痛い。
体中がズキズキする。
鼻血もポタポタ地面に落ちてるし、歩くのもやっとだ。
でも、進まなきゃ駄目だ。
ここで立ち止まったら、本当に死んでしまう。
自分の全身から聞こえてくる悲鳴を抑え込みながら、俺は夜の真っ暗なスラム街を進んでいった。
見えてきたのは───街とスラムを隔てている大きな塀だ。
下の方をよく見れば、子供しか通れないような小さい穴が空いている。以前街の子供たちが使った、スラムへ来るための抜け穴だ。
ここには大人たちも入っては来れないだろう。
二つの地域を隔てているこの塀はかなり分厚いし、抜け穴は一種の洞穴のようになっているから、身を隠すにはうってつけだ。
俺はヨロヨロと揺れる不安定な身体を意地で支えながら、四つんばいの膝歩きで、抜け穴の中へと入っていった。
街とスラムのちょうど境目に位置する辺りまで進み、やっとそこで腰を下ろす。
その瞬間、青アザが出来ているであろうお尻がズキンと痛んだ。
立っていても座っていても体の何処かが痛む。
最早俺にできる体勢は、固い地面に寝転がるというものだけだった。
着ているローブを口元までずらし、体全体を包むようにした。少しだけ足元が寒いが仕方ない。
垂れてくる鼻血を手の甲で拭い、溜め息を吐いて瞼を閉じた。
あぁ、疲れた。
今朝のことだ。
結局俺は断りきれずに、アルト君からお礼としてサンドイッチとジュースが入ったバスケットを貰ってしまった。
子供から施しを受けるのは気が引けるのだが、正当な礼として受け取って欲しいとまで言われてしまったら、無下にはできない。
……実際、サンドイッチの美味しそうな匂いの影響で、気が緩くなったのは事実だ。
今回限りだと考えれば、まぁ受け取っても問題は無いだろうと判断し、バスケットを翌日に返すことを約束してアルト君を街に帰した。
そしてバスケットを持って犬小屋のような家に戻ろうとして───厄介な大人たちに見つかった。
スラムを牛耳っている、腹が風船みたいにパンパンな成金オヤジだ。
いつも自分の周りにガタイの良い用心棒をお供させていて、街を巡回しながら弱い人間にちょっかいを出して遊んでいる。
そんな奴らに運悪く見つかってしまった俺は、奴らにバスケットを取り上げられてしまった。
スラム住みの孤児のくせにサンドイッチやジュースなんて生意気だ、なんて吐き捨てながら。
いつも食っているような味のしないパンを取り上げられるならともかく、アレは人に貰ったものだ。その場では抵抗できなかったが、どうしても許せなかった。
だから俺は夜中、奴らの屋敷に忍び込んだ。中身は期待できないだろうが、せめてバスケットは取り戻したかったから。
しかし奴らがバカ騒ぎをしている広間を見たときには、既に壊されたアルト君のバスケットは床に転がっていた。それこそ、ただのゴミのように。
その光景を見た瞬間、頭に血が上ってしまったのだろう。俺の思考は、奴らへの報復という意志に支配されてしまった。
何をしても大人には勝てない。俺が出来るのは盗むことぐらいしかない。
ゆえに、俺は成金野郎の屋敷の備蓄庫から、数少ない貴重なチーズとワインを全て袋に詰めて盗み出した。
スラム街の成金の贅沢なんてたかが知れている。さほど量もなかったし、盗むこと自体は簡単だった。
だが、袋を担いで屋敷から逃げ出す姿を、見張り番に見つかってしまって。
流石に荷物が少し重かったのもあって、いつもよりも足が遅くなっていた。
その影響で追いかけてくる用心棒たちを振りきれず、川まで追いつめられて逃げ場が無くなってしまった。
──そこで俺は、奴らへの報復を決行することに。
『そんなに返してほしかったら……取ってこいっ!』
そう叫びながら、背負っていた袋を川に投げ捨てたのだ。
あの食べ物たちに罪はないが、窮地に立たされた俺にできる復讐は、それしかなかった。
川の流れはとても速く、俺の投げた袋はすぐさま行方不明になった。
アルト君から貰ったお礼の分の借りは返せたので、胸がスッとしていい気分にもなった。
しかし貴重な趣向品を投げ捨てられた大人たちは怒髪衝天の状態に。
なされるがまま、俺は大人五人に嬲られた。殴られ蹴られ髪を引っ張られ……思いつく暴力はほとんど受けた気がする。
幸いなことに
小学生くらいの女の子の口に靴を突っ込むんだぞ。信じられねぇよ。
スラムの大人なんてカスみたいな奴しかいないんだって、改めて思い知らされたわ。
ヒートアップする暴力に本格的な命の危険を感じ、俺は隙を見て煙幕玉を使って逃げた。
最初からそれが出来ればよかったのだが、腕を掴まれてしまって思うように道具を使うことが出来なかったのだ。
そして命からがらあの場から離脱した俺は、今ここで死体の様に寝転がっている。
いまだに鼻は痛むし、前歯が折れている口の中が違和感だらけで気持ち悪い。
なんというか、いよいよ終わりな気がしてきた。ファンタジーな世界に来たっていうのに、さんざんだ。
きっとこの先、魔法なんて見る前に現実的な大人の悪意に殺されるんだろうな、なんて考えが頭をよぎる。
それでもまだ、死なない程度の余力が残っている事は分かる。俺って案外しぶとい。
とりあえず今は、朝になるまでこの場で眠ろう。
痛みも悲しみも虚しさも、眠っている間は忘れられる。
今はただ、体を休めたい。
「───だっ、誰かいるの?」
意識が暗転する瞬間、つい最近聞いた覚えがある声が、聞こえたような気がした。
★ ★ ★ ★ ★
「……はぁ」
昼時。俺は溜め息を吐きながら、人通りの少ない路地裏を歩いていた。
今いる場所の近くにはあの抜け穴があり、俺はそこへ向かっている。少しだけ、足が重いが。
結果的に言えば、俺は助かった。
大人たちにリンチされた日から、はや二週間が経過している。
瀕死の状態の自分を見つけてくれたアルト君に連れられて、俺は街の教会でコッソリ療養をしていた。
なんでもシスターさんが回復魔法の使い手だそうで、今や折れていた鼻の骨や前歯も元通りだ。
三日間も世話になってしまったし、汚れていない綺麗な服もいくつか貰ってしまった。シスターさん、あまりにも人が良すぎる。ちょっと惚れた。
スラムの人間が無断で街に入る……なんてガキでも分かるご法度なのだが、どうやらアルト君が必死にシスターさんを説得してくれたらしい。
アルト君は俺の事を命の恩人だと言っていたが、今回のことで彼も俺の命の恩人になってしまった。
借りを返しただけだよ、なんて彼は告げていたけれど、助けたお礼はあの時受け取っているのだ。これではアルト君に対して借りが残ることになる。
だが、その日暮らしなスラムの住人である俺にできるお礼なんて、ほとんどない。
故に俺は、せめて迷惑をかけないようにしたい、と考えた。
アルト君に「危ないからスラムには来ない方がいい」と伝え、俺の都合には巻き込まないようにした。
……なのだが、俺の思いとは裏腹に、困った事態が発生している。
俺が教会を出てスラムに戻った次の日から、アルト君が頻繁にスラムに訪れるのだ。その手に、手作りの料理を詰め込んだバスケットを持って。
今の所、毎日昼に来ている。俺が抜け穴の近くまで赴き、彼からバスケットを受け取るのだ。
ひどい日なんて、彼の誘いを断りきれず一緒に昼食を摂ることもあるくらいだ。
危険すぎる。
こんなことを続けるのは明らかにまずい。スラムは悪意ある大人たちだけでは無く、低級とはいえ魔物も出没する危険区域なのだ。
俺一人ならともかく、二人でいるときに魔物に襲われたら、彼の命を保証できない。こんな歳で、人の命を背負うなんてまっぴらごめんだ。
「勇者になれば……守れるのかな」
ボソッと、ほぼ無意識に呟いてしまった。失言に気がついて、焦って周囲を見渡したが、誰も居なくてホッとした。こんなことを聞かれたらただでは済まない。
教会で世話になっていたある日、シスターさんがこんな話をしていた。
『西にある神秘の洞窟に、聖剣が出現した』と。
そして聖剣が再び世界に出現したことで、素質を持った子供に『勇者』の適性が生まれた……とも言っていた。
俺にも勇者の適性が生まれたのだが、実を言えば自分にその適性があることは、事前に把握していた。
この世界に転生する際に、神が与えた特典か何かなのか。それは分からない。
ただ、転生したときから自分に『勇者の適性が生まれる』という、その部分の未来だけは知っていた。
だからスラムの孤児になっても必死に生き抜いたし、挫けることなく前を向いてきた。
それもこれも、勇者になれるという事実が、心の支えになっていたからだ。
勇者になることが出来れば、比類なき力を得ることができる。
その力があれば、こんな汚れた町ともおさらばできる。
……そして、スラムで生きる俺なんかを助けてくれた、アルト君のような心優しい少年を、悪意から守ることができる。
「半年後……か」
聖剣が眠る神秘の洞窟が解放されるのは半年後だ。その時に、王国が世界中から招集した勇者適性持ちの子供たちと共に、ダンジョンを進んでいくこととなる。
あぁ、待ち遠しい。半年後、俺はこんなスラムからおさらば出来るんだ。
勇者になって、今まで虐げられてきた分まで、この世界を楽しんで───
「───っ!!」
「……ッ!?」
思考に耽っていた瞬間、俺の耳に遠くからの悲鳴が飛び込んできた。その瞬間、脳が切り替わった。
若干高い、成長期の男の子の声だ。
このスラムでそんな声の持ち主なんて、一人しか知らない。この汚れた町に、俺以外の子供なんてほとんどいないのだ。
すぐさまその場を駆け出し、路地裏へと入っていった。声の聞こえた方角を考えれば、悲鳴の主はこの先の行き止まりにいる可能性が高い。
──見えた。路地裏を抜けた少し広い場所で、壁に背を預けている黒髪の男の子を、狼のような魔物が威嚇している。
見間違えるはずもない。アレはアルト君だ。蒼白な表情で、バスケットを持った手を震わせている。
俺はすぐさま彼の前に立ち、魔物を睨みつけながら声を上げた。
「アルト君っ、怪我ないか!?」
「あっ、ラルちゃん! うっ、うん、まだ大丈夫……」
攻撃はされていないという事に安堵すると同時に、身構える。
どうあっても、目の前の狼の魔物を倒すことはできない。
今までは逃げるのが基本だったから、魔物を倒せるような武器なんて持っていない。
『グゥルルッ!』
「腹ペコさんかよ……!」
口から涎を出しながら威嚇する魔物を見て、汗をにじませながら苦笑いをする。
おそらく、奴はあの凶暴な牙で噛みついてくるだろう。スラムに生息しているような不衛生な魔物に噛まれでもしたら、ヤバイ病気を患ってもおかしくはない。
何とか無傷でこの場をやり過ごさなければ。
俺は自分の懐に手を伸ばし、野球ボールサイズの煙幕玉を取り出した。俺に使えるアイテムは、現状これだけ。
しかし煙幕を焚いたところで、相手には鋭い嗅覚がある。目晦ましはほぼ無意味だ。
故に、別の使い方をする。上手くいけば、しばらくあの魔物を無力化できるはずだ。
煙幕玉を握りこみながら、数回ほど深呼吸をした。これからやることは、冷静さと正確さが必要だから。
チャンスは一回、失敗は出来ない。
身構え、目の前の魔物を凝視した。
『グガァッ!』
その瞬間、魔物が牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
「……っ!」
落ち着いて、正確に狙いを定める。
そしてタイミングを見計らって、俺は煙幕玉を正面に投げつけた。
『──ガフッ!?』
「よしっ……!」
煙幕玉が見事に魔物の口内へ入り、ガッツポーズをする。
ほどなくして魔物の鋭利な牙は煙幕玉の外装を刺激し、本来の機能である煙幕発生を起動させた。
瞬間、解き放たれた大量の煙は魔物の体内へと侵入していき、魔物は理解不能な事態に狼狽する。
魔物はその場で苦しそうにのたうち始め、完全に戦意を削ぐことが出来た。
その隙に、俺はアルト君の手を握り、その場を駆け出した。
「はぁっ、はぁっ」
「あっ、ありがとう、ラルちゃん……」
何とかあの場からの離脱に成功し、俺たちは塀にある抜け穴の前まで来ていた。
暫くは煙幕に犯された体内の苦しみを味わっている筈だし、ここまで来れば、あの魔物も追っては来れないだろう。
アルト君の手を離し、荒い呼吸をして息を整える。
「はぁっ………ふぅ」
そして一息、まるで溜め息の様な空気を口から吐きだし、頭を冷静にした。
振り返れば、そこには汗だくになりながらも嬉しそうな顔をしている黒髪の少年がいた。
当然危険に怯えていたのだろうが、俺に助けられたことで安堵しているのだろう。
あぁ、ついに襲われてしまった。
……駄目だ、呑気な奴だ、なんて思っちゃだめだ。
元を辿れば俺の責任なんだ。本来なら彼の心を傷つけてでも、拒絶してスラムに入れないようにするべきだった。
こんなものは必要ないのだと、彼からの礼を受け取らないようにするべきだった。
全ては俺の甘えがもたらした結果だ。
これ以上の接触は、俺にも彼にも不利益しか与えない。
この子と会うのも、今日限りにしなくては。
「……アルト君」
「んっ?」
アルト君の両肩を掴み、真っ直ぐ彼の瞳を見つめる。
目の前の少年は少し狼狽えているが、気を使うことはもう出来ない。
スゥ、と息を吸い込む。
──そして勢いよく、俺は怒号を放った。
「もうスラムには来るなッ!!」
俺の叫びを正面から受けたアルト君は、驚いて声を失っている。
だが、そのまま続ける。
「死ぬところだったんだぞ! 俺がいなかったら今頃っ、キミは魔物のエサだ!」
頭が熱くなってくる。大声を張り上げれば当然だが、彼に強い言葉を浴びせるのが、どうにも苦しい。
「礼なんかいらないって、スラムは危険だって、何度も言っただろ! どうして言うことを聞いてくれないんだ!?」
「………ぼっ、ぼくは、ただ……」
うるさい! と叫んでアルト君の声をかき消す。俺の言葉は質問ではない。
はなから彼の言葉を聞くつもりはないのだ。
「ハッキリ言って迷惑なんだよ! 毎回わざわざ食事を持ってくるけどっ、正直まず───くはなかったけど! でもスラムに来ていい理由にはならない……! 俺は、君のお守りなんて御免だ……」
「らっ、ラルちゃ──」
「その呼び方もやめろ。いい加減、虫唾が走る。……いいかアルト。俺はお前が大嫌いだから、もう会いたくないんだ」
彼の肩から手を離し、アルトの目から視線を外した。
もう優しい言葉づかいもしないし、呼び捨てで呼んでやる。お前なんか嫌いなんだって、分かって貰えただろう。
俺は懐から小さな布袋を取り出し、アルトに押し付けた。
「俺の全財産だ。銅貨が十二枚あるだけだから、今までの分は返しきれないけど……勘弁してくれ」
「そっ、そんなの受け取れないよ! 僕が勝手にやってた事なのに……」
「いいからっ!」
金の入った布袋を、無理矢理アルトのズボンのポケットに突っ込んだ。
そして彼の肩を強くど突き、抜け穴に入ることを急かす。
泣きそうな顔になっているアルトを見て、少し心が痛んだが、既に遅い。
「もう、二度と来るな。………ばーか」
冷たく言い放ち、俺は彼に背を向けて歩き出した。
俺にスラムでの生き方を教えて、ラルという名前を付けてくれた──数年前に死んだソルドットのじいさん以外で、初めて俺に優しくしてくれた人だった。
そう、初めて……一緒にご飯を食べてくれた男の子だった。
しかし生きる場所が違う。これ以上は巻き込めない。だから拒絶した。俺がスラムの人間だから。
でも、もし。
もし俺が勇者になれたら。
他人に誇れる、一人前の人間になれたら。
もう一度彼と、ご飯を食べたい。
そんな思いを、抱いてしまった。
主人公、初めてのばーか