夏のとある一定の時期。
溢れ出た七影蝶を神域にある迷い橘へと導く。
それが空門の一族の御役目とされている。
担うのは空門家の女性。七影蝶自体は見えなくても役目を果たすことはできるらしいが、私には七影蝶が見える。お父さんにもお母さんにも見えるらしい。
幼い頃から、蝶に触れてはいけない、と何度も両親から教わってきた。
お母さんは一時期、触れ過ぎて深い眠りに陥り、長い間目覚めなかったらしい。
その間のお父さんの話も聞いたことがあったが、聞くだけも辛さが分かる。
ただ、聞いていると何故か惚気話に変わっていくのはさすがとしか言い様が無い。
「碧羽。今年から空門の御役目にちょっとずつ慣れて貰うわよ」
迷い橘が咲き始めた頃。
夜になってから、私たち家族は山の入り口に集まっていました。
「うん。頑張るよ!」
今年からは私が御役目の担当。
桃色を基調とした専用の巫女服も私が着ている。
私に合わせて織られた新品のお洋服は、所々がひらひらしていてとても可愛い。
その服と、私とお母さんが髪飾りでつけているトンボ玉には魔よけの効果がある。
神聖な儀式を執り行うのには重要な存在だ。
「最初のうちはみんなで行くから安心してくれ。イナリも居るし」
「ポンッ!」
足元には、お友達のイナリさんが居ました。
お母さんが子供の頃からずっと一緒に居る頭の良いキツネさんで、御役目があるときには道を先導したり、七影蝶を探したりしていただけるようです。
「これからよろしくね。イナリさん」
「ポンポン!」
私の足に擦り寄ってきたところ、頭のもふもふした部分を撫でてあげると、その場でぐるぐると回り喜びの舞いをみせてくれる。
「そして、これを持って山の中を歩くのよ」
手渡されたのは、煌く蝶たちを導くための吊り灯籠。七暁と呼ばれるらしい。
何年も、何代もの空門の巫女たちの手を渡り、今は私が持つことになる。
実際には重くないものの、空門の御役目という重責がある。
これは遊びではないのだ。気を引き締めないと。
「それじゃ、準備もできたことだし、行きましょうか。碧羽をお願いねイナリ」
「ポ~ン!」
イナリさんは人の言葉を理解しているらしい。
「私に任せておきなさい」と胸を張るようにして、先頭を進んでいく。
暗い山道とはいえ、今よりも小さい頃から一人で駆け回った島の中は、自分の庭のようなもの。空門の神域へも何度も遊びに行ったので道も完全に記憶している。
なのに、今日は…今日に限っては少し雰囲気が違う。
それは何故か。答えは単純だった。
「ポン」
山へ入ってわりとすぐのこと。
イナリさんが短く合図をしてくれる。私も同時に気づいた。
暗闇を揺ら揺らと儚くもゆったりと羽ばたく蝶。
それは、当て所無く山中を彷徨うかのように、飛んでいた。
「七影蝶…」
「灯籠を掲げてみて。寄ってくるはずだから」
背後から聞こえるお母さんの声のとおりに暗闇の宙へ七暁を掲げる。
眩い明かりにすっと誘われるようにして、蝶はこちらへと進路を変更した。
やがて、光の下へ辿り着き。灯籠の周囲を旋回して飛び始めた。
「こ、これでいいの?」
思ったよりも簡単で拍子抜けしてしまった。
「それでいいのよ。ね、簡単でしょ? あとはある程度集めて神域まで行くだけよ」
「七影蝶には触れないように注意しつつも、気楽に、な」
もっと厳かなものだと思っていたけれど、後ろの二人はデートをしているみたい。
振り返ってみてみると、がっしりと腕は組まれて指まで一本ずつ絡み合っている。
あの…。一応、貴方たちの大事な娘の初仕事なんですけど。
「ポ~ン」
若干呆れつつも「まあ、しょうがないですね」と言いたそうに尻尾を振っている。
「いつもあんな感じだよね」
「ポン」
分からないけれど、何を言っているかは分かる。
イナリさんとは心が通じ合っているのを感じた。
さらに山の中を進むと、少しだけ開けた場所に出た。
「あっ…」
「ここは…」
「どうしたの?」
後ろから見守ってくれている二人から、動揺の声がする。
何かの思い出の場所なのだろうか。
少し立ち止まり周囲を見渡すが、木々と上には真っ暗な空以外何も無い。
「な、な、なんでもないわよー! ほら、先行きましょう!」
「えー! 絶対、何かエピソードがあるんでしょ! お父さーん?」
「この場所で俺と蒼は初キスをしたんだよ。こんな風に背中に手を回して」
「あああー! 簡単にばらすなー! って、あ、あ、あー!」
「首の後ろにも手を回して、ちょっと下を向いてこんな感じで」
熟練の動作で、あっという間に月光に映えるカップルの図が出来上がった。
「ね、ねえ…し、しないの?」
「娘の目の前だぞ」
「え、私は気にしないよ! どうぞご自由に~!」
「それなら遠慮なく」
わー! キスするときのお父さんのキリっとした顔が格好良い!
一方で恥ずかしくて目を閉じちゃってるお母さん可愛い!
「ん……っ……」
結ばれる唇。
それは二人だけの『夏の思い出』だった。
記憶のワンシーンが何十年か経った今、再現される。
ここに至るまで、どれほどの時間がかかっただろうか。
お父さんは、夏休みに訪れたこの島で、お母さんに出会い、恋をしたという。
そこからもたくさんの困難、壁を乗り越えて二人は結ばれ。そして私が産まれた。
私という存在は、無数の運命の分岐の先にあるのではないか。
もし、お父さんが、お母さんが、少しでも違う運命を選んでいたら。
そんなことを考えてしまう。
唇がゆっくりと離れると、銀の糸が弓形にしなり重力を受けて垂れていく。
「わー…凄いね…」
娘の前でここまで出来る二人は、さすが鳥白島最強の夫婦。
これが噂の『呂の字』というやつらしい。藍ちゃんの話は本当だったんだ。
「こんな感じで初キスしたんだよ」
「とっても素敵な一場面でした!」
お母さんのほうを向くと「さあ、先行くわよー! 早く行くわよ!」と灯籠を代わりに持ち恥ずかしさを隠すようにして、イナリさんと進みだしていた。
「お父さんもお母さんも恥ずかしがり屋さんだね?」
「碧羽もだぞ」
「返す言葉もございません!」
つまり、家族揃って似たり寄ったりなのだ。
私は、自然と差し出された大きな手を取り、お父さんと手を繋いで歩き出す。
さらに進むこと数分。
「迷い橘…咲いてるね」
「今年も綺麗に咲いたわね。あとはあの祠に灯籠を治めて今日は終わりよ」
「うん」
空門の神域の一面に咲き乱れる白い花。
その中央にぽつんと存在する。一本の橘。
ここは現世と幽世の境目。
虚空へと還る七影蝶たちの門。
今日からは私がそれを継ぎ、御役目を果たしていく。
祠の前。隣に立つお母さん。
少し離れて後ろから様子を見守ってくれているお父さんとイナリさん。
「特に巫女の継承の儀とかは無いけど、でもそうね…あたしから言葉をひとつ」
厳粛な雰囲気の中、私はお母さんから空門の巫女の役目を継ぐ。
「碧羽も素敵な恋をしなさい」
「はい! …ってあれ?」
もっと畏まった言葉が出ると思っていたのだけれど。
恋?
「父親としては複雑なところだけど、応援してるよ」
「ポン! ポン!」
向こうからも肯定的な声。
「空門の一族を絶やさないためにも、ね? 大事でしょ」
「よくわかんないや」
恋をすることが一族を絶やさないことに繋がる?
「今はそれでいいのよ。はい、灯籠を持って」
未だに疑問符を浮かべながらも、再び灯籠を持ち、一人で祠へとそれを治める。
すると、七影蝶たちは灯籠の明かりを離れ、御神木の周囲を舞い始めた。
「一礼」
お母さんの声に倣って、御神木に向かい深く礼をする。
「もういいわよ。灯籠を取り出して」
灯籠を祠から再び手にする。
「これでおしまい?」
「うん」
「蝶々さんたちはどうなるの?」
「朝になったら消えているわ。還るべき場所に還った、っていうこと」
「そう…」
ここまで一緒に進んできた蝶々さんたちが居なくなってしまうのは少し寂しい。
でもこれが空門の御役目なんだ。
「よし! 俺たちも帰ろうぜ。帰り道はお背中にどうぞ」
お父さんがこちらに背を向けて腰を下ろす。
「え! いいの?」
「我が家の大事なお姫様ですから、どうぞどうぞ」
頼もしい背中に飛びつき、前に腕を回す。
お母さんが、後ろから落ちないように支えてくれる。
「立ち上がるぞ~」
普段とは違う目線の高さ。安心するお父さんの匂い。
隣にはぴったりと寄り添うお母さんの匂い。
恋についてはよく分からないけれど、今はこれで良いと思う。
「ねえねえイナリさん。家族って良いよね」
「ポン! ポーン!」
当面のパートナーに語りかけると肯定の返事と同時に空を見上げた。
私もそれにつられ見上げる。
夏の夜空には儚くも麗しい星たちが煌いていた。
お父さんとお母さんが見たって言う碧色の流星群、私も見たいな。
聞くところによると、わりと毎年のように観測はできるらしい。
自らの名前の意味を知り、空門の御役目を継いだ。
空。
私は澄み切った空に対して、特別な想いを胸に秘めた。
【虚空還門 -母から子へ- 終わり】