夜八時過ぎ、スタジオ練習の後。道沿いにある野外喫煙所。筒状の灰皿とちょっとしたスペースがあるだけの簡素なものだ。
(うう、やっぱりこの季節は寒いなあ)
なら煙草を止めればいいんだけど、そうもいかないのが喫煙者の悲しい性。香澄のマネでなんとなく吸い始めた頃は二人の時しか吸わなかったけど、いつの間にか一人でも吸うようになっていた。
かじかむ手を温めて、咥えた煙草に火をつける。ゆっくり息を吸って吐くと、ドラムを叩いた疲れが溶け出していく心地良い感触に包まれた。
(今日も頑張ったなー…)
曇り空を見上げて、雲の向こうにある星を思い浮かべる。いつだったか喫煙所で、香澄と一緒に見上げた夜空の星。あんな風に輝くには遅すぎるかもしれないとあの時は思った。だけどこの前参加したコンピレーションアルバムの売れ行きは好調で、ライブの動員も目に見えて伸びてきた。バンドのまとまりも以前より強くなって、楽しくて仕方ない。
(キラキラドキドキ、してるなあ)
灰皿の端に煙草を置いてひと息つくと、灰皿を挟んで斜め向かいに真っ直ぐ立っている女性と目が合った。すらりとした長身に長い髪。カラスを思わせるモノトーンの装いと、ネコみたいにきらりと光る両目。タイトなシルエットに細い煙草がよく似合っていて、まるで映画かCMのワンシーンのようだった。
(あれ、あの人って)
思い出そうと記憶を辿ったところで、向こうから声を掛けられる。
「ポピパのドラムの人だよね。山吹さん…だっけ?」
「あ、はい。山吹沙綾です」
「あたし、youthinemaのベース弾いてる首藤千佳なんだけど、覚えてる?」
「ああ、あのバンドの……ライブ、凄かったです」
「敬語使わなくていいよー、タメなんだし」
そう言って首藤さんは切れ長の目を更に細めてにっこり笑う。演奏中の鋭い表情とは違う、人懐っこい笑顔。
「ポピパちゃん達の曲聴いたよー。明るいんだけど切ないっていうか、めっちゃ感動した!」
「ありがと。…youthinemaの曲も凄く良かった。技術も世界観も私たちより凄くて、敵わないなって思ったんだ」
「あはは、照れるなー。だけどさ、あたしらだってポピパちゃんのこと凄いと思ってるよ」
「え、そうなの?」
「うん。特にひかり…うちのギタボなんかさ、ポピパちゃんたちのことすっごい意識してて。アルバムのレコーディングに呼ぼうって言ったの、あの子なんだよね」
ギターボーカルの子のことはよく覚えていた。レフティで、堅実なバッキングから派手なソロまで弾きこなして、消えてしまいそうな儚げな声とどこまでも通るような力強い声を併せ持つ、かなりの実力派。その実力とは裏腹に外見は大人しそうで、MCでも一言くらいしか喋らなかった。
「そうなんだ、なんか意外」
「あたしらもビックリしたよー。普段は全然喋んないし、何か決める時もふたりに任せてばっかだったのにさ。『気になるから』って代表…出口さんに直談判して呼んでもらったんだ」
「へー、そこまで…」
同い年なのに、編成も技術も覚悟も違っていて、敵わないと思っていた。そんな相手に認められていた事実が、嬉しくて誇らしい。
「あ、そうだ山吹さん。これからちょっと時間ある?」
「おかえり、って…」
首藤さんを連れてスタジオのロビーに戻ると、丸テーブルについた有咲が怪訝な顔で視線を投げかけてくる。隣のおたえは目をぱちぱちさせて、首を傾げる。
「誰?」
「直球かよ」
「あはは、覚えられてなかったかー。youthinemaの首藤千佳です。前に対バンさせてもらった、スリーピースでギタボがレフティのバンドでベース弾いてまーす」
首藤さんは慣れた様子で簡単な自己紹介をすると、そのまま椅子を引いて席に着いた。
「あれ、戸山さんと牛込さんは?」
辺りを見回してふたりがいないことに気付いた首藤さんの質問に、おたえが答える。
「新曲のアイディア出ししたいって、先に帰っちゃった」
「なるほどー。戸山さんが作詞で、牛込さんが作曲だっけ」
「うん。曲はわたしが書く時もあるけど」
「そうなんだ。結構かっちり作ってくる感じ?それともセッションで作っていく感じ?」
「最近は半々かな。りみが打ち込みで他のパートまで作ってくることもあるよ」
「へー、それいいね!あたしも勉強しよっかなー」
まるで前から知り合いだったみたいにスムーズなやりとりをする首藤さんとおたえ。有咲が眉を片方上げて質問する。
「で、何の用事?お喋りしに来たってわけでもないだろ」
「おっと、忘れてた。今日はね、ポピパちゃんに耳寄りな情報があって来たんだよ」
そう言って首藤さんはポケットから取り出した携帯をすいすい操作して、画面をかざす。私たち三人は軽く身を乗り出してそれを見る。
「……ライブ?来週末か」
「そそ。友達が主催してる対バンなんだけど、一組キャンセルが出ちゃって」
「それで代役を頼みに来たってわけか」
「うん。急だけど、どう?」
「ま、いいんじゃね?」
有咲が言って、私とおたえを一瞥する。
「いいと思う」
「私も。香澄とりみりんに確認して決まりかな」
「りょうかーい。じゃ、決まったら連絡してね」
私と連絡先を交換して、首藤さんは去っていく。その細長いシルエットが見えなくなった頃に有咲が呟く。
「しっかし、U-WESTって結構大きいところだよな」
「いつも通りやれば大丈夫だよ」
「蘭ちゃんみたいなこと言うな、お前」
事もなげに言うおたえに有咲が突っ込む。私は、首藤さんの携帯に記されていた会場の名前を思い出していた。渋谷U-WEST。キャパシティは千人ちょっと。それだけ会場が大きいと、たぶん色々と勝手が違うだろう。だけどそのことに委縮するより、武者震いをしてしまうような気持ちがむくむくと湧き上がってくる。香澄の言葉が脳裏をよぎった。
『わたしね、もっとキラキラドキドキしたい』
いつもより大きな会場は、もっと大きな会場へ進むための一歩になる。そう思って、拳を握り締めた。
「youthinemaと対バン?」
蔵練のあと、さーやに言われたことを聞き返す。
「この前スタジオのあと、ベースの首藤さんと会って誘われたんだ。来週の日曜。おたえと有咲は確認してるけど、香澄とりみは大丈夫?」
「…うん、大丈夫だよ」
りみりんが携帯を確認して言う。わたしもそれに倣って、携帯を見る。知っていたけど特に予定はなかった。
「わたしも大丈夫」
「じゃ、決まりだな」
「曲、何やろっか」
そのまま、ライブの段取りについて話し合いが始まる。
「前と同じセトリでいいんじゃね?」
有咲が現実的な提案をして、さーやも頷く…と思ったけど、首を横に振る。
「せっかく大きい会場なんだし、こう…勝負かけたいっていうか。攻めたい、かな。私は」
熱の籠った声で言うさーやの瞳の奥が、燃え立っているみたいだった。
「ソロ回しとかやろうよ」
「今からフレーズ考えるの、大変そう…」
目を輝かせたおたえの提案に、りみりんが困った顔をする。
「攻めるのは良いけど時間がないだろ。失敗するよりは、出来ることをしっかりやった方がよくないか」
「大きい会場なんだから、大きいことやんないと」
正反対なふたつの意見がぶつかり合って、議論が白熱していく様子をぼんやり眺めていると、さーやの心配そうな声がした。
「香澄、どうかした?」
「ううん、なんでもない」
レーベル加入の代わりに、有咲を抜けさせる話を持ち掛けられたことは、誰にも言っていない。そしてわたしはあれから、出口さんに何の連絡もしていない。
『いつまでも、待ちます』
その言葉にもたれかかって、答えを先送りにしている。出口さんからは何の連絡もないし、みんながこの話を知っている様子もない。
「香澄はどう思う?」
「ちょうど二対二で、あたしたちじゃ決められないんだよ。香澄が決めてくれ」
「あ、えっと……」
言葉に詰まるわたしを待つみんな。長引いて進まない議論の終着点を探しているみたいだった。いつもより大きい会場。いつものライブをするか、それとも新しいことに挑戦するか。さーやの言う通り、勝負してみたい。新しいことをやりたい。そう言おうとした瞬間に出口さんの言葉を思い出す。
『率直に言おう。市ヶ谷さんは……』
ぐ、と唇を噛む。わたしのキラキラドキドキは有咲と一緒に探すものだから。
「…わたしも、有咲と同じ意見かな」
有咲とりみりんが、ほっと胸を撫で下ろす。おたえはちょっと唇を尖らせる。
「うん、香澄が言うなら決まりだね。やれること、しっかりやろう!」
さーやはみんなを鼓舞するみたいに言って、小さく手を叩く。だけど一瞬だけ…本当に一瞬だけ、残念そうな表情をしていた。
豆電球を点けた寝室よりちょっと明るい程度の、蔵より広い十四畳の部屋。わたしたち全員がしっかり映る大きな鏡と向き合いながら演奏する。ステージ上の暗さに慣れるのと、お客さんからの見え方を確認する為に、ライブ前は外のスタジオを借りて練習することにしている。
真っ赤なギターを掻き鳴らしながら歌う、鏡の中のわたし。少し横にずれると、元気な笑みを浮かべて楽しそうにドラムを叩くさーやが見える。向かって右側には、ベースを弾きながらコーラスを入れるりみりんの凛々しい顔。左端にいるおたえはギターを掲げたり鏡の向こうを指差したり、演奏だけじゃなくてパフォーマンスの確認にも余念がなかった。
そしてその隣、キーボードを弾く有咲の姿。いつものすました表情に、何滴か笑顔を混ぜたような顔。ときどき頬が緩んで、優しく微笑んでいる。そんな有咲と鏡越しに目が合った。ほんの数秒、お互いにきょとんとしたあと、なんだかおかしくなって笑いあう。ステージで演奏している時はなかなか目を合わせられないから、練習中のこの瞬間がたまらなく楽しくて、愛おしい。
「で、ここでMCだよね」
「ちょっと休みたいから、長めに欲しいな」
「うーん、何話そうかな?」
ライブを想定して、本番通りの曲順で演奏する練習の途中。何曲演奏して、MCをどこにどのくらい入れるかみんなで相談する。
「招待してくれてありがとうとか、youthinemaの話とかすればいいんじゃねえの」
「アルバムの話も」
「メンバー紹介は?」
「わわ、メモするからちょっと待って」
みんなから出た案を箇条書きで携帯にまとめていく。一字一句決めるわけじゃなくてだいたい何を話すか程度だけど、やっておくと落ち着いて話せる。
「いいか、絶対おたえに喋らせるなよ?この前なんか酷かったしな」
有咲が眉間に皺を寄せて画面を覗き込んでくる。
「わたしは楽しかったよ?みんな静かに聞いてくれたし」
「お前の感想は聞いてねえし、あれは困惑してたんだよ」
「?」
小首を傾げて目をぱちぱちさせるおたえ。おたえの話は確かに面白いというか…個性的というか…なんかすごい空気になっちゃうから、気をつけないといけない。
「…よし、そろそろ続きやろっ!」
偶然でもなんでも、大きな会場でライブが出来ることはすごく楽しみ。いつも通り準備して、いつも通りのライブを…。
『やれること、しっかりやろう!』
そう言ったさーやは残念そうな表情をしていたけど、きっとこの判断は間違ってない。鏡に映ったわたしとみんなの表情が楽しそうで、キラキラしてるから。
ライブ当日。ちょっとしたホールぐらいの広さがあるフロアで、出演するバンドのメンバーが輪になって集まっている。リハーサルの後、出演者の顔合わせ…要は自己紹介。二組めの自己紹介が終わって、youthinemaの番が来た。わたしたちの真正面辺りに並んで立っている三人。その真ん中にいる背の高い女の子が、白い歯を見せてにっと笑う。
「どもー。youthinemaの首藤千佳です、ベース弾いてます。今日はアクシデントとはいえ、ポピパちゃんたちとまたライブやれてすっごく嬉しい!」
首藤さんは弾んだ声で言って、促すように隣をちらりと見る。
「中村ハジメです。今日はよろしくお願いします」
右隣に立っている少し背の低い女の子がぺこりと頭を下げる。さーやみたいに頭の後ろで束ねたポニーテールが小さく揺れた。
「………………高橋ひかり。よろしく」
その反対側に立つもっと小さい女の子が、どうにか聞き取れるくらいの音量でぼそりと呟く。ウェーブがかった前髪の向こうに表情が隠れていて、視線がどこにあるかもよくわからない。ギターも歌もすっごく上手くてステージ上だとかなり目立つのに、今は幽霊みたいに存在感がない。
「ああいうの、ミステリアスっていうのかな」
隣の有咲に耳打ちする。
「だな」
「いいなあ…わたしも真似しようかな」
「いや、無理じゃね?」
そんなやりとりをしていると、スタッフさんの声がした。
「じゃあ、次はPoppin' Partyさん」
目を見開く。自己紹介は出演順だから、youthinemaの次に出番が来るってことだった。
「はい!戸山香澄です。今日はよろしくお願いします!」
顔合わせが終わって、オープンの時間をちょっと過ぎた頃。広い楽屋の隅っこに集まって座るわたしたち。
「お客さん、結構入ってる…」
客席の様子を見に行ったりみりんの声はちょっと不安そう。おたえはいつの間にか取り出したギターで本番前の最終確認…と思いきや、聴いたことのない曲を弾いている。
「よし、一曲書けそう」
「おたえ、凄いね」
ちょっとだけ呆れた様子でさーやが言う。だけど表情には楽しさが滲み出ていて、ウォーミングアップで練習台を叩く音が軽快に弾む。早く演奏したくて仕方ない、そんな気持ちが音から伝わってくる。
「あれ、有咲ちゃんは?」
「そういえば、どこ行ったんだろ」
辺りを見渡したところでちょうど、沈んだ表情の有咲が戻ってきた。
「……改めて見るとやっぱり広いな、ここ」
顔色がほのかに青白くて、声は注意しないと聞こえないくらい小さい。
有咲と一緒にいるために、有咲を助けるためにわたしができること…。きっと、あのレコーディングの日と同じ。気持ちを伝えること。
力なく垂れ下がっていた有咲の手を取って、両手で思いっきり握り締める。
「いてて、いってーな!何すんだいきなり!」
「えへへ、緊張ほぐれるかなーって」
「はー、お前なあ」
有咲にいつもの笑顔が戻ってきた。苦笑いだけど、いつもの有咲の表情。
「香澄ちゃん、わたしも」
「じゃあ、わたしも」
「それなら私も」
「ついでにあたしも」
おずおずと手を差し出したりみりんに、ギターを置いたおたえとスティックを置いたさーやが乗っかって、最後に有咲が手を重ねた。五人分の手が重なって、まるで円陣を組む時みたいだった。
「円陣みたいだね」
同じことを思っていたさーやがくすりと笑う。
「じゃあちょっと早いけど、円陣ってことにしよう!…今日もキラキラドキドキしようね、みんな!」
「おーっ!……って、あれ?」
小さく控えめにかけた掛け声に、聴き慣れない声が混じっていた。
「いやー、ポピパちゃんのこういうとこいいねえ。うちもやりたいなー」
円の外から聴こえた声の方向に目を向けると、すらりと細長いシルエットの女の子がひとり。服装は黒を基調とした落ち着いた色で、細い目と落ち着いた声によく似合っていた。
「首藤さん?」
「千佳でいいよー」
「じゃあ、千佳ちゃん!」
「順応早えな」
「キラキラドキドキかー。よくわかんないけど、ポピパちゃんたちはそれを探してバンドやってるの?」
「うん!わたし、小さい頃に星の鼓動を聞いて…」
「その話、長くなるしやめとけって」
「え、気になる!聞かせて聞かせてっ」
目を輝かせた首藤さんが、椅子を引っ張ってきて座る。見た目は蘭ちゃんとか友希那先輩みたいにクールな美人さんだけど、さっきの笑顔も今の様子も子供みたいで可愛い。
「たぶん何言ってるかわかんないと思いますけど、我慢して聞いてやってください」
「市ヶ谷さん、お母さんみたい」
「はは…」
「ふむふむ、それでランダムスター使ってるんだ。いいねー、運命だねー」
話が終わって、千佳ちゃんは腕を組んで頷く。
「千佳ちゃんたちは、なんでバンドやってるの?」
ふと気になったことを聞く。千佳ちゃんたちyouthinemaは、どこを取ってもわたしたちとは違うバンドだ。編成はギターボーカル・ベース・ドラムのスリーピースだし、曲も重たくて激しいのが多い。そして何より、ライブの迫力。上手く言い表せないけど、明るく楽しく!って雰囲気じゃない。年齢以外は何もかもが違っていた。
「なんで、かあ。考えたことなかったなー。あたしら三人は幼馴染なんだけどさ、何かでたまたまバンドの映像見てこれやろう!ってなったんだっけ」
「適当だな」
「あ、でも続けてる理由ならはっきりしてるよ。ハジメもひかりも口には出さないけど、たぶん同じこと思ってる」
「どんな理由?」
「負けたくないから、かな。他のバンドにも、メンバーにも、昨日の自分にも」
「負けたくないから…」
今まで、そういう理由でバンドをやっている人に会ったことがない気がする。ストイックさはRoseliaと似ているのかもしれないけど、『負けたくない』とはちょっと違うと思う。
「もちろん、ポピパちゃんにも負けないよ。あたしらの方が凄いって思わせてやるから」
千佳ちゃんは、細い目をもっと細めて不敵に笑う。さっきまでのフレンドリーな態度とは似てもつかない、正面切っての宣戦布告だった。そんな千佳ちゃんの背後から、ポニーテールの女の子がひょっこり現れて、ぱっちりした目が何度か瞬きする。さっき自己紹介してた、中村ハジメちゃん。
「千佳、SE渡した?」
「わ、まだだった!今行ってくるー。じゃね、ポピパちゃん。今日はよろしくー」
ふたりが連れ立って去っていくのを見送って、有咲がいまいましげに呟いた。
「”あたしらの方が凄い”、か。わかってるっつーの」
「そういえば、関係者席からライブ見るのって初めてじゃない?」
フロアにせり出したバルコニーで、思い出したようにさーやが言う。
「上から見てると、なんかライブ映像みたいだね」
柵に手を置いてステージを眺めると、りみりんの言う通り映像で見るような光景が広がっていた。フロアを埋め尽くすお客さん達はリズムに乗って揺れてひしめき合って、ときどき拳を突き上げる。だけど、映像と確かに違うものがあった。
二階まで届くような熱気。聞こえてくる歓声は、映像より何倍も大きい。その熱と歓声の向く先に、千佳ちゃんたちがいる。たった三人だけで、こんなに多くの人達を熱く震えさせている。ステージを真っ白に照らす照明が眩しくて、鳴り響くリズムがわたしの心臓の音と重なった。
星の鼓動を聴いた時とは全く違う音と光景。なのにわたしの心は、あの時みたいに…。
『はい!ってわけで、五曲続けて聴いてもらったんだけどー…改めて、来てくれてありがとね、みんな!』
千佳ちゃんのよく通る声が聞こえて我に返る。五曲も演奏していたのに気付かないほど、夢中になっていた。
『えー、恒例のこのイベントに、今日は特別ゲストが来てくれてます!ポピパちゃん、いるー?』
慌ててバルコニーの柵から身を乗り出して手を振ると、千佳ちゃんが大きく手を振り返してくれた。フロアのお客さん達も肩越しに後ろを見上げて、たくさんの視線が突き刺さる。
『ポピパちゃん達ってさ、やってる音楽はあたしらと違うけど、なかなかカッコいいバンドなんだよ!しかも同い年!意識しちゃうよね。ライバルとしてお互い……なんだっけ?磨きあっていくみたいなやつ』
『切磋琢磨ね』
『そう、それ!切磋琢磨していこうと思ってるんで、みんなも見逃したらダメだよ!』
興奮した様子で話す千佳ちゃんと、冷静に助け船を出すハジメちゃん。ひかりちゃんはそんなふたりに目もくれず、レフティのギターをチューニングしたりフレーズの確認をしているみたい。
『特にひかりなんかポピパちゃんのことすっごい気に入ってて。あたしら最近レーベルのコンピレーションアルバムに参加したんだけどさ、ポピパちゃん呼ぼう!ってひかりが言い出して』
千佳ちゃんの言葉に、お客さんの間にざわめきが広がる。ひかりちゃんは名前を二回呼ばれてようやく、首だけを動かして千佳ちゃんの方を見た。
『………………』
『ごめんごめん、怒んないでって』
「今の、怒ってたんだ?」
隣のさーやがくすりと笑う。とってもわかりにくい怒りを表明した後、ひかりちゃんはまた視線を落とす。
『よし、じゃあそんな感じで次の曲、ってか最後だ!最後は、今日の為に作ってきた新曲やります!』
一際大きな歓声と拍手が湧き上がって、千佳ちゃんは胸を反らせて得意げな顔をする。
『あたしらの後はポピパちゃんたちがバチっと盛り上げてくれるから、みんな楽しみにしててねー!』
そう言って千佳ちゃんは手を振った。フロアが静かになるのを待って、ひかりちゃんが微かに身体を揺らしながら、囁くようなアルペジオを弾き始める。
最後の一音が緩く伸びて、やがてその余韻がフィードバックの轟音に変わる。耳が痛くなる直前に、掻きむしるようなパワーコードのリフが叩きつけられた。静けさから一転して訪れた嵐。そこに、荒れ狂う波のように暴れ回るベースと、雷のように鳴り響くドラムが加わる。
「!」
バルコニーにいるわたしたちと、そしてたぶん一階にいるお客さんが全員、息を飲んだ。
三人とも自分の楽器に全神経を注いでいるみたいで、目を合わせようともしない。その必要はないと言わんばかりだった。だけど演奏は計ったようにぴったりと噛みあっている。三つの音が競い合って高め合って、ひとつの奔流になって溢れ出す。
「……すげえ」
呆然と口を開けた有咲の声が、どうにか聞き取れた。
怒涛の勢いで走る演奏に、ひかりちゃんの力強い歌声が加わった。普段の小さな声ともMC中の無口さからもかけ離れた、燃え上がるような気持ちが迸る。音と声が、心と身体を揺らす。血が沸き立って、身体中が熱くなる。
二階にいるわたしにこれだけ伝わるなら、一階にいるお客さん達はどれだけ熱くなっているんだろう?あんな風に誰かを、自分を震わせる演奏が出来たら?あの場所から見る景色は、一体どんな景色なんだろう?生じた疑問が頭から離れない。
あんな風に演奏したい。千佳ちゃんたちが見ている景色を見てみたい。
あんな風に空を飛びたい。もっと、キラキラドキドキしたい。千佳ちゃんたちと競い合える場所にいれば、きっと…。
熱狂が冷めないまま、曲は終わりに近付く。同じフレーズを繰り返して溜めた力を全部乗せて、最後の一音が鳴り響いた。その残響が、どこまでも飛んでいくみたいだった。
音が小さくなって、入れ替わるようにお客さんの歓声が大きくなる。千佳ちゃんもひかりちゃんもハジメちゃんも、何も言わない。大きく上下する三人の肩が、全てを出し切ったことを物語っている。
フロアが、今まで聞いたことのないような大歓声で埋め尽くされる。そんな中、ひかりちゃんが顔を上げて、ピックを持ったままの左手をゆっくりと挙げた。そのまま、人差し指でわたしを指差す。
(---負けない)
一階と二階の距離、前髪の向こうに隠れた目。表情なんて分かるわけない。だけど言葉がなくても痛いほど伝わる気持ちが、わたしの胸に突き刺さった。
「ハードル、上げてきたね」
「うん、すごく楽しみ」
「頑張ろっ!」
頷きあうさーやとおたえに、自分を鼓舞するように呟くりみりん。みんなしっかりした足取りで、バルコニーを抜けてステージ裏に向かう。
「どした、香澄」
有咲の心配そうな声と、硬い表情。ぎゅっと握り締めた右手は、きっと不安を抑え込むため。…弱気になっちゃダメ。有咲と、みんなと一緒に。わたしたちらしい演奏をしよう!
「…行くぞ」
「う、うん!頑張ろうね!」
有咲と、わたし自身に言い聞かせる。だけど気持ちがふわふわと宙を漂って、歩く身体は自分のものじゃないみたいだった。
いつの間にかサウンドチェックが終わって、もうすぐライブが始まる。薄い青の暗がりの中、幕の向こうからお客さんのざわめきが聞こえる。流れているSEの音量がちょっと上がってから、ゆっくりとフェードアウトしていく。落ち着かなくて左右を見渡すと、いつもよりステージが広くて、みんなが遠くに行っちゃったような気がした。
幕が上がりきって、見えたのは真っ黒な夜の海。しんと静まり返って、さっきみたいな熱狂を待ち焦がれている。地平線が見えなくて、どこまでも続いて…。
突然、カウントが四つ鳴って心臓が縮み上がる。
(弾かなきゃ!)
全身からさっと血の気が引く。曲の一番初めの音に乗り遅れた。どうにか追いついて立て直したけど、ずっと弾いてきた曲なのに手がバタつく。頭の中から消えかける歌詞を、どうにか手繰り寄せながら歌う。鳴っているはずのみんなの音も声も、聞こえない。ふとした拍子に全部台無しにしてしまいそう。
(……どうしよう)
わからなくなった。わたしが何を歌ってるのか何を歌いたいのか、どうしたいのかどうなりたいのか……。地面が、底なし沼になったみたいに沈む。心臓がいつもと違う音をたてる。今はライブ中、迷ってる場合じゃない。だけど、わからない。
わたしのキラキラドキドキって、なんなんだろう?
わからないまま曲が終わった。さっきの千佳ちゃんたちとは全然違う、中途半端な拍手がぱらぱらと湧く。
「香澄」
気付くと、おたえがすぐ近くまで来ていた。
「大丈夫?」
眉を八の字にした心配そうな表情。おたえと同じ上手側にいる有咲も同じ顔でこっちを見ている。下手側にいるりみりんも、真後ろにいるさーやも、きっと…。
「MCの内容、忘れちゃった?代わりにわたしが…」
「わわ、大丈夫!大丈夫だから」
慌てておたえを止めて、マイクスタンドに向き直る。
「…こんにちは、Poppin' Partyですっ!」
どこか戸惑っているような、まばらな拍手が湧く。
「えっと、今日は千佳ちゃん…じゃなかった、youthinemaの皆さんに誘ってもらって…」
携帯に書いたメモを思い出しながら話す。いつもはこうやって話してるうちに解けるはずの緊張が、まだ身体中にまとわりついている。
一通り話し終えて、次の曲に行く。さっきより少しだけ、みんなの音と声が聴こえる。だけど、わたしは…。
歌に気持ちが、心が乗せられない。空っぽの歌、空っぽの音。身体中から力が抜けて、息が苦しくなる。抜け出そうともがくほど、どんどん沈んでいって、目の前の真っ暗な海に全部飲み込まれて……溺れてしまった。肩にかかるランダムスターは、掴む藁にもならなかった。
ライブ後の達成感だとか高揚感だとか、打ち上げが楽しみでそわそわする感じだとかで浮ついている終演後の楽屋。その隅っこのテーブルに固まるわたしたちは、無言で帰り支度をしている。
「……」
緩いざわめきの中、わたしたちの周りだけが取り残されたみたいに静まり返っている。
「や、お疲れ様」
声をかけられて振り向くと、千佳ちゃんがひらひらと手を振っている。開演前に見たのと同じ人懐っこい笑顔が眩しくて、ちくりと胸が痛んだ。
せっかく呼んでもらったのに、大きな会場なのに、あんなに不甲斐ない演奏をしちゃったこと。同い年の千佳ちゃんたちが、どうしようもなく眩しく見えたこと。色んな気持ちがごちゃまぜになって、言葉が出てこない。みんな黙り込んでいると、頬に指を当てて不思議そうな顔をした千佳ちゃんが言う。
「ポピパちゃんたち、今日調子悪かった?なんか、前見た時と違う感じがしたかなー」
うーん、と口をへの字にして首を傾げる千佳ちゃん。
「……あの、」
「まあそんな日もあるよね!じゃああたしら反省会するから、またねー」
ごめんなさい、と言いかけたところで千佳ちゃんは去っていく。その先から、ひかりちゃんがこっちを見ている。
「…………」
まるで写真みたいにぴくりとも動かない。だけど、長い前髪の向こうからほんの少しだけ見える瞳が、ぎらぎらと燃えたっている。
(がっかりした)
「……!」
視線だけで伝えて、ひかりちゃんは目を逸らした。
「今日は、この辺にしとこっか」
さーやが言って、みんな片付けを始める。さっきまで響いていた演奏も歌もすっかり消えて、蔵が静まり返る。
この前のyouthinemaとのライブ以来、胸に何かがつっかえたままだった。いつもより大きなステージだったのに、力を出し切るどころか、お客さんにもひかりちゃんにもがっかりされるような演奏。情けなくてもどかしくて、思い出す度に胸が苦しくなる。
次のライブは決まっていない。大学三年、長い春休みの予定は真っ白だ。
いつだったか、さーやと喫煙所で話したことを思い出す。
『おっきい体育館とかホールでライブして、お客さんがいーっぱいいて…』
そんな日が、いつか来るんだろうか。今のままじゃ、どこにも行けない。キラキラドキドキも、見つけられない…。
「お茶、取ってくるわ」
有咲がそう言って蔵の階段を登っていくと、りみりんがいそいそと鞄から四角い筒状の箱を取り出す。
「りみ、それってカステラ?」
「うん!評判のお店だから、ちょっと並んで買ってきたの」
「へー、りみりんがチョコ以外を持ってくるって珍しいね」
「チョコカステラだよ?」
「流石りみ、ブレない」
そんなやりとりをしていると足音がして、有咲が戻ってきた。蔵のテーブルに並べたお菓子をつまみながらみんなでお茶を飲む。高校の頃から時々開いている、ささやかなお茶会。
「はあ、おいし……」
「ほんとだ。有咲、今日のお茶なんか違うね」
「ちょっと良い茶葉が入ったんだ。百グラムで六千円くらい」
「つまり、一杯いくらなの?」
考え込むわたしを置いて、何気ない会話は続く。湯飲みから立ち上る湯気が何故か、煙草の煙に見えた。
『香澄、なんか悩んでる?』
あのライブの後に駅でみんなと別れてから、さーやとふたりで立ち寄った喫煙所。駅の近くだから人も多くて、端で身体を寄せ合っていた時に聞かれたこと。
『ううん、なんでも…』
『香澄』
口ごもったわたしを真っ直ぐ見つめるさーやの目。嘘は、吐けない。だけどわたしにも、わたしが何を考えているのか、わからないから…。
『…ちょっとだけ、待ってて』
『いつまで?』
心配する気持ちと怒りを半分ずつ混ぜたような声色だった。
『わかんない、わかんないけど…ちゃんと答え、出すから』
わたしが言うと、さーやは黙って目を逸らす。仕切りの中を埋め尽くすように漂う煙が、夜空を覆い隠していた。
「香澄」
いつの間にか雑談から抜け出ていた有咲が、わたしの顔も見ずにぽつりと言う。
「なに?」
「話あるから、ちょっと残れ」
「どしたの、急に…」
「ちょっ、おたえ!あたしの分まで食べるなーっ!」
わたしの言葉を受け流した有咲が慌てて自分のお皿を取りあげると、おたえが納得いかない表情で首を傾げる。
「だって残ってたから」
「残してただけだ!まったく、油断も隙もねえ…」
ため息混じりに有咲が言って、りみりんとさーやがくすりと笑う。みんなの、いつものやりとりだった。
門の前でみんなを見送ってから、有咲の背中を追って蔵に戻る。
「有咲。話って、なに?」
「……」
背中越しに問いかけたけど返事は無かった。そのまま黙ってふたりで蔵に入る。格子付きの窓から夕日が差し込んで、電気を点けなくてもどうにか周りが見えるくらいに明るい。後ろ手に扉を閉めて向き直った有咲は、眉間に皺が寄った険しい表情をしている。
「お前、あたしに隠し事してるだろ」
鋭い声に胸を突かれた。心臓の辺りが苦しくなって、その感覚が身体の真ん中を包んでいく。
隠し事なんかしてないよ、わたしの言葉を先回りして有咲が言う。
「プラネタリウム行った辺りから、なんか変だと思ってたんだよ。あと、この前のライブ。お前なら沙綾たちに賛成すると思ったのに、消極的なあたしの肩を持った。で、いざ本番になったらやけにビビってるし。どう考えてもおかしい。………なあ、あたしにもみんなにも、言えないようなことなのか」
「……」
「答えるまで、ここ開けないからな」
突き付けるように言った有咲が扉にもたれかかる。目を閉じて、わたしの言葉を待っている。本当にずっと出られなさそうなくらいに動かない。
木の匂いで包まれた蔵の空気を深く吸い込んで吐き出す。そうやって気持ちを落ち着けてから。
「あのね、有咲…」
ずっと抱えていたことを、全部話した。
「………ついていけてない、か」
有咲は俯いて、深く息を吐く。薄暗さに隠れて表情が見えない。静まり返った蔵の空気が全身にのしかかっている気がして、わたしも顔を上げていられなくなった。
「出口さんの言う通りだよ」
「え?」
有咲の言葉に顔を上げると、ちぐはぐな笑顔が夕焼けの中に浮かんでいた。なにか大切なものを諦めて手放すような、寂しくて悲しい笑顔。
「あのレコーディングの最中に思ったんだよ。『こんなの早く終わればいい』ってさ。……みんなと違ってな」
そんなこと、と呟いたけど否定できなかった。あの時は、さーやもおたえも楽しそうにしていた。りみりんだって最初は緊張してたけど堂々としていたし、わたしだって自分の全部を出し切れて楽しかった。
「だから、あたしは抜ける」
呼吸が止まって、頭の中が白で埋め尽くされた。有咲は真剣な表情で、真っ直ぐにわたしを見つめている。もう決めたことだと、その瞳が言っていた。
「有咲が抜けるなんて、ありえないよ。わたしはずっと…」
「断りの連絡、入れたのか」
「まだ、だけど」
「あたしを抜けさせるつもりがないなら、なんで迷ってんだよ。あんな不甲斐ないライブまでして」
「それは……」
わたしにもわからなかった。有咲と一緒にいたいから、有咲がいなきゃポピパじゃないから、レーベルの話は断る。それだけの話だった。なのに答えはずっと出ないままで、わたしにとってキラキラドキドキがなんなのかもわからなくなって…。考えがまとまらない。心臓の立てる音だけが聴こえる。
「……目ぇ覚ませよ、戸山香澄っ!」
有咲の怒鳴り声がした。
「あたしの知ってる戸山香澄は、バカで向こう見ずで一生懸命で、キラキラする為ならなんだってやる奴だろ!あたしなんかに構って立ち止まるんじゃねえ!」
「でも、有咲…」
「でもじゃねえ、行けよ!感じたんだろ、星の鼓動を聴いた時みたいに…今よりもっと、キラキラドキドキできるって!」
あの時、確かに感じた。千佳ちゃんたちの演奏を聴いた時、千佳ちゃんたちの演奏を見ているお客さんたちの熱気を見た時…星の鼓動を聴いた時と、同じドキドキを。あんな演奏をしてみたい。あんな風にお客さんを震わせたい。それはきっと、空を飛ぶのと同じくらいドキドキすることで…。
「でも、有咲、有咲は、どうするの?」
聞かずにはいられなかったことを聞くと、有咲が胸に飛び込んできた。そのまま目も合わせずに、ゆっくりと言う。
「ポピパの何倍もカッコいいバンド組んでさ、みんなに追いつくよ。絶対、追いつくから…だから、先に行って待っててくれよ」
「う、うん。絶対、絶対だよ!」
胸の中にいる有咲を強く抱き締める。この約束は、絶対に、必ず、何があっても守ってほしいから。有咲は一度鼻を鳴らしただけで、何も言わない。
少ししてわたしが力を緩めると、顔を上げた有咲は目の端に涙を滲ませて、泣き出しそうな笑顔で言った。
「あたしがいなくても、気い抜くなよ?」
蔵の扉が閉められて、広い庭に呆然と立ち尽くす。冬が殆ど終わって、吹く風は暖かくなっていた。風が砂埃を巻き上げて、瞬きをすると視界がすっかり滲んでいた。たちまち、胸の中にあるものが堰を切ったように両目から溢れだす。
「ありさ」
震える声で呼んだ名前がどこか遠くに感じる。拭っても拭っても涙は止まらなくて、子供みたいに声をあげて泣いた。
思い浮かぶのは有咲のことだけ。
道端の星を追いかけて初めて出会った時のこと。おばあちゃんに名前を教えてもらった時のこと。
頬を膨らませて怒る顔も、どこか照れくさそうに笑う顔も、全部はっきり覚えてる。有咲が一緒にいてくれたから、星がわたしと有咲を繋いでくれたから、キラキラドキドキを追いかけることができた。これから先、いつかはわからないけど……また、一緒にキラキラドキドキできるって信じてる。
有咲が、何もなかったわたしの手に沢山のものをくれた。
目を閉じれば、瞼の裏に有咲がいる。だから。
「先に行って、待ってるね」
涙を拭って、扉の向こうにいる有咲に伝えた。
座ったままもたれている扉の向こうから、香澄が大声でわんわん泣いているのが聞こえる。
「……せっかくカッコつけて別れたのに、台無しじゃねえか」
なんだか温度が下がったような気がする蔵の中を見ながら、がりがりと頭を掻く。思えば会ったばっかりの頃は、ここの片付けを手伝ってもらってたんだっけ。
ランダムスターをケースごと落っことしてぴーぴー泣いて、修理の帰りに宝物みたいにランダムスターを抱えていた姿がなんだか眩しくて、五百四十円で譲ったこと。そのランダムスターを、初めてアンプに繋いで鳴らした時のはしゃぎようがやかましかったこと。ずいぶん前のことだけど、今でもはっきり覚えてる。
あの時からずっと香澄は香澄だった。蔵からあたしを引っ張り出して、平穏な日々をぶっ壊した張本人。躓いたって転んだって、最後には前を向いて走り出す。そして躓いたり転んだりする度に、強く眩しくなっていく。
そんな香澄についていけなくなったのはいつだろう。はっきりと意識したのはあのレコーディングの時だった。技術が足りないのはもちろん、私の気持ちがついていけてなかったのを、ほぼ会ったばかりの出口さんはモニター越しに見抜いていた。
「ほんと、情けねえ…」
だけどあの時、香澄は私を信じてくれた。これからだってきっと、私を信じて待っててくれる。
香澄が、乾ききっていた私の心に水をくれた。
目を閉じれば、瞼の裏に香澄がいる。だから。
「待ってろよ、すぐ行くから」
蔵の天井、その向こうにある夜の始めの空を想いながら、扉の向こうにいる香澄に伝えた。
なんとなく蔵の地下に降りて、静まり返った部屋を見渡していると、みんなとの日々を思い出した。
故障したベースアンプをりみと一緒に自前で修理して、お陰で配線に少し詳しくなったこと。
『有咲ちゃん、アンプから煙が…!』
『うおおおお?!とにかくコンセント抜けーっ!』
『これ、修理に出した方がいいよね?』
『いや、調べたら割と修理代高いしあたしたちでやっちゃおう』
『大丈夫かな…』
やたらおたえの音が抜けてくると思ったら、おたえが勝手にギターアンプを改造してて苦笑したこと。
『おたえちゃん、ギターの音変わった?』
『うん、アンプの部品替えたからね』
『いや事前に言えよ。一応うちのだぞ』
沙綾にドラムを教えてもらって、ちょっと叩けるようになったこと。
『有咲も叩いてみる?』
『お、おう。……こんな感じか?』
『うん、上手上手』
『あたしは子供かっ!』
『あはは、冗談だって。でも結構センスいいと思うよ?今度はこれをこうやってみて』
『なんかすっげー活き活きしてるな、沙綾』
『そう?』
そして、香澄とのこと。
蔵での練習中。休憩時間なのに、香澄はソファに座ってギターを爪弾きながら何かを口ずさんでいた。聞いたことがないからたぶん新曲だろう。時々うんうん唸ったり、唇を尖らせて考え込んだりしている。いつも見ている光景だけど、ふと気になったことを聞いてみる。
『なあ、お前ってさ。なんでそんなに歌いたいの?』
『なんでって?』
『いや、今までいっぱい曲作ってきたじゃん?よくそんなに思いつくなって』
なんだか失礼な聞き方かもしれないと思ったけど、香澄は特に気にする様子もなく、口元に手をやって少し考えてから言った。
『歌いたいことがいっぱいあるから…かな?楽しい時は楽しいって、悲しい時は悲しい…けど頑張る!って』
笑顔になったり落ち込む素振りを見せながら語る様子がおかしくて、思わず顔が綻ぶ。
『あとは、世界はすっごくキラキラで眩しいとか、ひとりじゃないとか、わたしはここにいるよ、って言いたい……のかな?』
『わかんねーのかよ』
わかんないかも、とはにかんだ香澄はまたギターを弾き始めた。しばらくして始まった練習で聴く香澄の歌は、なんだかいつもより心の奥に届くような気がした。
「香澄にはああ言ったけど、これからどうすっかな」
ソファに身体を投げ出して、天井を見上げながら考える。レコーディングを乗り切れない程度のキーボードの技術。おたえやりみの足元にも及ばないコーラス。それでも。
(歌いたい)
確かにそう思う。世界は眩しいくらいに輝いてるってことを教えてくれた奴がいて、みんなひとりじゃないって教えてくれた奴がいて、そして、あたしがここにいるってことを歌いたい。勢いをつけて立ち上がって、スタンドに置きっぱなしになっているキーボードの電源を入れた。そのままコードをいくつか弾いて、違和感のなさそうなメロディを選んで口ずさむ。
だけどしばらく続けても、形になる気配すら見えなかった。
「わかんねー……」
呟いて、溜息をつく。
(まあ、ひとつずつやっていくしかないか)
作曲や作詞の本を買う算段を立てつつ、あたしは蔵から出た。
あれからだいたい半年が経った。わたしとさーやとおたえとりみりんの四人は、舞台袖に並んでステージを眺めている。
「いよいよだね」
わたしが呟くと、みんな黙って頷いた。おたえはいつものように柔らかく微笑んで、さーやは景色を目に焼き付けるようにじっと動かない。りみりんはすぐにでも泣き出しそうだった。
一番近い下手側、アンプの前でベースを構える女の人。雰囲気は蘭ちゃんみたいだけど、蘭ちゃんよりもトゲトゲした空気でちょっと怖いかも…。
ステージの真ん中、少し奥の方にはショートボブの女の人がドラムセットの前で何度も深呼吸をしている。見た目は髪を短くした薫さんだけど、中身は花音先輩みたい。
一番遠い上手側、あこと同じかひょっとしたらあこより小さいくらいの女の子。お人形さんみたいなふわふわのスカートとは正反対に、どっしりした七弦ギターを抱えて得意げな顔をしている。
そしてステージの真ん中。一番お客さんの注目を浴びて、一番お客さんに近い場所に、有咲がいる。有咲がキーボードの上に立てたマイクに近付いて、言葉を発する。
「はじめまして!わたしたち---」
新しいキラキラドキドキが、始まった。