの熱が残った表面はカリッと楽しい歯ざわりを残して、その中から内にこもっていない水蒸気が湯気となって立ち昇り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわふわした中はとろけるように舌に纏わりついて、体中に広がる幸福感は他に例えようがない。
そして何より、焼きたてという事はそれを作った人がすぐそばにいるという事だ。
それこそお菓子のように甘い微笑みを浮かべた母親が、優しく語り掛けてくる。
「美味しい?」
料理上手な友達のお母さんは、よくそう言って手作りのお菓子を出してくれた。
皆は夢中になって頬張って言うのだ。
「美味しい!」
だけど、その中で一人複雑な内心を抱えながら、彼女はいつもこう思っていた。
――ママのお菓子の方が美味しいもん。
だからこんなに甘くて美味しい香りを立ち昇らせる物なんて嫌いだ。
お母さんのお店で出る物より美味しいと言ってしまいそうだったから。
上杉
この町一番の人気者と言えば、それは上杉二乃の事だ。
可憐な容姿に遜色ない華麗な洋菓子を振る舞う姿は、ローカル局ではあるが何度もテレビが取材に来るほどだ。
一人の可憐な女性として、たくましく働くお母さんとして、皆の憧れの的だった。
「笑凛ちゃんのお母さんってすごいね」
と、友達はいつも羨ましそうに褒めてくれる。そんな母親は笑凛の誇りだった。
幼稚園から家に帰る道の途中に上杉二乃のお店はあって、その前を通る時にはいつもがんばれーとテレパシーを送っていた。
店の名前は『
「私に春風を運んでくれた運命の男の子なの!」
と言ってはばからない彼女は、まさに恋に一直線の乙女といった具合で。ゼピュロスって何人もの奥さんがいたらしいけど良いの? という姉妹が言った事は都合よく無視して、煉瓦造りの外観にきらきらとその名は輝いている。
今日も笑凛は、父親の友人の娘で幼稚園が同じな武田紗矢子の家に遊びに行く道すがらに、大好きなお母さんへ気持ちを送っていた。
「いらっしゃい」
笑凛が友達の家のインターホンを押すと、待ちきれなかったかのように飛び出してきて歓迎された。誕生日に買ってもらった人形を見せてもらう約束だったので、さっそく部屋に入れてもらう。
お洒落なミニチュアの家でお人形遊びをしていると、リビングの方から友達のお母さんの呼び声が聞こえた。
「さーや、笑凛ちゃん、ケーキ焼いたから一緒に食べましょう」
「はーい。行こう笑凛ちゃん」
「うん」
子供部屋の扉を開けると甘いチョコレートの香りが漂ってくる。その匂いに引き寄せられるようにリビングまで行くと、小さなカップケーキがいくつか置いてあって、すぐ傍で友達のお母さんが紅茶を淹れてくれていた。
机について「いただきます」と一言。紅茶にミルクを一匙入れてかき混ぜて、そのスプーンでまだ熱いアルミカップに入ったチョコレートケーキを一突きした。
サクッと軽い音を立てて表面が崩れる。温かい空気に乗ってチョコレートの香りが笑凛と紗矢子の鼻をくすぐると、期待に胸を膨らませてそれを一口食べた。
オーブンの熱源に晒されて少し焦げた表面は、歯を立てると容易くほどける。中のスポンジがふわふわと口を楽しませると、じんわりと溶けて飲み込めるほどに蕩けた。
「おいしい」
「よかった。二乃さん……笑凛ちゃんのお母さんのレシピを参考に作ったの」
「ママの?」
そう言われて笑凛はケーキをしげしげと眺める。お店で出されているお菓子の中に、こんな感じのケーキが売ってある事を思い出した。
「どう? お母さんと私、どっちのケーキが美味しい?」
ニコニコと、おどけた笑みを浮かべた紗矢子の母親は尋ねて来る。それはただの世間話の一つで、大した意味合いなんてものは無いのだが、笑凛にとってはそうではなかった。
お母さんのお店で買ったお菓子はもちろんどれも美味しい。けどそれは冷めても美味しさを保つしっとりとした物で、こんな風なふわふわとした軽やかな美味しさとは違った。どっちも美味しいよと言えるほど大人ではない笑凛は、このケーキが美味しかった事になぜだか悔しくて、こう気持ちのこもってない答えを出した。
「ママのケーキの方がおいしい」
言われた紗矢子の母親は楽しそうに笑った。
「ちぇー、まだまだ二乃さんにはかなわないか」
「お母さん、しょーじんして」
「はいはい、励みますよ」
偉そうな事を言う紗矢子のチョコレートでベタベタな口元を拭ってやりながら、紗矢子の母親はこの幸せな一時を味わっていた。
「エミー、お待たせ」
上杉二乃は従業員に後を任せて笑凛と帰路につく。しっかりしてきたとはいえまだまだ小さい子供だから、出来るだけ一緒にいる時間を作ろうとしている二乃だった。そのために人件費がかかるとは言え、お金の事に料理の事も任せられるスタッフを雇っている。
二乃は笑凛の手を引きながら、近くのスーパーに足を向けた。
「何か食べたい物ある?」
洋菓子だけでなく、家庭料理の腕も逸品の二乃に、あれが食べたいと言って出来ないと言われた事のない笑凛だったが、今回は頼み事の趣が違った。
「焼きたてのケーキが食べたい」
意外な娘のお願いに、ぷっと二乃は吹き出した。
「だーめ。さーやちゃんのお母さんに作ってもらったでしょ?」
「なんで知ってるの?」
「さっき写真が送られてきたんだもの。今日は我慢しなさい」
「えー」
「えーじゃない。虫歯になっちゃうわよ~。そしたら歯医者さんに行かなくちゃいけないんだから」
「歯医者さんやだ!」
「でしょ? だから今日はだめ。あ、今日はお魚が安いからこれにしましょうか」
メインが決まった事により二乃の脳内でレシピが組み上がっていく。ぽんぽんと脈絡なく見える買い物に、笑凛はいつも目を真ん丸にさせていた。
『今日は家庭でもできるプロの味、という事で先生を呼んでいます。上杉二乃さん、よろしくお願いします』
『はい、よろしくお願いします』
ある日友達の家で遊んでいると、つけっぱなしにしていたテレビから笑凛の聞き慣れた声が響いてきた。
「あ、笑凛ちゃんのお母さん」
友達が言った通り、そこに映っているのは見慣れた大好きな母親だった。
『今日は二十分で出来る、おやつにぴったりなドーナツのレシピを紹介します』
『はい、お願いします』
テレビに出ているアイドルにも負けないくらいに綺麗な顔をカメラに向けてにっこり笑うと、材料を紹介した。
「ねえ、一緒に作ってみようか」
友達の母親はそれを見ながら提案してきた。素早く録画のボタンを押して見返す準備は万端で、紹介された材料は全て家にあって、あと必要なのはやる気だけである。
「作る!」
「私も」
一緒に遊んでいた友達は楽しそうにそう言った。笑凛はテレビで調理する母親を不思議な気持ちで見つめながら、
「私もやりたい」
ゆっくりと頷いた。
ホットケーキミックス粉を取り出してきて、皆は二乃が言う通りに作っていく。
『はいこちらに調理済みの物が……』
「もー調理済みなんて裏技使わないでー」
友達の母親はちょっと茶目っ気を見せながら、子供達の料理を手伝っていた。
先にテレビのお料理コーナーが終わってしまったが、きちんと録画しておいたので何度も見直せるのでそこは問題なかった。
最後の油で揚げる所は母親がして、子供達はそれをカウンターの向こう側から見ている。
「もういいんじゃない?」
「まだだよ」
「ねえねえ、まだ?」
「笑凛ちゃん、お母さんがきつね色になるまで揚げてくださいって言ってたでしょ。もうちょっと待たないとね」
そんな話をしているうちに、ドーナツの表面がこんがりときつね色になって出来上がった事をその身で表現していた。一つ手に取って割ってみる。生地にちゃんと熱が通ってさっくりと出来上がっていた。
「さ、出来たよ」
揚げたドーナツをキッチンペーパーの上に置いて油を取り、粗熱が取れるまで置いておく。しかし、食べたい食べたいと大きな目を光らせる子供達に負けて、まだ熱々のドーナツにグラニュー糖を振りかけて振る舞った。
子供達は喜々としてかぶりつき、熱さにびっくりしながらも一つを平らげた。
「えへへ、おいしいね」
「うん」
作った達成感も相まって、熱々のドーナツはそれ自体が持っている味よりも美味しく感じて、思わず笑みがこぼれた。
『今日の料理コーナは上杉二乃さんでした。ありがとうございました』
『ありがとうございました』
二乃は朗らかに笑って、そこで録画が切れて止まった。
笑凛はそんな母親の笑顔に見惚れて、皆の笑っている顔を見た。ドーナツを口いっぱいに頬張り、喜びの表現に惜しみのない友達を見ると、やっぱりママは凄いんだと誇らしい気持ちになる。
けど……
テレビには止まったままの二乃の笑顔が映し出されている。
テレビ越しじゃなくて、目の前で作ってもらうのは贅沢なのかな、と笑凛は少し悲しい気持ちでドーナツを齧った。
おいしい。けど、素直にそう言いたくなかった。
「エミー、ごめんね今日はお店から離れられないの。でもちょっと待っててね。迎えが来てくれるから」
従業員に娘が来たと告げられた二乃は、奥の厨房から出てきてお菓子の甘い匂いを纏いながら、その匂いの様に優しく笑凛に笑いかけた。
「ママ、私出来立てのケーキが食べたい」
「なあに? またその話?」
くしゃくしゃと二乃は子供の細い髪を撫でて話しかけた。
「ねえエミー、実は出来立てのケーキってあんまり美味しくないのよ。一日くらい置いておいて甘さがケーキになじんだころの方が美味しいの」
その言葉は正しい。
正しいが、それが相手にきちんと伝わるかどうかは別の話だ。
大好きな母親の話でも、それはどこか言い訳のように笑凛には聞こえた。
「でもママ、テレビで出来立てを食べさせてたじゃん」
「あの収録今日だっけ。見てたの? でもあれはケーキと違うから……」
「もういいもん!」
突如として笑凛は大きな声をあげた。元気な子とは言え、そう叫んだりすることのない娘の姿に目を丸くする。
「友達のママは作ってくれるのに、どうしてママは作ってくれないの!? もうママなんて知らない!」
複雑な胸中を爆発させた笑凛は、その勢いのまま店を飛び出した。
「エミー!」
止めようと伸ばした二乃の手は、何もつかめず空ぶった。
茜色に染まる空を、ブランコに揺られながら見上げている。
流れる白い雲がうっすら赤くなって、そんな雲をラズベリーが乗った後のクリームみたいだと笑凛は思った。
飛び出したはいいけど、このあとどうしようかな。と、考えなしにお店を出た事を今更ながらに後悔していた。
謝りに行こうか。でも作ってくれないママが悪いんだ。あんなにたくさんのケーキやお菓子を作っているのに、どうして私に作ってくれないの。
「笑凛」
鬱々とそんな事を考えていると自分を呼ぶ男の人の声がした。その方を向くと、この世にいる誰よりも大好きな二人のうちの一人が立っている。
「パパ!」
ブランコから下りて駈け出した笑凛に、パパと呼ばれた男、上杉風太郎は飛びついてきた娘を受け止めた。
「ただいま。良い子にしてたか?」
「うぅ……」
何気ない日常の会話に笑凛は詰まった。母親にあんな文句を言って、良い子にしていたとはとてもじゃないが言えなかった。
「ママと喧嘩したんだって?」
「でも……でもママが……」
大好きな母親にあんなことを言ってしまった自己嫌悪と、けれど相手が悪いんだという怒りがない交ぜになって複雑に心境を彩る。
二乃から事の顛末を聞いた風太郎はどうした物かと頭を捻った。
「笑凛、買い物に行こうか」
「え? でもママが買い溜めしていたおいたって言ってたよ」
「いいから」
風太郎は抱っこしていた娘を下ろして、手を引いて近所のスーパーへと向かった。
風太郎が出張でいない間話せなかった分を埋め合わせるように、笑凛は目一杯喋った。見たテレビの事、幼稚園で会った事。しかしその話題の中に、普段なら絶対に出てくる母親の話題は不自然に無かった。
「笑凛、乗るか?」
スーパーについた風太郎はカートについている子供席を指さしながら言った。
「もう子供じゃないもん」
「はは、そうか。もう立派なレディーだもんな」
ポンと娘の頭を撫でて風太郎は店内に入って行った。
「ねえパパ、何を買うの?」
「ん? 笑凛だったら分かるから当ててごらん」
そういう父親の優しい笑顔に、笑凛は手を繋いで隣を歩く。
風太郎はスマホを片手にカートに次々商品を入れていく。
小麦粉、卵、砂糖、生クリーム。
「ケーキ!」
それは母親である二乃が良く慣れ親しんだ物だ。何回もこの材料が、皆を笑顔にさせるケーキやクッキーなどのお菓子に変わっていく所を、直接だったりテレビを通して見て来たのだから間違える訳がなかった。
「正解。ご褒美に好きな物を乗せる権利をやろう。何がいい?」
「イチゴがいい」
「よし。好きなのを買ってきていいぞ」
「やったー」
笑凛は普段買ってもらえないイチゴを買ってもらえる事が、忙しくてこういう風に構ってくれない父親が今いるという状況と合わせて、踊りだすくらいに嬉しかった。
二乃の店で一番人気はチョコレートケーキだったが、笑凛はイチゴのショートケーキが好きだった。真っ白い大理石のステージのようなクリームに、真っ赤なドレスを着たお姫様がちょこんと座っているように思って、幼心に憧れる舞踏会に見立てて楽しくなるのだ。
笑凛はなるべく真っ赤なイチゴを選んで父親が持っている籠に入れる。これが自分の意思でどうこうできると思うと、わくわくするような気持ちになった。
「さあやるぞ。笑凛、手は?」
「洗った」
「エプロンは?」
「着けた」
「心の準備は?」
「できた!」
「よし始めるか」
帰宅してから二人は、普段から二乃に口を酸っぱくして言われているからではないが、念入りに手を洗ってエプロンを着けて準備万端だ。
ボウルに卵を割って砂糖を加えてすぐに混ぜる。笑凛は泡だて器を使って混ぜるが、重くて取り落としそうになっているので風太郎は支えた。
「ほらしっかり持って」
「重いよー」
見ている時は思わなかったが、間近に泡だて器を使うとうるさい物だった。ボウルに当たるとガリガリと嫌な音がして振動で腕が疲れる。まだ小さい笑凛にとっては泡立て一つをとっても重労働だった。
その後も細々と気にすることが多くて笑凛は頭がこんがらがりそうになる。温度の管理に生地の固さに気を配ったり。スポンジの時は温めて混ぜたのに、クリームの時は冷やすのは理解し難かった。
ケーキを作るのってこんなに大変なんだ。
笑凛は母親にあんな事を言ってしまった自分を恥じた。そして、謝りたいと思った。
「笑凛、自分で作ってみてどうだった?」
「こんなに大変だったんだね」
「そうだな。こんな大変な事をママは毎日しているんだ」
「うん。ごめん」
「謝るのは俺じゃないだろ?」
「うん。ママにちゃんと言う」
風太郎は頷いて、しゅんとした娘の肩を叩いた。
しばらくするとオーブンから甘い香りが部屋いっぱいに広がってきて、笑凛は達成感に満たされていた。
笑凛は思う。このスポンジにクリームを塗って食べたら、頬っぺたが落っこちるくらい美味しいに違いない。
早く焼けないかな。
「笑凛、ママがもうすぐ帰ってくるぞ。イチゴの用意してくれ」
「はーい」
冷蔵庫に収めていたイチゴを出して、父親の監視下のもと半分にカットしてトッピングの用意をした。
チーン
オーブンから音がした。
鍋掴みを着けた風太郎はスポンジを熱いオーブンから取り出す。型から外して手順が書いてあるページを開いたスマホを見た。
「えーとこのまましばらく置いて冷ます、と」
「焼きたてが食べたい!」
「分かった。少しな」
四分の一ほどカットして、残りはレシピ通りに冷ます手順をとった。
まだ温かいスポンジを半分の厚みにスライスして、その断面にシロップを塗る。クリームをのせて塗り広げ、そこにイチゴを並べたらさらにその上にクリームをのせておおったら、半分に切ったスポンジをかぶせた。表面にもクリームを塗って真っ白に染め上げて、そこに真っ赤なイチゴをのせて完成した。
「できた!」
「頑張ったな」
風太郎は完成品を前にご満悦な笑凛を撫でて労った。
「ママと一緒に食べて仲直りするの」
満開の花のようにふわりと笑顔が花開くと、それを見ていた風太郎は眩しい物でも見るように目を細めた。優しい子だなと思うのは親バカだろうか、と彼は考えていた。
「ただいま」
「ママ帰って来たぞ」
玄関から聞こえた声に、弾かれたように椅子から立ち上がって母親の下に駈け出した。
「ママ!」
笑凛は帰って来た母親に抱き着く。
「エミー、ごめ……」
「ごめんなさいママ!」
その謝罪の言葉と共に、二乃に抱き着いた腕に一層の力を込めた。
「ごめんなさい。ケーキ作ったの。重くて、大変で、知らなかった。だからごめん、ママ」
「ううん。私こそごめんね。出来立てが美味しいケーキなんていくらでもあるのに」
「一緒に食べよ? 仲直りしたい」
「ふふっ、ご飯の前よ……って言いたいけど、今日は見逃してあげる。パパは?」
「あ、置いてきちゃった」
「あーあ、可哀そうなパパ」
二乃は靴を脱いでスリッパをはき、リビングへ向かった。玄関にいても漂ってきていたが、部屋にはいるとケーキを焼いた甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「上手に出来たのね」
「えへへ」
キッチンで紅茶用のお湯を沸かしていた風太郎は、二人の足音と共に扉が開いた音を聞きつけ顔を出した。
「お、ママお帰り」
「ただいま。パパが見てくれたのよね。ありがと」
二人は顔を見合わせて二人にだけ分かるアイコンタクトを交わす。
「?」
それが何をしているのか分からない笑凛は頭にはてなを浮かべて首をかしげた。
「ねえ食べよう」
「そうね」
お茶を淹れるのは風太郎に任せて、二人はテーブルについて切り分けたケーキを目の前に置いた。
「「いただきます」」
フォークを一刺しして口に運んだ。笑凛は万感の思いで自分の作ったケーキを口に入れた。
「……あれ?」
どうしてだろう。あまりおいしくなかった。
いつも食べるショートケーキは、クリームのなめらかさが舌に広がり、噛むとスポンジとの甘さが絡まり合い、そこにイチゴの酸味がして、言葉にならないような幸せに包まれるのに、このケーキからはそういう感情が湧き上がってこなかった。
あんなに食べたかった出来立てのケーキなのに……。
「エミー、トーストにのせたバターは溶けるでしょう?」
「う、うん」
二乃はちょっと悲しそうな笑顔をしながらそんな事を言う。笑凛はいきなり朝食の話をされて戸惑ったが、いつもの朝を思い出して頷いた。
「クリームも同じなの。脂だから溶けちゃうのよ」
そう言われて笑凛はどうして出来立てのケーキを作ってくれないのか理解した。お店で言っていたように理由があったのだ。
「ご……ごめんなさい、ママ、し……知らなくて……」
せっかく作ったケーキが美味しくないのは嘘だと思いたくて、笑凛はもう一口ケーキを口に運んだ。
スポンジに乗ったクリームが溶けてベシャベシャになって、母親の作る秩序だったような味の調和なんてものは全くない。きちんと焼いたスポンジはその溶けたクリームで台無しで、際立つイチゴの酸っぱさは空しく口に広がって、とても美味しいとは言えなかった。
「うぅ……ぐすっ……ごめんなさい、ママ……あんな事言って」
二乃は一口、娘の作ったケーキを口に運んだ。
二乃のその大きな瞳が涙で潤んで、一筋涙が流れた。それを見た笑凛はとても、とても悲しくなる。
「ごめんなさいママ、美味しくなくて」
「ううん。違うの。違うのよ、笑凛」
二乃は、いつものように愛称であるエミーではなく、きちんと愛娘の名前を呼んだ。
「嬉しくて。笑凛の作ってくれたケーキが世界一幸せにしてくれる、だから泣いてるのよ」
「え?」
笑凛は理解できなくて、涙の溜まった目を大きく見開いて母親を見つめた。
「でも、でもこんなにクリームが変で、ママの作るケーキみたいじゃないよ」
「いいの。笑凛が私に一緒に食べようって言ってくれただけで、このケーキは世界一美味しいの」
「どうして?」
ぱたぱたと母娘の相貌から涙がこぼれる。
「ママはね、笑凛がしたことが何でも嬉しいの。生まれて来てくれた事、ハイハイするようになって、立って歩くようになって、話すようになって、会話ができるようになって、喧嘩して、そしてこうして仲直りのケーキを作ってくれた事。そのどれもが私にとって世界一幸せな事だから、だからこのケーキは忘れられない世界一のケーキなの」
二乃は席から立ち上がって笑凛のすぐ傍に歩いて行った。
「ごめんね、笑凛。焼きたてのお菓子くらい、いくらでも作ってあげるから」
ぎゅっと二乃の心に溢れる、娘への愛しさのままに抱きしめた。
「ううん。私の方こそごめんなさい。わがまま言って、困らせて。知らなかった、こんなにお菓子を作るのって大変だったんだね」
自分一人では満足に持てなかった泡だて器の重さを思い出して、あれを何人もの人の為に振るう母親の事を思うと信じられないような気持ちになった。そして、同時に誇らしかった。
作ったお菓子で何人もの人を笑顔にして、そんな事は自分のママにしかできないんだ。
「いつもありがとう、ママ」
「私の方こそ、ありがとう笑凛」
微笑ましく笑い合う母娘に、蚊帳の外の父親、風太郎は一つ咳払いをした。
「お茶淹れたぞ。笑凛、ママのお店でケーキ買ってたんだ。一緒に食べて今後の参考にしような」
「もう! パパ台無し!」
「はぁ?」
最近は埋もれていた二乃の、その舌鋒鋭さが久々に顔を覗かせて風太郎は戸惑いの声をあげてしまう。
「今は私のケーキなんてどうでもいいの! 何で分からないの?」
「す、すまん」
付き合っていたころは、どちらかと言うと風太郎の方が力関係は上だったのに、結婚してからすっかり尻に敷かれてしまった男の情けなさそのままに、とりあえず謝罪の言を述べた。
そんな小さくなってしまった風太郎をとりあえず無視して、二乃は娘に言った。
「明日一緒に残ったケーキを完成させましょう。絶対に世界一美味しいわ」
「うん。ちゃんと美味しいケーキを作るよ」
焼きたてのお菓子が大好きだ。
焼けた小麦粉の香ばしい匂いに、砂糖の甘いベールが躍り出して、部屋いっぱいに幸せのワルツが躍り出す。
温かいお菓子を口にすれば、オーブンの熱が残った表面はカリッと楽しい歯ざわりを残して、その中から内にこもっていない水蒸気が湯気となって立ち昇り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわふわした中はとろけるように舌に纏わりついて、体中に広がる幸福感は他に例えようがない。
そして何より、焼きたてという事はそれを作った人がすぐそばにいるという事だ。
それこそお菓子のように甘い微笑みを浮かべた母親が、優しく語り掛けてくる。
「上手に出来たじゃない」
「えへへ」
一緒に作った喜びに、母親と娘は笑いあう。
あれからお菓子作りに興味を持った笑凛は、二乃がお店を早くあがれる時に、たまのお休みに二人で、時には三人で料理をしていた。
「ねえ今日のはどれくらいおいしい?」
二乃は焼きたてのクッキーを齧りながら、口の中で転がして吟味する。
「うーん、そうね、世界で二番目かしら?」
「えーまた二番目!?」
「毎回毎回一番を更新しようなんて甘いわよエミー」
「むー」
――いつかママより美味しいお菓子を作ってみせるもん。
上杉笑凛の抱える幸せな悩みとは、そういう物だった。