とあるマンションの一室。もはや月も落ち始めた時間帯にも限らず、その一室からは僅かに明かりが溢れていた。
部屋の中はとても良く整頓されている。自室というのは見るだけでその人の本性を表すというがその論でいくとこの部屋の住人はきっちりしているか物を持たない人なのだろうとわかる。
「──ふうっ」
走らせていたペンを止め、隣にあった冷めたコーヒーで一息いれるその人物。今、九月晶がやっていることは今日の試合内容のまとめることであった。
女性には肌に悪そうなほど遅い時間。それでもこの脳が、今日を振り返ると眠ることを許さなかった。
(……思えば、僅かにでも南雲が笑ったのを見たのは二度目だったな)
客席から見えた少女の微かな笑い。それでも、あの少女にとっては珍しいものであると思っている。
南雲咲耶。高校一年。聞いた話によると母親は生後間も無く顔を見ることなく死亡。父親も小学六年生の時に事故で他界している。
現在はその父親の弟が書類上の保護者らしいのだが、仕事上の都合にて家にいることはごく稀であるとのこと。
父親と暮らしていた家で今も一人で生活をしていると本人からは聞いている。
家族と引き換えにバドミントンの才をもらった少女。
なんとも皮肉だ。その奪われたものこそが、かつて言っていた理想に一番必要なものであったろうに。
「……懐かしいな」
初めて会った彼女は今でも記憶にはっきりしている。
あれはそう。私がこの学校に訪れて一年目だか二年目の頃だ。
私が全中の準決勝を見ていた時だ。当時、私はうちの高校に誘う生徒を探していた。
その時の海鳴高校はお世辞にもバドミントンに強いとは言えない学校であった。
私が来てようやく個人戦でちらほら上を目指せるようになったぐらいのレベル。全国を夢見るにはあまりにも非現実的。そんな程度の強さでしかなかったのだ。
特にこの世代は益子泪という埒外の才能を誇る頂点がいたり、その次に当たり前のように立ちはだかる志波姫の存在が何よりも厄介だった。
来年以降にどこぞの強豪校に行くであろう彼女らは必ず大きな壁になる。その強さは見ているだけの私よりも、その場で共に戦っている選手たちの方が理解しているのだろう。
もちろんそんな弱音など吐いてはいられない。
私は私の目標のため。個人ではなく、団体で全国を獲るためにチームを作るためには止まってなどいられない。
──そう思っていた時だ。南雲咲耶を最初に見たのは。
最初はそこまで興味も沸いてなかった。三年に意識を集中していた私にとって一年のダークホースなど次の年でいいと思えるぐらいには優先順位は低かった。
だが、たった一試合。その試合の終盤。僅か五点ほどのゲームに目を見開いた。
蹂躙。その言葉以外には合う言葉を私は知らなかった。
恐ろしいことに相手は志波姫。この世代最優といっていいだろう彼女がまるで手も足も出ていなかった。
最初は志波姫が不調なのだとしか思えなかった。けど、内容を見てそれは違うと断言できた。
黄金すら寄せ付けない異次元の才能。それに羽虫の如く魅入られてしまった私はその試合の後、何故か決勝を棄権した彼女と話が出来た。
「……全く、楽しくなかったんです」
彼女が死んだような目をしながら言った言葉は今でも耳から消えることはない。
おおよそ中学生が発していい重さではなかった。かつて理不尽な借金で潰れかけていた友人や、あっさりと間男に捨てられた母と被るようなその雰囲気。
決勝の相手にどれほど不誠実だとしても、それについて触れることはいくら他人の私でも出来なかった。
「──君を、私の学校に招きたい」
まだ一年の少女にこれを言ったのは後にも先にもこれが最後であろう。
それに対して、心からどうでもいいように返事をし去って行ったその黒髪の少女。
次に会ったのはそれから二年後。彼女が三年になった年の夏である。
彼女の名前はそれから中学バトミントン界から聞けることはなかった。
私も記憶を頼りにその学校に行ってみたのだが、どうやら彼女は転校していたらしくそこで情報の糸は途切れてしまっていたのだ。
私は悩んだ。御劔を筆頭に、彼女が揃えばようやくあの三強にだって負けることのない最強のチームになると。
無論、あそこまでの選手なら続けていると期待していた。だが彼女もまだ多感な学生。あの年でつまらないと思ってしまったスポーツを果たして今もまだやりたいと思えているのだろうか。
偶然にも花柳莉子を獲得できたことも彼女を諦めようと思えてしまえる要因の一つでもあった。
しかし、運命は私と彼女を再び出会わせてくれた。
「……ああ、あの時の」
近くの河原で一人座っていた彼女。話を聞くと、最近この辺りに戻ってきたらしく懐かしい思い出の場所を回っていたとか。
正直私のことなど全く覚えていないと思っていたのだが、流石に一年の時にスカウトしてきた変わり者は僅かに記憶の端に残っていたらしい。
「……バドミントンは、楽しいと思えることは、何かやっているのか?」
私の質問は踏み込み過ぎだと今でも思う。けれど仕事を抜いて考えても、変わらず何もかもを目に移していないこの少女にとっての些細な安らぎがあって欲しかったのだ。
「……ラケットは、ラケットだけは。まだ、捨てられないんです」
彼女はぽつぽつと語ってくれた。バドミントンは死んだ父との思い出なのだと。最後に話した言葉でもあるのだと。
試合に行く前に父に聞いた。周りの友達から、少しずつ勝率が上がってきて、嬉しさと同時に持ってしまった不安を。
『例えさくが最強になっても。横に立とうとしてくれる人が周りにきっといるよ。そう、一緒に競い合ってくれるライバルがね』
そう言って頭を撫でてくれたのが父との最後の思い出だった。
その言葉を頼りに、辛い悲しみから逃げ出すように必死にバドミントンに取り組んだ。
そして、後ろには誰もいなくなっていた。
かつての友達も、強かった先輩も、生意気だった後輩も。
──みんなみんな私から離れた。勝つことを諦めた。
気付けばもう、父の言葉を信じられなくなっていた。
だからこの二年間バドミントンはしていないのだと。
けれど、それでもラケットが捨てられないのだと。体が、この何もない心の奥がそれをしようとすると固まってしまうのだと。
全ての話を聞いた時、既に日は落ちようとしていた。
「……そうか」
言葉なんて出なかった。
運命とは余りにも残酷。どうして、こんな少女にも試練ばかり与えるのか。
その日は結局、何も言えずに情けなく終わってしまった。
その日以降、同じ場所で一ヶ月近く彼女と話続けた。
少しずつ、本当に少しずつ距離を縮めていった。
「……今もまだ、バドミントンをしたいか?」
いつだろうか。ある時、ふと聞いてみた。
「……分かりません」
彼女は少しだけこちらに目を動かし、小さな声でそう言った。
分からない。本当にそうなのだろう。
やりたくないとは言わず、体を鈍らせることだけしない。
それは無意識でも、完全に興味をなくしてしていないという証拠。
「……もし、もしもやりたいと思うならうちに来い。うちは全国までは行けるぐらいには強くなった。この世代の一番上を見せることぐらいは出来るぞ」
これは彼女にとっては得のない提案なのかもしれない。
向き合わせることが良いことであるかなんて私には分からない。
けど、もしまだ燃え尽きていないのなら。その渇望が残っているのだとしたら。
「……強い人は。私に勝てるぐらい強い人はいますか?」
「……さあな。ただ、今年は豊作だ。もしかしたら、お前でも満足できるやつがいるかもな」
はっきりとなんて言えない。益子や志波姫がこいつに勝てるのかと言われれば難しい。
志波姫は中学で完敗している。今のあいつの完成度はあの時とは比較にならないが、それでも勝てるかといったら話は別なのだ。
「……そうですか。なら、条件があります」
意外にも肯定的だった。もしかしたら前もって決めてたのかもしれない。
「言ってみろ」
「……練習は自由で。出なくても文句は言わないで下さい」
「……わかった」
条件はそれだけだった。それ以外は望まなかった。
月が私たちを照らしながら握手をする。
その時見えた彼女の顔は、少し歪んだ笑顔だった。
「……ままならんものだな」
情けないものだ。結局、あれ以来私は彼女に何かしてやれたのだろうか。
あの条件は普通の部活にとってはお断りなのだろう。練習しない推薦生なんて周りに示しがつかないし悪影響でしかない。
だが、うちは違う。強さに重きを置くうちには関係のないこと。
コップを置き再び作業に戻る。
見たところ、友達と言える者も最近は出来ているようである。
良い兆候だ。南雲関連も含め花柳を入れたのは本当に成功だったと言える。
(コニー・クリステンセン……)
合宿先での若手プロを思い出す。恐らく、南雲と真っ向から相手取れるのは彼女一人だけ。
どうか彼女と当たる機会を作りたい。それが団体と個人のどちらだとしても。
海鳴高校バドミントン部コーチとして。彼女を心配する一人の大人として。
私は願う。彼女が心から笑える、そんな試合が生まれることを。
読んでて突っ込みどころはあると思います。
それは作者の未熟故です。あくまで創作の中だと大目に見てくれると助かります。