序章 前編
薄く油をひいたフライパンを中火で熱し、温まったら弱火に落とす。そこに卵を割り入れて、蓋をせずにじっくり五分くらい火を通す。聞いたところによると蓋をしないのが鮮やかな黄身の色を残すコツらしい。
子供の好物と言ったら定番はカレー、スパゲッティ、ハンバーグと言ったところだろうか。私もご多分に漏れず子供のころからそれらが好きだった。中でも特に目玉焼きを乗せたハンバーグには特別な思い入れがある。と言っても別にドラマチックなエピソードがあるわけではない。ただ、子供の頃に勉強やら習い事やらで大きな成果を上げたときに、母さんがご褒美として作ってくれる料理がそれだったのである。思い出の味と言うやつだ。
砂時計をひっくり返して焼き時間を測る。初めに料理を習った時の癖でもあるけど、私は砂時計のこのアナログな感じが好きだった。落ちた砂がガラスの中で山になっていくのを見ると、こうして一秒一秒が積み重なって未来に進んでいくんだってことが実感できるのだ。その点、キッチンタイマーやなんかで測るのは正確だけど味気ない。
しばらく考え事をしているうちに砂が全部落ちていた。卵を見ると焼き加減はバッチリで、綺麗な橙色の黄身が光り輝いている。カリカリに焼けた目玉焼きの香ばしい香りも漂ってきた。
「――お姉ちゃん、お母さんたちそろそろ着くって。ご飯できた?」
出来上がった目玉焼きをハンバーグに載せ、お皿に付け合わせの温野菜で彩りを加えていると、琴歌がそんなことを言いながらリビングに入ってきた。
琴歌は私と一緒にこのアパートで二人暮らしをしている可愛い妹だ。どのくらい可愛いかと言うと、『姉妹並ぶと似ていますね』、なんてお世辞を言われるたびに心の中で『心にもないことを言うなこんちくしょう』と毒づいてしまうくらい。彼女はまるで流れ星が人の形を取ったかのような幻想的な容姿をしていて、姉妹の欲目を抜きにしても相当な美人である。もちろん私とは似ても似つかない。さしもの私もスッポンを自称するほど女を捨てちゃいないが、流石に星とは並べなかった。
「ん、ちょうど全部できたところ」
「…おお、相変わらずすごくおいしそう。やっぱりコックさんになれるよね、お姉ちゃん」
「そういうんじゃないって前に言ったでしょ。ほら、運んで」
「はあい」
琴歌に頼んで盛り付けた料理をリビングに運んでいく。既にテーブルに並べたサラダとカルパッチョと、今出来上がったハンバーグに鍋で煮込んでいるスープ。うん、上出来だ。お盆に乗せた四人分のハンバーグを琴歌に手渡して、私はスープの盛り付けに移った。
琴歌は久々に母さんたちに会うのが嬉しいのか、上機嫌で鼻歌を歌っている。よく見ると結構めかしこんでいて、家族にと言うよりはまるで彼氏にでも会うつもりなのかという様子だ。
「やけに嬉しそうだね、琴歌」
「うん、嬉しいよ、とっても。お姉ちゃんは違うの?」
「そりゃあ私も嬉しいけど。でもその恰好、恋人にでも会うみたい」
「えぇ?恋人なんていないってば」
「知ってるよ。琴歌は歌が恋人だもんね?まったく勿体ない…」
数年前、こっちの生活に慣れてきたことに油断してちょっと目を離した隙に琴歌は歌手になっていた。公園で歌っていたらスカウトされたらしい。そして、デビューするなりその類まれな歌唱力と容姿であっという間に人気歌手となってしまった。確かに元々歌が大好きだったとはいえ、いきなりのことで父ともども大いに驚いたものである。ちなみに母さんは知っていた。
そんな琴歌は大勢の観客に囲まれてステージで歌うことが楽しくて楽しくて仕方がないらしい。黙っていれば浮世離れしたミステリアスな美女で通るというのに、浮いた話はまるでない。変な男に引っかかるよりはマシとはいえ、折角の青春を仕事に費やしてしまって、お姉ちゃんは心配です。
「何言ってるの。お姉ちゃんだって似たようなものでしょう?」
「私はいいんだよ。そういうの、興味ないし」
「もう、そんなこと言って。今もそんな野暮天な格好しちゃって…」
ちなみに今の私の出で立ちはTシャツとジーンズである。いや、言われるほどひどくないと思うんだけど。
「いいじゃん、動きやすいんだから」
「…はあ、お姉ちゃんはちゃんと結婚できるのかなあ」
「ええ…それは私が琴歌に言いたいんだけど…」
「いいえ。お姉ちゃんのほうが心配です」
「いや、琴歌の方が…」
そんなことを言い合っているうちに可笑しくなって、二人一緒に笑いあう。本当そんなことないはずなのに、今となっては生まれたときから一緒だったみたいに感じる。不思議なものだ。
「あ、お姉ちゃん、それも運ぶよ」
「良いの?じゃあお願い」
差し出されたお盆にスープカップを乗せていく。それを見ている琴歌はさっきまでよりも楽しそうにニコニコと笑みを深める。なんかいいことでもあったのだろうか。
「…どうしたの、楽しそうじゃん」
「楽しいよ。だって、こういうの久しぶりだもん」
「あぁ、なるほど」
琴歌の言いたいことは何となく分かった。実家にいた頃、私と母さんが作ったご飯を運ぶのは専ら琴歌の役目だった。父さんは帰りがいつも遅かったし。でも、最近は二人暮らしになったせいでわざわざ琴歌に出来た料理を運んでもらう必要がなくなっていた。そもそも、今の琴歌は仕事が大忙しで家になかなか帰ってこないのだ。
だから、こうやって私が料理を作って琴歌が運んで、なんていうのは、それこそ実家を出たとき以来の光景だった。
「にへへ、久々に家族一緒って感じ」
「感じというか、そのまんまでしょ」
「そーだね、そーだね。楽し!」
気分が乗ったらしい琴歌はリビングでくるくると周りながら本格的に歌いだす。聞き覚えのないメロディーに『家族でお食事楽しいな』みたいな歌詞。多分、今この場で作った歌だろう。即興の作詞作曲は彼女の得意技だ。
私の大学進学に伴い、私と琴歌はアパートを借りて二人暮らしを始めた。私は私の夢をかなえるために実家から離れた大学に通う必要があったし、琴歌も仕事の都合上いつまでも実家から通うのは大変だったし。実家を離れての二人暮らしは困難も多く…なんて最初は思っていたがあっという間に慣れてしまった。もっとも、琴歌はもともと働いていたし、私も一人で暮らした経験はあるので当然と言えば当然か。
そして、今日は私たちが二人暮らしをして初めて父さんと母さんがこのアパートを訪問する日だった。
「…最近はお姉ちゃん楽器弾かなくなっちゃったからなあ。前は私の歌に合わせて伴奏してくれたのに。つまんないの」
料理もテーブルに並び手持無沙汰になったらしい琴歌は、そうぼやきながらリビングのソファに寝転がり私の方に視線を向けてくる。
「いや、琴歌が見てないだけでちょくちょく弾いてるよ」
「ええ?そうかなあ。…前はそれこそ一日中だって弾いてたのに」
「もうプロを目指すのは辞めたから。そんなに弾く気が無くなったの」
「それは知ってるけど、それはそれとしてまた私の歌と一緒にヴァイオリン弾いてくれたらなって」
「まあ、琴歌も最近は忙しくて離れ離れの時間が多かったもんね。久々に後でやろっか」
「やった!」
そう言って跳ね起きた琴歌は、ソファに座ったままさっきの即興歌を歌って左右にゆらゆら揺れ出した。こうも目に見えてはしゃぐ琴歌を見るのも久々だ。琴歌は家族というものが大好きで、だから久々の家族団欒の機会に舞い上がっているらしい。最近はようやく落ち着いてきたのに珍しくはしゃいでいるのはそのせいだろう。
「…お姉ちゃんが何考えてるのかはその生ぬるい視線で大体わかるけど、お姉ちゃんも大概だからね?最近明らかに浮かれてる風だったし」
「え、ホント?そんなに?」
「そうよそんなによ。今日だって服装は野暮天だけどお化粧はいつもよりずっと気合入れてるし」
「うぐ…これは、その、身だしなみだよ。いつもやってることだから」
「見栄っ張り。大学行くときはもっと適当じゃない。私知ってるのよ」
「……だって母さんに会うし」
「はいはい。お姉ちゃんもお母さん大好きだもんね。素直でよろしい。まあでもそこはお父さんも入れてあげてね。泣いちゃうから」
「気持ちには入ってた」
「減らず口」
そう言って琴歌が笑う。内心の浮かれぶりが筒抜けだったと分かって顔が熱いけど、楽しみにしていたのは確かだ。母さんとは色々あったから複雑な気持ちではあるんだけど、でもやっぱり私たち姉妹は母さんのことが大好きなのだ。父さん?ほら、まあ、うん。
琴歌はこれでけっこう寂しがり屋だ。それは琴歌の過去がそうさせているのかもしれない。ずっと一人ぼっちで歌う事しかできなかった琴歌は、家族と離れ離れになることを嫌がる。友人からのお誘いであってもお泊りは全て断っていたし、歌のお仕事で帰りが遅くなることはあっても家に戻らない日は無かった。
それにもかかわらず、二人暮らしを始める時、琴歌は特に反対もせずにすぐ着いてきてくれた。確かに琴歌自身も実家から通い続けるのに限界は感じていたとは思う。けど、それでも、ただでさえ仕事が忙しくなって家にいられる時間が少なくなっていた琴歌は、口には出さずとも引っ越してから寂しい思いはしていたんだろうとは思う。私も、その、ちょっとね。だから分かる。
「…ねえ、琴歌」
「ん?なあに、お姉ちゃん?」
「その、私、あなたとこうして一緒に居られて嬉しいよ」
「もう、どうしたのいきなり。いつもはそんなこと言わないのに」
「……なんとなくだよ、なんとなく!」
「ふふ、なにそれ」
可笑しそうに琴歌が笑う。なんだこのやろう。せっかく頑張って口に出したのに。恥ずかしかったのに。いつもは歌うことしか頭にありませんみたいな感じで子供っぽい癖に、ときどきそうやってお姉さんぶった顔するのがズルいんだ。
ニコニコと笑う琴歌を睨みつけていると、にっこりと笑いかけられて思わず逃げるように視線を逸らしてしまう。昔から彼女のこの笑顔には弱かった。横目で琴歌の表情を盗み見ていると、琴歌は少し目を細めてこう言った。
「でも、そうだね。私もお姉ちゃんと一緒にいられて幸せ」
「…毎日おいしいご飯も作ってあげてるし?」
「なるほどそれもあるわね」
もう一度二人笑い合う。この正直者め。まあ、私としても作った料理をおいしく食べてもらうのは嬉しいわけだけど。そのためにわざわざこうして一人じゃなく二人で暮らしているようなものなんだし。
うん、そうだね。やっぱり琴歌と一緒が一番だ。
そうこうしているうちに玄関のチャイムが鳴る。母さんたちだ。琴歌がバッと立ち上がり目を輝かせて玄関に向かってピョンピョンと走る。さっきまでのお姉さんぶった雰囲気が嘘のようなはしゃぎっぷりだ。お子様。
「転ばないでね」
「だいじょおぶ…っとあぁ!」
「…だから言ったのに」
まったく、そそっかしいやつめ。
「たぁすぅけぇてぇ…」
「はいはい。手、貸して?」
廊下で転びそうになって変な体勢でもがく琴歌を助け起こして、二人一緒に玄関へ向かう。また転ばないように手は握ったままで。さっきのドタバタが聞こえていないといいんだけど、でも、察しのいい母さんのことだから気付いてるかも?やだもう恥ずかしい。
「さ、琴歌。ドアを開けたら一緒にお出迎えしよ?」
「はあい。了解です」
琴歌にそう声をかけ、母さんたちが待つ玄関の扉を開ける。爽やかな春の風が吹き込み、私たちの髪をたなびかせた。本日は快晴、雲一つなし。麗らかな陽光の中に母さんと父さんが佇んでいる。
こんにちは。
お元気ですか。
そんな気持ちを込めて、私と琴歌から、あなたへ。
「「ようこそ、いらっしゃい」」
***
例の噂のこと聞いた?
そうそう、『願いの星』の噂。最近街に変な女の人がいて、色んな人の願い事を聞いて回ってるって。それで、願いを叶えたいって人に『願いの星』っていうタイトルの絵本を渡すってやつ。聞いたんだけど、こないだ恵美もその女の人に会ったんだって。全体的に真っ白で目深にフードをかぶってて、「叶えたい願いはありますか」、だって。宗教かよって話じゃん。まあ恵美は特に願い事とかなかったから絵本は貰わなかったらしいけど。
え?私?いやあ、私もいざ叶えたい願いは、って聞かれたら出てこないんじゃないかなあ。部活とかも真面目にやってないし、勉強とかどうでもいいし、そこまで欲しいものもないし。あ、ミグーンのライブのチケットとか?ま、冗談だけど。
何あんた、そんな怪しい人に頼んでまで叶えたいことでもあるの?あ、ひょっとしていつも声かけてるあの子のこと?やめときなって。絶対ロクなことにならないって。噂話に聞くだけでも怪しい女みたいだし。そもそもそういうのって、自分で叶えようとしない奴にバチが当たるのが相場なんだから。
いやまあ、そりゃおとぎ話とかの話だけど。でも、この噂もおとぎ話か都市伝説みたいなもんじゃない。
…ねえ、私は止めたからね。
***
時々、母さんは死んだ方がいいんじゃないかと思う時がある。
***
「あ、あの、提橋さん!この後博物館に行く予定なんだけど、良かったら提橋さんも一緒に…」
「ごめんなさい。早く帰って楽器を練習するように母に言われているので」
「…はい」
いつも通りの放課後、朝霧さんの誘いに定型文のお断りを返す。朝霧さんは、『しょんぼり』という言葉のお手本みたいな顔をしてとぼとぼと廊下へ消えていった。心なしか彼女のチャームポイントでもある長いツインテールが力なく垂れ下がっているみたいに見える。小柄で童顔な朝霧さんを落ち込ませるのはなんだか子供をいじめているような気分になるのだが、かといって彼女の誘いを受けるわけにもいかなかった。
彼女からお誘いを受けるのはこれが初めてではない。むしろ、僕なんかの何を気に入ったのかほとんど毎日のように誘われていると言ってもいい。全体に小ぶりな彼女の雰囲気も相まって、小動物か何かに懐かれたような気分だ。だけど、僕が彼女の誘いに乗ったことは一度もない。いつもの断り文句は口実ではなく、実際にお母さんからそう言われているのだ。
――現実を見なさい、真琴。お友達と遊んで今一時楽しくても、後になってきっと真面目に練習しておけばよかったと後悔するから。
小学生の頃、クラスメイトと遊びに出かけて帰るのが遅くなった時にお母さんが言った言葉だ。その時の僕は今ほど聞き分けが良くなかったので反発して部屋に閉じこもったりした。お気に入りのひよこのマグカップと共にお菓子とジュースを持ち込んで、徹底抗戦の構えで。
だけど、お母さんの言う事は正しかった。
それを早くも痛感したのはその次の週のコンクールだった。いつもだったら何でもないようなメロディーでミスを連発して、僕はレッスンの先生にも確実だと言われていた受賞を逃した。
それは、お母さんと先生の指導のおかげでメキメキと上達して少しばかり天狗になっていた僕にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃だった。その日の夜、打ちひしがれる僕にお母さんは『楽器の練習は一日怠ければ三日分後退するものだ』と言った。クラスメイトと一日遊んで、その後も部屋に籠って楽器に触れなかった僕は、一体どのくらい他の子と差をつけられただろうか。これじゃあ兎を笑えない。プロになんてなれっこない。それをたった一日で思い知った。
それ以来、僕はお母さんの言葉に逆らわなくなった。
お母さんは正しい。お母さんの言う事は聞くべきだ。逆らってはいけない。朝霧さんを悲しませるのは不本意だけど、これは仕方がないことなんだ。
『友達より優先するなんて、そんなに母さんのことが大切なんだね』
後ろから聞こえたその声を無視して席を立つ。僕は出来るだけ早く帰ってヴァイオリンの練習をしなくてはならない。だから、この嫌な女に構っている暇はない。
僕の通っている高校は最寄駅から大体二十分くらいの場所にある。入学したての頃は裏道を使って最短距離で駅に向かうことができたのだが、半年くらい前に近くで変質者が出没するという報告があり裏道を使うのは禁止された。表通りを使うとちょっと遠回りなので乗る電車が一本遅くなり、帰るのが遅くなると練習時間が減ってしまい、練習時間が減るとお母さんの機嫌が悪くなる。そして僕は怒られる。まったく、趣味のために人に迷惑をかけるのはやめて欲しい。
街中を一人進んでいくと、数人の学生がワイワイと楽しそうにしながら道沿いのファミレスに入っていくのが見えた。たぶん同学年の男子生徒が五、六人くらい。学校帰りに寄り道だなんて僕はついぞ経験したことがないことだ。だから彼らの様子はこうやって傍から見ている分には楽しそうに見えるが、それが実際どのくらい楽しいのかは良く分からなかった。
しばらくじっと、ファミレスの中へ消えていく学生たちを僕は立ち止まって眺める。同じ高校に通っているはずなのに、その瞬間僕と彼らは全く違う世界に存在していた。
『ふふ、羨ましいんだ』
ショーウィンドウのガラスに映った『僕』が、教室の時と同じように僕を嘲笑う。嫌な女。
中学に入ったあたりから、僕は鏡の中の『僕』と会話できるようになっていた。もちろん僕以外に『僕』の声は聞こえない。始めは空耳か何かだと思っていたけど、何度も話しかけられるうちに気のせいではなかったことに気付いた。もっとも、会話できるといっても和やかに談笑したりなんて夢のまた夢で、大抵はこうやって僕を苛立たせるようなことばかり言うのだけど。
一度、この女についてお母さんに相談しようと思ったこともある。だけど、『鏡の中の自分が話しかけてくる』なんて母さんに言ったところで、ふざけたことを言って練習を怠けようとしているだなんて思われるのが関の山だ。お父さんはほとんど家にいない。
結局、『僕』のことは無視するのが一番だという結論に至った。この女につける
さておき、『僕』を無視して僕は再び駅に向かって歩き始めた。この道には店が多くて僕が映り込むガラスには事欠かないから、『僕』はますます楽しそうな表情で『あ、無視するんだ』だの『それって図星ってことだよね』だの言い募ってくる。
だけどお生憎様。彼らの様子を見ていたのは純粋に何が楽しいのだろうかと気になった、ただそれだけ。『僕』を無視するのは単にこの女が嫌いなのと人前で幻覚であるこいつに反応すると外聞が悪すぎるからである。前に一度それをやって、『ねえママあの人…』『こらっ!人を指差してはいけません!』なんて漫画の中のやり取りを体験する羽目になったのは忘れない。絶対に。
『…自分に嘘を吐きすぎると心が歪むよ。ま、今もよっぽどだけど』
信号待ちをする僕に、自販機に映りこんだ『僕』がそんなことを言った。また嫌味かと反射的に『僕』を睨みつけたが、珍しいことにあの不愉快なニヤニヤ笑いがない。忠告のつもりなのだろうか。ただ、言っている内容はイマイチ理解できなかった。
「嘘ってなに」
『……』
思わず聞き返した僕であったが、これまた珍しく『僕』からの返答はなかった。ただ自販機のボタンがチカチカと自己主張するだけ。いつもなら、僕がちょっと言い返せば待ってましたと言わんばかりにその数倍くらいの言葉をたたきつけてくるというのに。
何となく『僕』の言葉が気になって、僕はさっき学生たちが入っていったファミレスの方を振り返った。彼らはもう全員中に入ってしまったので、ここからは彼らの様子は伺えない。かと言って、もう一度道を戻ってファミレスの中を覗いてみる気にはなれない。
『僕』は自分に嘘をついていると言った。だったら僕は、本当はどう思っているのだろうか。何を感じたのだろうか。だけど、自問自答してもその答えは杳として分からない。もしかして僕は、彼らと同じように友達と楽しく過ごしたいとでも思っているのだろうか。
「――叶えたい願いはありますか?」
不意に掛けられたその声に、ドキリと心臓が跳ね上がる。
その白い女性は幽鬼のように前触れもなく僕の目の前に現れた。全身白一色の丈の長いガウンに目深に被ったフード。よく見ると袖や裾やらが金糸の刺繍で縁どられており、飾り気のない服でありながらどこか高貴な印象も受ける。問題なのは今はハロウィンではないということか。
彼女は見るからに異質な出で立ちであったが、周囲を歩く誰も彼女を気に留める様子はない。『僕』が増えたのかとも思った。今までに『僕』が増えた経験はないが、元々どうして現れたのかも分からないやつだ、前触れもなく増えたって不思議はない。だけど、目の前の女性は明らかに『僕』――幻覚とは思えない強い存在感を放っていた。
「あなた、誰?」
思わず、そう問いかけた。僕の問いかけにその女性がじっと僕を見つめる。瞬間、僕は周りの音が妙に遠くなったような錯覚を覚えた。いや、音だけではない。目に見える風景も、それなりの多い通行人も、すぐそこにあるはずの交差点や自販機までもが遠ざかり、周囲から僕とその女性だけが孤立して違う世界に落ちた。
現実とは思えない異常な状況に本能が警鐘を鳴らす。心臓の鼓動が煩いほどに大きく感じる。今すぐ彼女に背を向けて逃げ出したい。なのに、フードの奥から見える彼女の瞳に射すくめられ、僕は動くどころか呼吸すらままならなかった。
ああ、僕はこのまま取って食われてしまうのだろうか。そんな僕の内心とは裏腹に、彼女は朗らかな笑顔で微笑んだ。
「あ、ごめんなさい。怖がらせちゃったかな?」
まるで縁側に寝転ぶ家猫のような気楽な口調で、その白い女性はそう返答した。そしてその瞬間、今まで彼女から感じていた強い存在感が嘘のように消え去り、急速に周囲の音と景色が蘇る。僕の意識は、再びあの交差点の傍に戻っていた。
そこで僕はようやく呼吸することを思い出し、荒い息をつきながら周囲を見渡した。歩行者信号がチカチカと点滅し、機械音声のアナウンスがのんびり屋な歩行者を急き立てる。紅潮した頬を撫でる涼しい風が街路樹を揺らし、名前も知らない小鳥たちがチイチイと楽しそうに囀っている。元の世界に戻った。それに安堵した僕は、もう一度深くため息をついた。
「ごめんなさいね。こっちには私の気配にこれだけ当てられちゃう人って滅多にいないから、ちょっと油断しちゃった」
そう言って、その女性はぺこりと頭を下げる。さっきまでの威圧感はなくなって、なんだか第一印象よりずっと気さくな感じだ。最初はそれこそ怪獣か何かに睨まれた気分だったのに、今は従妹のお姉さんと話しているような気分になっている。
――…いや、逆に怖い。
するりと心の内に潜り込まれたような気味の悪さを覚える。家族写真に知らない人が映っているみたいな。他人なのに他人に思えないのだ。やっぱりこの人は普通じゃない。というか多分、人ですらない。
「…あなた、一体何者なんですか?」
「あ、えっと、それは…今はまだ名乗るのもちょっと…」
ごにょごにょとそう言った彼女は何かを悩むように明後日の方向を向いて頬を掻き、ややあって何かを思いついたような表情でこう名乗った。
「そうだ、そう、私のことはミーティアって呼んで欲しいかな」
…聞いたのは名前じゃなかったんだけどな。