防衛任務を終えた太刀川慶は、いつもならその足でソロランク戦のホールへと直行する。だがこの日に限っては、任務終了後に師匠である忍田真史に呼び出されて、今後のスケジュールについていくつか打ち合わせをする羽目になったため、予定が大幅に狂った。
やっと忍田から解放されて司令室を出た太刀川は、大きく伸びをした。
「ぐ、あぁぁ〜……。やっぱり司令室ってのは、毎度のことだが肩がこるな。もし将来、俺が司令室に配備されることになったら、俺の椅子はマッサージチェアにするか……」
真面目な顔で残念な発言をする太刀川だが、幸いにもそれを聞いている人は通路にはいなかった。
とりあえず、といった様子で通路を歩きながら、太刀川はこの後どうしようかと考え、
(いつもならソロ戦しに行くんだが……。気分が乗らないから、今日はやめとこう。このまま帰る)
さして迷うことなく、いつもとは違う行動を取ることに決めた。
太刀川隊の作戦室に置きっ放しの自分の荷物を回収して帰ろうとした太刀川は、司令室から最短ルートで目的地へと向かう。慣れ親しんだ通路を歩いていると、その途中で1人の少女と出くわした。
自分より1つか2つほど年下に見えるその少女を、太刀川は特別気に留めなかった。トリガーの性質上の関係で、ボーダーは中高生が多く在籍する組織であるため、こうして自分より若い子と出くわすのは特別珍しいことでは無かったからだ。見慣れない制服ではあったものの、千景のように他県からスカウトで来たばかりなのだろうと、太刀川は脳内補完した。
歩みを止めずに通路を進む太刀川は、その少女に自分の声が十分に届く距離になったところで、
「おう、おつかれさん」
何の気なしに、そう挨拶をした。見知った顔ではないが、同じ組織に身を置く者同士として、基本的な、それでいて必要最低限のコミュニケーションだ。
しかし、日常でありふれたはずの挨拶を聞いたその少女は、
「あ、お……、おつかれ……、さま、です」
なぜか、ひどく同様した様子で挨拶を返した。
(……?)
少女の態度に違和感を覚えながらも、太刀川は特に何もすることなく、彼女の横を通り過ぎた。
(……なんだったんだろう。俺何か、マズイことしたか?)
歩きながらそんな疑問が頭をよぎった太刀川は、振り返って少女へと視線の焦点を合わせた。
太刀川がやってきた通路……、司令室へと通じる道を
「お前、千景か?」
冷静に考えれば、ありえないことだった。
ついさっきまで共に防衛任務に出ていた水瀬千景は、今太刀川の目に映る少女より背が高かった。
腰まで伸びる長い栗色の髪も、狭い肩幅も、白く細い腕も、スカートから伸びる肉付きが薄い足も。
千景と彼女を構成する外見的な要素は、何もかも違う。もっと言えば、
だがそれでも、名前を呼ばれて思わず振り返ってしまった彼女の顔を……、正確には、動揺の色が色濃く浮かんだその目を見て、水瀬千景と全く同じ目を見て、太刀川は確信してしまった。
「お前、やっぱり千景だろ」
太刀川がその確信を言葉にした瞬間、
「っ!」
彼女は踵を返して、全力で通路を駆け出した。
「ちょっ、待てオイ!」
半ば反射で、太刀川も駆け出して彼女の華奢な後ろ姿を追いかけた。
はためくスカートを気に留めずに全力で走る少女だが、太刀川はそれにあっさりと追いついてしまい、思わず細腕を掴んで少女を捕まえた。
「……っ、千景、だよな?」
逃げられない状況下で問いかけられた彼女は、太刀川の目をしっかりと見た。
今にも泣き出しそうでぐしゃぐしゃにした顔で、涙を溜め込んだ瞳に深い絶望の色を宿した少女は、
「……ああ、そうだよ、太刀川さん。オレは、水瀬千景です」
自分が水瀬千景だと、認めた。
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千景は全て話すと言って、太刀川をボーダー本部の屋上へと連れていった。
「適当に……、あの辺に座りましょう」
屋上にある段差を指差しながら千景が言い、太刀川と2人でその段差に腰かけた。
防衛任務の時より、少し距離を開けて座った2人だが、それでも同じように夜空を見上げる。
空を見上げながらも、太刀川は横目で千景の姿を見る。
月明かりに照らされて艶めく栗色の髪。化粧っ気はまるで無いが、気を抜けば見惚れてしまうような整った顔立ち。重いものなど持てそうにもない細い腕と繊細な指。よくこんなので走ってたなと言いたくなるような、肉つきが乏しい白い足。
太刀川が普段会っていた水瀬千景とは、感情を色濃く写すその瞳を除けば、まるで別人にしか見えない美少女だった。
(……そういや、千景と会うときはいつもトリオン体だったな)
遅ればせながら、太刀川はトリオン体の換装を解いた千景とは会ったことが無いことに気がついた。
そうしてしばらくの無言を挟んでから、少し緊張しながらも太刀川がその沈黙を破った。
「本当に……千景なんだな?」
問いかけられた千景は、涙で腫れた目で太刀川を見ながら、きちんと答える。
「はい。というか、太刀川さんから何回も言ってますよね。普段、警戒心どこに置いてるだろうくらいに無警戒なのに、こういう時は念入りになるんですね」
その丁寧で、でも若干皮肉混じりの受け答えを聞いて、太刀川は改めて確信する。
「本当に、千景だな」
「何回も言ってるじゃないですか」
ため息を混ぜて、千景は悲しそうに笑んだ。
「さて……、全て話すと言ったものの、何から話しましょうかね?」
千景は少し間を開けて考え込む仕草を挟んでから、太刀川に問いかける形で全てを語り始めた。
「太刀川さんは、性同一性障害というものを知ってますか?」
「確か……、心と体の性別が、ちぐはぐだってやつ……だったかな」
「はい。答えから言うと、オレがそれなんです。心は男、でも身体は女性……。それが、水瀬千景です」
それから千景は、ポツポツと、それでいて1つ残らず語り始めた。
幼少期から男の子と遊ぶことが当たり前だったこと。
両親がプレゼントしてくれた女の子向けのおもちゃを、嫌だと言って突っぱねたこと。
母が可愛いからと言って用意してくれる服を着るのが、嫌で嫌で仕方なかったこと。
父が毎日言ってくれる「千景は可愛いね」という言葉よりも、「千景はかっこいいね」という言葉を言って欲しかったこと。
小学校に上がってから、女の子の体でする男の子としての行動を、ひどく気持ち悪がられたこと。
病院で性同一性障害だと告げられた日から、両親が変わってしまったこと。
立ち振る舞いや仕草、口調など、日常のあらゆることで男の子らしいものがあったら、「千景は女の子なの!」と言われて鬼のような形相で怒られ、なんでこんな子を産んでしまったんだと悲しませたこと。
両親に怒られるのが嫌で、悲しませるのが嫌で、女の子しての振る舞いを身につけていったこと。
そしてそれが、どうしようもなく気持ち悪かったこと。
身体が成長して、女の子としての身体が出来上がっていく過程が、女の子として振る舞う比じゃないくらい気持ち悪かったこと。
新しい居場所が出来ても、性同一性障害だとバレた瞬間、それが崩れたこと。
昨日まで平然と話してた人から、気持ち悪いと罵られたこと。
自分の障害を知っていて、それをバカにしてくるような同級生の言動が、ただただ悔しくて仕方なくて、毎日泣いていたこと。
両親がいつまでも、頑なに自分のことを女の子として扱ってくることに対して、殺意にも似た怒りを募らせていたこと。
生きること全てが、嫌いで、辛くて、怖くて、寂しくて、悲しかったこと。
千景は、自分の人生で募らせたであろう負の側面のほとんどを、太刀川に吐き出した。
「多分、話しきれてないところはあるかもしれませんけど、だいたいこんな感じです」
「……そうか」
放心状態に近いのか、太刀川はその一言しか言えず、2人の間にしばし沈黙が流れた。
それが深くなる前に、千景は補足するように言葉を付け加える。
「一応言っておきますけど、オレがさっき嫌で仕方ないって言った女の子の身体についてのアレコレは、それが自分の体で起きるから、ですよ。女性の身体の成長については、色んな意味で素晴らしいものだって思ってるんですからね?」
「……」
なかなか言葉が帰ってこない太刀川に対して、千景は暗い気持ちになるが、心が真っ黒になる前に、太刀川が口を開いた。
「……で?」
「……はい?」
「いや……、千景さ、全部話すって言ったのに、まだ全部言ってねえなと思ってさ。明らかに、ボーダーに来てからのエピソードは言ってねえだろお前」
「……ま、まあな」
うつむきながら言っているため太刀川の表情は読めないが、いつも通りの口調で言われた千景は、多少面食らいながらも、太刀川の言うようにボーダーが自分の人生に絡み始めた頃のことを話し始めた。
高校生に上がってすぐに、他県へのスカウト遠征に来ていた嵐山に捕まったこと。
簡易トリオン能力検査キットで十分すぎる資質を示していたこと。
トリガー起動によってトリオン体に換装されることを変身だと嵐山に言い換えられた時、それならトリオン体でなら男の体になれるのではないかと思ったこと。
そして、それが可能だと告げられ、迷いなくボーダーに入隊するのを決めたこと。
そして、それが……男の身体になるという願いが叶った時、自分の心と身体が一致したと思えて、死ぬほど嬉しかったこと。
トリオン体でいる時、男の子としての水瀬千景でいられる時が、偽りのない、本当の自分なんだと思えたこと。
男の子としてボーダーで過ごす毎日が、本当に充実してたこと。
ボーダーに来て、心から良かったと思えていたこと。
トリオン体から生身に戻った時、現実に叩きつけられてそれなりに嫌悪すること。
それでも、またトリオン体に換装できた時の喜びがそれに勝るから、毎日頑張れたこと。
なにより、太刀川と斬り合い、時に共闘する日々がたまらなく嬉しかったこと。
それでも、毎日。いつか自分の身体のことがバレてしまうのではないかと不安だったこと。
そして今日、それがとうとうバレてしまったこと。
「よりによって……、1番バレたくないと心の底から願ってた太刀川さんにバレるなんて……。オレの人生は、本当についてない」
心底残念そうなその言葉を、千景は笑顔で……全てがどうでもよくなったような笑顔で、告げた。
今度こそ、自分の人生の全てを吐き出したと思った千景は、深く、大きなため息を取った。
「さてと……。太刀川さん、これで正真正銘、全部話しましたよ。何かオレに……、気持ち悪いオレに、言いたいことでもありますか?」
自嘲しながら話す千景の気持ちは、正直、理解できてしまうと太刀川は思った。
千景が小一時間かけて丁寧に自分の人生を語ってくれたおかげで、今の太刀川には千景が自嘲してしまう理由と気持ちに、理解が及んだ。もちろん、全部理解したとは思っていないし、理解は恐らく半分にも満たないだろう。だがそれでも、今の太刀川は、千景の気持ちが理解できると断言できた。
千景の気持ちを理解した上で、太刀川は言った。
「なあ、千景。お前はそんなに卑屈にならなくてもいいんじゃないか?だって、お前は悪くないだろ」
千景は悪くないと、太刀川は断言した。
千景の話を何度聞いても、太刀川はどうしても千景が悪いとは思えなかった。だって
そのどうしようもないものを嘆いて、無理やり矯正するなんてことは、出来っこない。それは関節が絶対曲がらない方向に向けて身体を曲げようとしているようなもので、そんなことを続けていたら、出来もしないことに力を掛け続けていたら、いつか絶対に折れるのは誰の目にも明らかだ。
太刀川からすれば、千景は今までそんな人生を歩んできたように思えた。千景はずっと出来ないって、そんなの嫌だって思っていたのに、それを強制させられ続けてきた。それでも誰もその声を聞いてくれなくて、なのに千景は聞かなくてもいい、間違っている周りを声を素直に聞いてしまって、心を歪めてしまった。
おかしいのは自分なのだという間違った考えで、心を歪めてしまった。
自分がおかしいと盲信してしまっている千景に、太刀川の言葉はまだ届かない。
「いや、太刀川さん、何を言ってるんですか?悪いのは、オレじゃないですか。だってオレが……、オレが身体通り女だったら、それか心に合った男の身体だったら……、父さんも母さんも……、みんなも、誰も、おかしなことを……しなくて済んだんですよ。オレが、おかしかったから……、みんなおかしくなっちゃったんですよ」
「ほー……。つまり、こういうことか。男か女かどっちでもいいから、心と身体が一致してりゃ、お前の周りの人間はみんな、今より幸せだったってか?」
自分自身が思っていたことを太刀川に言われて、千景は迷いなく頷く。
「そうですよ!オレが、普通だったら!みんな今より幸せになれてたんです!」
ボーダー本部の屋上で千景は、喉が裂けんばかりの声量で叫んだが、
「はいダウトー。千景、お前の主張は間違ってる。少なくとも1人、今より不幸になる奴がいる」
太刀川は飄々と、千景の叫びを否定した。太刀川は千景が反論するより早く、間違いの根拠を言った。
「俺だよ。お前の心と体の性別が一致してたら、お前はボーダーに来ようとしなかった。お前がボーダーに来なかったら、俺はお前に……、水瀬千景に出会えてない。だから少なくとも、お前の主張に従うなら、俺は確実に今より不幸になるな」
ニヤリと口元に笑みを作りながら話す太刀川に、千景は力のこもった視線を刺した。
「……すると、なんだ。太刀川さん、貴方は自分1人が幸せになるために、オレの周りの人間に不幸になれと言ってるんですか?」
「おおっと、誤解するなよ千景。
「……?」
「お前は、お前のことを罵るような何十人と、お前のことを認めてる1人の友達、どっちを取るんだ?」
「……っ!」
2つの選択肢を目の前に突きつけられた千景は歯噛みした後、力なく笑った。
「……太刀川さん、あんた狡いよ。今、そうやって聞かれたら……、オレは、あんたを取るしかないじゃないか……っ!」
千景の心の琴線に触れたのは、友達という言葉だった。異端だと罵られ続けた千景は自然と孤立していき、誰かと深く関わるのが怖かった。誰かと仲良くなったとしても、次の日には石を投げられるかもしれない。仲良くなった誰かも、自分といるだけで傷つけてしまうかもしれない。
そう思い続けて人との関わりを避けてきた千景は初めて……、自分が異端だと告げれてからは誰にも言われたことが無かった、友達という言葉をもらえた。
たった一言、たった4文字。
それを、ずっと友達になれたらいいのにと願っていた太刀川に言ってもらえたことが、水瀬千景にとっては涙が出るほど嬉しかった。
泣いてぐしゃぐしゃになった顔で、千景は太刀川に問う。
「ねえ、太刀川さん……。こんなオレでも、あなたはオレのことを、友達だって、言ってくれますか…?こんなに
勇気を振り絞って形にした千景の言葉に、太刀川はあっさりと答える。
「何当たり前のこと言ってんだ。良いに決まってんだろ」
その太刀川の答えを聞いた瞬間、千景の見ている景色が歪むほどの涙が、千景の綺麗な瞳から溢れ出た。
ずっと欲しかった何かが、見つかったような気がした。
そして水瀬千景はこの先の人生で何度でも、太刀川慶と親友になれたこの日のことを思い出す。
本文中で水瀬が自身のことを「歪」だと叫ぶ描写がありますが、あの叫びは千景自身がこれまでの自分の救いようのない人生を経て行き着いてしまったものであり、実在する障害に対してそういう認識を持っている、ということではありませんので、あしからず。