「山吹さん、今日はお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
ライブハウス、スタッフの詰め所。四畳くらいの狭い部屋は、書類やら何やらがうず高く積まれた机と椅子をふたつ置いただけで一杯になっている。そして私、山吹沙綾は椅子に座って父親より少し歳下ぐらいの男と向き合っている。彼はここの店長だ。
「ノルマ達成、バック分はこちらです」
「…はい」
渡された封筒の中には千円札が三枚入っていた。ライブにつきものな"清算"。ノルマは要するにこっちが払う出演料で、自分達の呼んだ観客が払ったチケット代で相殺される。ノルマ以上に呼んだ人数分のチケット代は払い戻される、それがバック分。今回もどうにか自腹を切ることなくライブが出来た。
「対バンの子たち、凄かったでしょ」
「……」
にやりと笑う店長に言われて、今回の対バン相手を思い出す。youthinema…ユーシネマ、と読むらしい。彼女達は私達と同じ21歳のスリーピースバンドだった。
ベーシスト。腰の上まである長い髪を揺らしながら、へその位置に構えたベースを指で爪弾く。その太い音が土台となり、バンドを支えているのがわかった。音作りはりみと似ているけど、技術は(恐らく)比べ物にならないくらい上だ。どっしりとしたルート弾きに、要所で顔を出すメロディアスなフィルインがギターとドラムのふたつを繋ぐように流れていた。
ギタリスト兼ボーカリスト。毛先が丸まったショートボブの髪型に、眠そうな目つきがミステリアスな雰囲気を醸している。右手でフレットを押さえ、左手に持ったピックでギターを掻き鳴らす。所謂レフティだ。風貌だけでなく、その技量も際立っていた。リズミカルで豪快なバッキングを弾いたかと思えば、ガラス細工を扱うように繊細なピッキングでソロを奏でる。男性とも女性ともつかない歌声は、どこまでも響き渡るような力強さと、ふとした拍子に消えてしまいそうな儚げな魅力を兼ね備えていた。
そして、ドラマー。セミロングの髪を後ろで結っているのは私と一緒だけど、実力は段違いだった。一打で会場全体を揺らすようなバスドラム。小気味良いリムショット、流れるようなロールを奏でるスネア。そして驚くべきことに、彼女のドラムセットには、シンバルが二枚にハイハット・バスドラム・スネアの三点とフロアタムだけが置かれていた。それでいて、奏でられる音は私の何倍も多様な姿を持っていた。極端に音数を減らしたシンプルなビートを刻んだかと思えば、叩き方が想像もつかないような複雑なフレーズを繰り出す。しかもその全てが正確で、少しの綻びも見えなかった。
飛び抜けた技術に、類を見ないほどの個性。そしてそれらが摩擦を産むのではなく、より強い輝きを放つものとして調和していた。
「…正直、勝てないと思いました。みんな、あの人達を見に来たんだなって」
「あの子らは凄いよ。中学からやってて、高校卒業してからすぐ東京に出てきたらしいから。場数も踏んでるし、何より覚悟が違う」
「覚悟ですか」
「そう。覚悟。見た感じ普段はそんなにピリピリしてないんだけど、いざ演奏となると別人」
「………」
覚悟。私達とは縁遠いものだ。
「まあ今の時代にバンドで食っていこうなんて考えてる連中だし、ある意味当然なのかもね。なんにせよ、今日はありがとうございました。またお願いします」
そう言って店長が頭を下げる。
「ありがとうございました」
僅かに厚みを増した封筒を握りしめたまま、私は挨拶をして部屋を出た。
二十一歳、同い年。埋めがたい実力差に打ちひしがれながら、機材を両手に持った重い身体を引きずるようにして地下のライブハウスから地上へと繋がる階段を登る。その両側の壁は様々な張り紙で埋め尽くされている。大きさはポスターサイズのものからハガキより少し大きいものまであって、内容はライブの告知や音源のリリースについて。日付は何年も前のものから、未来のものまで幅広い。書かれているバンドの名前は、誰もが知るところまで上り詰めたものがごく少数だけあって、残りはまるで聞いたことのないものだった。
きっと誰もが色んな夢をこの壁に掲げて、その殆どが叶うことなく散っていったのだろう。まるで希望の残骸を見ている気分だった。たぶん、私達も「殆ど」の方だ。
「沙綾ちゃん、お疲れ様」
地上に出て、道路の向こう側。ギグバッグを背負ったりみが労いの言葉をかけてくれた。
「お疲れ。おたえ、仕事だっけ」
「うん、明日早いからって帰っちゃった」
二年制の専門学校に入学したおたえは大学に進学した私達四人より一足先に卒業して、今はバイトと時々入るギターの仕事で生計を立てている。
「香澄は?」
「煙草」
りみの隣、壁にもたれて立つ有咲が不機嫌そうな表情で答える。
「臭いからやめろってのに」
「喉にも悪いらしいし、心配だよね」
りみの言葉に、つんとそっぽをむく有咲。
(昔だったら、『べ、別に心配なんかしてねえ!』って怒ってたんだろうなあ)
懐かしくなって、つい頬が緩む。
「沙綾、めっちゃニヤけてるけどどうした?」
「え、そんなに笑ってた?」
「ん。さっきまでちょっと辛そうだったのに」
「そっか。…私も、行ってくるね。機材見ててもらっていい?」
「うん、行ってらっしゃい」
両手に持った荷物をゆっくりと下ろす。微笑みながら見送るりみと対照的に、有咲は携帯の画面を見たままこっちを見ようともしなかった。変わり始めた空気の匂いに秋の訪れを感じながら、私はその場所に向かう。しばらく歩いた路上、くすんだパーテーションで区切られた一角には煙が立ち込めている。板の間を覗き込むと、香澄と目が合った。
「さーや!」
途端、飼い主を見つけた子犬みたいに表情が明るくなる。薄暗い喫煙所にそぐわない無邪気な笑顔に、さっきまで張り詰めていた気持ちがゆっくりとほぐれていくのを感じた。お疲れ、と声をかけてポケットから小さな箱とライターを取り出す。
「えへへ」
私に倣って、大切な宝物のようにライターを取り出す香澄。シャーペンの芯入れを少し大きくした大きさの、お揃いのライター。ホタルみたいに小さな光がふたつ灯る。ふーっ、と煙を吐き出して香澄が言う。
「すごかったね、対バンの人達」
「うん、凄かった」
「なんか、上手く言えないんだけど…ぶわーっ!て感じ」
「あはは、全然わかんないよ」
犬の耳みたいな髪型はもうしていないけど、香澄は変わらない。大学生になっても、いつの間にか煙草を吸い始めていても、便乗して私も煙草を吸い始めても、香澄はずっと変わらない。そんな香澄と二人で過ごせるこの時間は、私の宝物になっていた。
「ねえ、さーや」
突然、しんみりした声色で香澄が聞いてくる。
「なに?」
「シューカツ、してる?」
「んー、一応してるかな」
大学三年生、秋。自分の程度が見え始めて、現実と向き合う時期。私には家業を継ぐ選択肢があるから、食いっぱぐれる心配はそんなにない。けれどいつまでも家に頼っているのも悪いから、就職するという選択肢も残しておきたい。
「そっか」
そう言うと香澄は俯いて黙り込む。大学三年生にもなれば、バンドで生活していくのは現実的じゃないことなんか誰だってわかる。わかるはずなんだけど、香澄もそうなんだろうか?
「さーや、わたしね」
地面を眺めたまま、香澄はぽつりぽつりと話し始める。
「色んな会社のこと調べて、色んな人から仕事の話聞いて、でも、どれもよくわかんなくて。どうしたらいいんだろ」
「………」
返す言葉が見つからなくて、パーテーションに身体を預けて空を見上げた。黒く塗りたくられた夜空にはいくつかの星が輝いている。もう、あんな風に輝くには遅すぎるのかもしれない。吐き出した煙がゆっくりと立ち上る。喫煙所は楽だ。会話をしなくてもそこにいることが肯定される。私達ふたりの間には沈黙と、夜の闇と、煙だけが漂っていた。
しばらくして香澄が、短くなった煙草を灰皿の隅に置く。
「わたしね、もっとキラキラドキドキしたい」
「え」
久々に聞く言葉に、懐かしさよりも驚きを感じた。
「おっきい体育館とかホールでライブして、お客さんがいーっぱいいて、挨拶するの。みんな今日はありがとー!って」
そこまで言うと、香澄は小さく深呼吸をする。
「一階席〜!」
内緒話をするような声でマイクを突き出す仕草をしながら、満面の笑顔を向けてくる。思わず気圧された私は観客の真似をする。
「い、いえーい」
「二階席〜!」
「いえーい」
「そして、アリーナ!」
「いえーい!」
小芝居を終えて、ささやかなライブが始まる。
「聴いてください、一曲目---」
香澄は、透明なギターを弾きながら囁くように歌う。見えない観客に向かって。その姿はまるで、夜空の星をそのまま持ってきたみたいに眩しかった。
(私も、そこにいられるのかな)
目を閉じて想像する。広い会場…どこかの体育館かホール。照明が落ちて、観客席は地平線が見えない真っ暗な海のよう。ドラムセットで鳴らした音はどこまでも突き抜けていく。みんなの背中を見ながら、イヤーモニターから聴こえる音を頼りに広大な海を進む。そんな光景に思いを馳せる。
「じゃーん!」
曲が終わったらしい。微笑む香澄の頬は、ほんのりと赤みを帯びている。
「…キラキラドキドキなんて、子供っぽいかな」
自嘲しながらも、それを手放したくないという様子で呟く香澄。
「ううん、そんなことない」
「ほんと?」
「ほんと。………もっと、キラキラドキドキしようね、香澄」
「うん!」
にっ、と歯を見せて笑う香澄に私も笑い返す。吹き抜けた夜風が思ったより冷たくて、鼻の奥がむずむずした。
「っくし!」
ふたり仲良く、くしゃみをする。なんだかおかしくて、えへへと笑いあう。
私は煙草の火を消して、吸い殻を灰皿に放り込みながら言った。
「行こっか」
「うん」
答える香澄の表情は、煙で淀んだ空気とは裏腹に透き通っている。香澄が、みんながいれば、きっとどこだって行ける。だからあともう少しだけ、輝きを追いかけたい。そう思った。