軟泥と混濁の中にあった意識が、急速に浮上してゆく。驟雨の後に来たる晴天の如く晴れ渡った視界に飛び込んでくるのは、パステルカラーの風景。さながらおもちゃ箱のように可愛らしい家々を見やった少女が漏らしたのは、感嘆なのか呆れなのか判断のし辛い溜息一つだけだった。
少女は、記憶らしい記憶を殆ど持ち合わせていない。覚えているのは自分の個体名であろう楠愛奈という名前と、己に科せられたただ一つの使命だけ。
「選ばれし子供達と共に、デジタルワールドを危機から救え……」
ぽつりと口の端から零れ落ちた言の葉は、まるで御伽話に登場する英雄のようで。だが、母から寝物語を聞かせてもらった記憶すらも無い彼女にとっては、それはただこなすべきタスクとしか映らない。だから、その使命が如何に厳しい道程の果てにあるもので、どれだけの苦難が待ち受けているのかということすらも想像できなかった。
使命を無感動に胸の裡へとしまい込みながら、愛奈は妙に迷いの足取りでない足取りで建物の間を潜り抜けるように進んでゆく。自分が向かうべき場所を理解しているが故ではなく、迷いを覚えないが故なのだが。
いざ歩き始めてみれば、そこは然程広くもなかったようだ。町はおろか村落、ともすれば極小規模の集落程度の広さしかなく、直ぐに中心部と思しき噴水広場へと辿り着いてしまった。
大理石のように美しい白色の石畳で舗装された広場は、円形の噴水の周囲に同心円状に花壇や街路樹が配されていて、なんとも涼しげだ。陽光を反射してきらきらと輝く水飛沫と、風に揺られてざわざわと心地良い音を響かせる木々。その周りを跳ね回るのは丸っこかったり、毛むくじゃらだったり、はたまたスライム状であったり。兎に角奇妙な姿形をした生き物たちだった。彼等は幼年期Ⅰ、あるいはⅡといわれる成長段階に属しているデジモンと呼ばれる生き物なのだが、愛奈にそれを知る術はない。ただ、変な生き物という役体もない感想を抱いただけだった。
彼ら――或いは彼女らは無軌道かつ無秩序な動きで以て追いかけっこをしてみたり、隠れんぼをしてみたり。思い思いに遊び回りながら、実に楽しそうに歓声を上げていた。
「ねえねえ、君はだぁれ?」
ぼうっとしながら様子を眺めていた愛奈に気がついたのか、遊び回っていたうちの一匹コロモンがぴょんぴょんと飛び跳ねながら近付いてくる。すると、それが呼び水となったかのように広場中に散っていたデジモン達がわらわらと集まってくる。あっという間に、愛奈は興味津々の子供達に囲まれてしまっていた。
「私?私は愛奈。楠愛奈っていうの」
「マナ?聞いたことない名前だなぁ、そんなデジモン。マナモン……?」
「愛奈だよ、私の名前。マナモンなんかじゃないったら。それより、デジモンって何?」
何一つ記憶がない愛奈からすれば当然の疑問だったが、問を向けられたコロモンからすると返答に窮する質問である。精神的な要素や生物学的な要素――どちらも街の管理人をしているとあるデジモンからの受け売りだが――どの側面から話をすればいいのか暫く思案し、最終的には面倒になったのか、自分の知りうる限りをそのまま愛奈に伝えることにした。深くツッコミを入れられると非常に困るので、あくまで受け売りだと伝えることも忘れずに。
石畳に座り込むや否や膝に飛び乗ってきたボタモンを抱えながらコロモンの話を聞いていた愛奈は、話が終わると自分の体をぺたぺたと触り始めた。ひとしきり触り終わると難しい顔をして首を捻り、そしてぽつりと一言。
「私、デジモンじゃないみたい」
「そ、そうなんだ。……似たようなニオイがしたんだけどなぁ」
「私から?ふぅん、そうなんだ」
デジモンか否かは匂いで判別出来ると知った愛奈は一つ賢くなったと得意になり、手慰みに撫でていたボタモンの和毛に顔を埋めた。そのままくんくんと嗅いでみるも、比較対象が無いのでいまいちピンとこない。確かに自分の発する匂いに似ている気もするし、違うような気もする。
結局よく分からなかったので、ボタモンを離してやることにした。撫でてもらったことを自慢している彼を見るともなく眺めていた愛奈は、視界の端、建物の影の辺りに何かの気配を感じとる。一瞬のことだったが、捨て置いてはいけないと直感した愛奈は周囲に群がる幼年期デジモンを掻き分けて気配の主の跡を追いかけた。
細い裏路地を潜り抜け、街の外縁を囲う石の柵を飛び越え、花畑を抜けて。気配の主は、小高い丘の上でじっと空を見上げていた。
小さな赤い翼と角を持ち、体はエメラルドグリーンの鱗に覆われた竜の子供といった風体だ。彼は睨めつけていた空から視線を落とし、そこで漸く愛奈の存在に気付いたようだった。それが証拠とばかりに、大きく見開いた目には驚愕の色が浮んでいる。
「こんにちは。私は楠愛奈。あなたはだぁれ?」
隣に腰掛けた愛奈は相手の瞳を覗き込む。真っ直ぐで何もかもを見透かされそうな視線に晒され、竜の子供は顔を逸らしてドラコモンだ、と自らの名を明かした。
「ドラコモン、ドラコモン……!うん、よろしくねっ」
「よろしくってなあ、俺は別にお前と関わり合う気は」
「よろしくねっ!」
何度か同じやり取りを繰り返して、とうとう根負けしたドラコモンは奇妙な少女を受け入れることにした。そうでもしないと、永久に付き纏われるだろうという直感が働いたのだ。
「で、マナっつったか。お前は一体何なんだ?何で俺にちょっかい掛けようなんて酔狂をしたんだ?」
「酔狂?……うーん、わかんないや。何となくそうしなきゃ駄目って思ったから、かな」
「じゃあなんだ、お前は見ず知らずの、それも名前すら知らない相手を追いかけて、しかも話しかけようなんて気を起こしたってのか?見てくれも随分違う相手に?」
そんなにあっけらかんと言うもんじゃないだろうに。ドラコモンは海よりも深い溜息の後、この頼りない少女に薫陶を授けるのであった。自分でも何故こんなことをしているのか分からないな、などと自嘲しながら。
「ところで、マナはなんではじまりの街に居るんだ?用事もないのに来るような場所じゃないだろ、此処」
「どうしてって言われても、気付いたら此処に居たんだ、私」
「いつの間にかって、
ドラコモンの疑問に答えるように、愛奈は自分の知る限り、ほんの一滴にも満たない情報を余すところなく伝える。黙って彼女の言葉に耳を傾けていたドラコモンだったが、最後まで聞き終わっても暫く瞑目したままだった。
「俺も、自分が何の為に産まれたかを知らないんだ。本来なら、はじまりの街で産まれたデジモンは管理人以外は成長期になる前には出ていかないといけない。マナが話していたトコモンも、そのうち独り立ちするはずさ」
「だけど、ドラコモンはそうじゃなかった?」
「ああ。……俺が成長期になるかならないかの頃、この街にデジモンがやって来たんだ。そいつが俺に言ったのさ、来るべき時が訪れれば、自ずから使命は分かる。だから今は静かに時を待て、ってな。ご丁寧にセキュリティまで掛けていきやがったのさ」
それは、とても残酷なことのように愛奈には思えた。重要なことは何も告げず、ただ刻限の到来を待てというのは。伝えた側にとっては些事なのかもしれないが、だが、それはとても……。
「酷い話、だね」
「まったく、酷い話さ。ここの管理人も何も教えちゃくれないし」
そう言って笑うドラコモンの表情は、えも言われぬ諦念が浮かんでいる。随分と長い間此処に押し込められていたんだろう。幾度も幼年期デジモンの旅立ちを見送ってきたのかもしれない。まだ見ぬ外界に思いを馳せ、一人こうして過ごしていたのだろう。愛奈は胸が締め付けられる思いがして、思わずドラコモンの手をぎゅっと握った。次の瞬間。
『パートナーデータ認証。ドラコモンと楠愛奈のリンクを開始』
「なんだっ!?」
「なっ、なんなの?」
何の前触れもなく愛奈の左腕に巻きつくように装着されていた腕時計型のデバイスが、ドラコモンと愛奈をスキャンし始める。驚愕の形に表情を歪めた二人は手を放そうとするが、強力な接着剤で固着されているかのように動かすことが出来ない。そうこうしているうちに二人の全身を走査していた光はデバイスに吸い込まれるように消えてゆき、それと共に接着されたように動かなかった手も嘘のように離れた。それは即ち離そうとしていた力がそのまま吹き飛ぶ勢いになるということであり、
「あだっ!」
「むぎゅっ」
勢いよく後ろに吹き飛んだ二人は、後頭部をしたたかに打ち付けてしまった。文句の一つも言ってやろうと立ち上がったドラコモンだったが、何か違和感を覚えたように自分の手を握ったり開いたり、それを何度か繰り返し始めた。次いで尻尾を振り回し、ぴょんぴょんとジャンプをする。その何れもに満足したように頷くと、何とも言えない表情を浮かべて一連の奇行を見つめていた愛奈を助け起こした。そして今までで一番の、それこそ人生初と言ってもいい会心の笑みを浮かべ、
「俺が愛奈の使命、手伝ってやるよ!」
そう言って胸を叩いたのだった。