年が明けて、一月も半分以上が過ぎた頃。お正月ムードのなくなった駅前で、手袋をした両手を擦って暖める。足元から身体の芯まで冷え込むような空気。来てからしばらく経ったけど、約束の時間にはまだ早い。さっき届いた『あと五分くらい』のメッセージ。会ったら何を話そうか考えていたら、見覚えのある姿が改札の向こうに見えた。頬が緩むのを感じながら手を振ると、両耳のイヤホンを外して少し早足で歩いてくる。
「遅いよ有咲ー!」
「いやまだ十分前だろ。どんだけ早いんだよ」
「楽しみだったんだもん!有咲だって早いじゃん、楽しみにしてた?」
「うるせー」
あしらうように言って唇を尖らせる有咲。
「で、今日は結局どこ行くんだよ」
「まだ秘密」
「はー…なんかヒントくれ、ヒント」
「星のすみか、かな」
「星のすみか?…あー、わかった気がする」
「え、ほんと?」
「まあ、着くまでの楽しみにしとく」
有咲はそう言うと、マフラーを巻いた首をすくめて微笑む。それを見ただけで、今日がすっごく良い日になるって、わかっちゃった。
星のすみか。遠く遠く、遥か彼方の星たちと会える場所。
駅からしばらく歩いて着いたのは、図書館くらいの大きな建物の前。
「とうちゃーく!」
「プラネタリウムだよな、やっぱり」
「え、わかった?」
「ああ。なんかいいな、その呼び方」
「えへへ…ここの六階なんだ、早く行こっ!」
ロビーを抜けて、エレベーターで六階へ。望遠鏡や星座の絵が展示された博物館みたいなフロアには、殆ど人がいなかった。
「平日の昼間だから空いてるな」
「大学生の特権だよねえ」
厚い扉を開けた先は、大学の中教室くらいの広さをした半球状の部屋だった。天井に広がる薄い青色の空。真ん中にある天球儀型のプロジェクターを囲うように並んだ座席に、ぽつりぽつりと何人かが座っている。
「確かにこれは、星のすみかだな」
「でしょ?」
納得したように呟いて腰を下ろした有咲の隣に座って上映を待つ。次の回は十三時からだから、あと数分。
「わ、この座席倒せるよ!」
「静かにしろって。子供かよ」
言いながら有咲も座席を倒して、並んで寝転ぶ格好になった。そうこうしているうちに入り口の扉が閉じて、辺り一面に夜が満ちる。
『携帯電話の電源をお切りください』というアナウンスの後に、上映プログラムの説明が始まる。世界各国の星空を巡る旅、がテーマらしい。初めに映し出されたのは見慣れた風景、東京の空。街の灯りが煌々と輝いて、星の光をかき消している。
「やっぱり都会だと見えないんだな」
「でも、一等星は見えるんだよ。シリウスとか、ベテルギウスとか」
「そうなのか?…ほんとだ、同じこと言ってる」
感心した様子で天井を見上げる有咲の瞳に星の輝きが映り込んで、わたしの胸をぐっと暖める。
一等星、わたしの一番好きな星。街の灯が眩しくても、それより強く輝けばきっと誰かに届くってことを教えてくれている。
『他に強い光の無い場所…例えばモンゴルの草原では、どんな星空が見られるのでしょうか』
アナウンスが流れて、映し出された空がゆっくりと黒く塗りつぶされた後にじわじわと明るくなっていく。真っ黒な夜空とキラキラ瞬く星たちが視界いっぱいに広がって、星の海の中にいるみたいだった。あの時に聴いた音…星の鼓動が、確かに聴こえる。
「うわ、すげえ…!」
声色から、有咲の興奮が伝わってくる。
「これだけ星が多いと、逆にどれを見るか迷っちゃう」
「贅沢な悩みだな、わかるけど」
「有咲、見て。あそこ、かに座」
わたしが天井の一角を指差すと、有咲は眉間に皺を寄せて目を細める。
「んー…?あれか。蟹には見えないよな、全然。なんでかに座…って、誕生日だから?」
「頑張って覚えたんだ。有咲は何座?」
「てんびん座」
「なら夏だね!夏にまた来ようよ」
「今から夏の話すんのか」
苦笑いする有咲。夏じゃなくても、春でも秋でも有咲と来たいな。そう言おうとした瞬間に、有咲がこっちを向いて視線がぶつかった。
「赤道直下なら、全部の星座が見られるんだって!」
かろうじてひそひそ話、というくらいに大きくなった有咲の声。気付けば風景が切り替わっていた。赤道直下、インドネシア。さっきと違う星空、さっきと違う星座たち。
「てんびん座、見つけられるかな」
「絶対、見つけようね」
有咲と一緒に、きょろきょろと夜空を見渡す。
「くっそー、全然わかんねえ…てんびん座って見つけるの難しい?」
「うん…明るくない星で出来てるから、周りの他の星座を目印にした方がいいかも」
そんなやりとりをしているうちに、少しずつ空が明るくなる。行かないで、と心の中で呼び止めても作り物の夜は待ってくれなかった。風景が切り替わる中、アナウンスが流れる。
『地球上には、一日中夜空を見られる場所があります。太陽が昇らず、夜の終わらない場所が---』
「極夜か」
アナウンスを聞いた有咲が言う。
「きょくや?」
「ああ、確か北極だと地軸の関係で太陽が見えない時期があるって」
有咲の言う通り、次の目的地は北極だった。真っ白な雪原が星明かりに照らされて淡く光っている。きっと、ここより何倍も寒い世界。見ているだけで身震いしそう。
「ずっと夜ってことは、ずっと星が見られるんだよね」
「でも太陽が出ないってことはずっと真っ暗だぞ、しかも半年」
「半年?!」
ちょっと大きい声が出て、係の人が白い目でこっちを見る。ふたりで一緒に『すみません』と手で合図する。
「半年真っ暗なのはちょっと嫌かも」
「逆に半年ずっと太陽が出てることもあるぞ、そっちは白夜」
「へー…」
声を抑えて話していると、風景が切り替わる。さっきまでの暗闇が晴れて、視界が白で埋め尽くされた。陽の沈まない夜、白夜。タイムラプスの中で動く太陽は、地平線の向こう側に沈むことなく輝き続ける。
少し明るくなった室内で、有咲の表情を見やる。
(来て良かった)
ぱっちりした両目、微かに赤らむ頬。好奇心に満ちた表情が、心から楽しんでいることを教えてくれる。わたしは、身体の内側が暖かくなるのを感じながらゆっくりと目を閉じた。
「楽しかったね、有咲!」
「お前途中から寝てたじゃねーか!」
上映が終わって、建物の外。肌を刺すように冷たい空気の中を、有咲と並んで歩く。
「あのあと凄かったんだからな、地球から出て銀河系の外まで行って…」
白い息を吐きながら早口気味に語る有咲。高校の頃は、こういう風に話すことは殆どなかった気がする。
「有咲、ありがと」
「ん?」
「有咲と一緒に来られて良かった」
「…そうだな。楽しかった」
にっ、と有咲が笑う。ふわふわのマフラー、赤くなった鼻の頭。キラキラの笑顔が眩しくて、暖かくて。
「今日だけじゃなくて、初めて会って、をくれて、一緒にいてくれて、本当に…良かった」
「お、おう。どうした急に」
たじろぐ有咲。だけど、言葉も気持ちも止められない。心臓がズキズキと痛む。
「有咲、これからもずっと一緒に、バンドやろうね」
有咲の両手を取って、ぎゅっと握り締める。手袋の感触がなんだかもどかしい。
「香澄…」
有咲は目をぱちぱちさせる。…変に思われちゃったかな?
「お前、なんで泣いてんだ?」
「え?」
言われて初めて、視界が滲んでいることに気付いた。
思い出していたのは、昨日のこと。
「改めまして、みなさんこんにちは!Poppin' Partyです!」
レコーディングが終わってしばらくして、新年初めてのライブ。
殆どがお客さんで埋まったフロアに向かって呼びかけると、前より大きな拍手が返ってくる。寒くなってきたけど、照明の熱とライブの高揚感で身体はぽかぽかと暖かい。
「今やった曲なんですが、この前レコーディングをしました!大変だったんですけど、すっごく楽しくて…すっごく素敵なものが出来たので、物販で手に取ってくれると嬉しいです!」
そこまで言うと、また拍手が湧いた。
(あの時よりもっと、キラキラドキドキしてる!)
嬉しい、楽しい。身体の内側から湧き上がる気持ちが抑えきれない。振り向いて、さーやにアイコンタクト。スティックが四回鳴って、曲が始まる。
おたえのギターは飛び跳ねてるみたいに元気いっぱいで、気を抜くと振り落とされそう。負けないようにわたしもギターを力いっぱい鳴らす!りみりんのベースは全身を揺らすくらいパワフルで、進む方向を教えてくれる。りみりんのお陰で、真っ直ぐ歩いていける!わたしの真後ろにいるさーやのドラムが、背中を押してくれる。顔を見なくても、言葉を交わさなくても、さーやの気持ちが伝わってくる!
そして、並んで寄り添ってくれる有咲のキーボード。歌を、音を綺麗に彩ってくれる優しい音!…だけど、今日はなんだかヘンな感じがした。元気がないっていうか、大人しい?心の隅に何かが引っかかる感じ。
終演後の楽屋で、キーボードをしまう有咲の後ろ姿に声をかける。
「有咲、今日具合悪い?」
「え?そんなことないけど…」
振り向いた有咲の顔色はいつも通りで、無理してるわけでもなさそう。
「そうなんだ。なんか調子悪かったように見えたよ?」
「なんだそれ。全然元気だよ」
首を傾げる有咲。気のせいだったのかな?
片付けを一通り終えて携帯を見ると、出口さんからメッセージが一件入っていた。
『ライブ、お疲れ様でした。お話がありますので、よければ今から近くの喫茶店まで来ていただけないでしょうか』
(今日、来てたんだ)
連絡も挨拶もなかったから知らなかった。話ってなんだろう?
「どした、香澄」
「出口さんから連絡来てて…ちょっと行ってくるね。物販、お願いしていい?」
「りょーかい」
ゆるゆると手を振る有咲を見て、早足で楽屋を出た。
ライブハウスから徒歩数分、ちょっと高めの喫茶店。入口から中を見渡すと、窓際の席に出口さんが座っていた。こっちに気付いて、真っ直ぐ挙げた右手を振っている。
わたしは席に座って、テーブルを挟んで出口さんと向かい合う。前に会った時と同じ、ベリーショートの髪に無精髭とべっこう柄の眼鏡。
「お疲れ様です。急にお呼びしてすみません」
「い、いえ、大丈夫です」
頭を下げる出口さんに声をかけたところで、店員さんが注文を取りに来た。
「ブレンドで」
「わ、わたしもそれで!」
かしこまりました、と挨拶して店員さんが去った後、出口さんが口を開く。
「ライブ、お疲れ様でした。演奏もパフォーマンスも、以前より良くなったと思います」
「あ、ありがとうございます!レコーディングに向けて、いっぱい練習したのが良かったんだと思います」
「あはは、それはよくありますね。ごまかしが利かない分、みんな必死にやってくるんですよ」
「お客さんも前より増えてて、アルバムのお陰かなって思ってます」
「だと嬉しいですね。うちの若手の曲も収録されてますし」
柔らかく微笑む出口さんを見て、少しだけ緊張がほぐれた気がする。ちょうど会話がひと段落したタイミングで、湯気をたてるコーヒーがふたつ運ばれてきた。出口さんはブラックで、わたしは砂糖とミルクを多めに入れた一杯を啜る。
それから小さく深呼吸して、気になっていたことを質問した。
「…それで、話ってなんですか?」
「コンピレーションアルバムの販売開始から一か月。売れゆきが好調で、レコード店にも置いてもらうことにしました。まずは都内、そこでも好調なら関東。ゆくゆくは全国に展開します」
「本当ですか!?」
思わず大きな声が出てしまう。どくん、と胸が高鳴る。周りの人がこっちを見ているのに気付いて顔が火照っていくのを感じた。そのまま、流れるような調子で出口さんは続ける。
「またこれをきっかけに、ポピパさんには正式にうちのレーベルに入って欲しい。音源の流通もバンドのプロモーションも、ノウハウと実行力がある。練習環境もライブ会場も相応のものを用意する。君達がもっと輝く為の手助けをしよう」
軽く前のめりになりながら真っ直ぐにわたしを見る出口さんの両目から、熱意がひしひしと伝わってくる。だけど声色は明るくないし、表情も笑ってない。良い話のはずなのに、なんで?
「ただし、条件がある」
暗く重たい声色に、わたしは唾を飲み込む。
「…市ヶ谷さんには、抜けてもらうこと」
「え」
その言葉を聞いた瞬間、うっすらと聞こえていたざわめきが全部消え去った。
「なんで、そんな……」
小さく声が漏れる。膝の上に置いた手が震えて、心臓がズキズキと痛みだす。出口さんは椅子に深く座り直してから言う。
「率直に言おう。市ヶ谷さんは君達についていけない…というか、もうついていけてないよ。レコーディングとかライブで、気づかなかった?」
あの日、苦しんでいた有咲。鍵盤の上を溺れてしまったように動き回る両手と、疲れ切った表情。
今日のライブ。なんだかヘンな感じがした有咲の音。
『なんだそれ。全然元気だよ』
(調子が悪いとかじゃなくて、有咲が、わたしたちに…)
ついてこれなくなった?いつから?どうして?頭の中がぐちゃぐちゃに混乱する。テーブルに視線を落としたけど、答えが書いてあるわけなんかなかった。他のお客さんもいるはずなのに、痛いほどの沈黙が耳に響く。
わたしは両手をぎゅっと握り締めて、顔を上げる。
「でも、有咲だって」
「頑張ってる。一緒にいると楽しい。それだけじゃダメなんだ。バンドで飯を食うって、そういうことだよ」
どうにか絞り出したわたしの言葉が、先回りされて宙に消える。
「サポートメンバーはうちで用意する。実力は折り紙つきだ」
黙り込むわたしに、出口さんが諭すような口調で言う。
「…気持ちの問題だよ。この話は無かったことにして、そのままバンドを続けるのも良いと思う。だけど僕個人としては君達が欲しいし、その為に決断して欲しい。バンドメンバーじゃなくなっても、友達として仲良くやってる。そういう人達だってたくさんいるよ」
「決断…」
レーベルに入れば、きっと今までより良い環境でバンドができる。良いスタジオでいっぱい練習して、良い機材でレコーディングして。youthinemaの人達の近くにいれば、得られるものもたくさんあるはず。でも、そのためには有咲と…。出口さんの言う通り、バンドメンバーじゃなくても友達って関係もあるんだろうけど、有咲のいないポピパなんて…。
「…答えが出たら連絡してください。いつまでも、待ちます」
丁寧に頭を下げた後、出口さんは伝票を取って去っていった。
「で、話ってなんだったんだ」
ライブハウスに戻って、フロアの端にある物販スペース。横長の机に頬杖をついた有咲が聞いてくる。
「えっと…」
言葉に詰まるわたしを見て、有咲が怪訝な顔をする。
「香澄、どうかしたの?」
有咲の隣に座るさーやの心配そうな表情。何か、何か言わなきゃ…。
「……アルバム、すっごい売れてるんだって!このまま全国展開もあるかもって」
わたしが言うと、有咲と沙綾の表情がぱあっと明るくなった。
「うお、マジか」
「全国制覇、しちゃいたいね」
笑いあうふたりが、どこか遠くに感じる。
…有咲とたくさん話がしたい。確かめるために、答えを出すために。
「ね、有咲」
「ん?」
「明日って暇?」
「暇だけど」
「有咲と一緒に、行きたいところがあるの」
星の鼓動を聴けば何かわかる気がしていた。わたしの始まりの場所、星のすみかで。
昨日寝る前も、部屋のベッドでずっと考えていた。有咲のこと、レーベルのこと、youthinemaのこと。一晩中考えてもやっぱり答えは出なくて、寝不足のまま家を出た。
だけど今日、ふたりで一緒に星の鼓動を聴いてわかった。有咲の代わりなんて、どこにもいないってこと。
手の甲で涙を拭うと、ハテナマークを浮かべていそうな有咲の姿が見える。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。大丈夫だよ」
「ならいいけど…」
言葉とは裏腹に、頼りなく震えるわたしの声を聞いた有咲の表情はどこか納得がいっていないみたい。
「ね、有咲」
「ん?」
白い息を何度か吐いて、呼吸を整える。わたしの答えを、有咲に伝える。
「大学出ても、おばあちゃんになっても…一緒にバンドやろうね」
「…ああ」
一月の街。曇り空の向こうで、夜が来るのを待っている星たちを想う。
わたしのキラキラドキドキは、みんなと、有咲と一緒に探すもの。今までもこれからも、ずっと変わらない。そう思った。