「温泉ですか?」
「ええ」
「なんで温泉に行く必要が?」
富美ケ丘という編集の女性は本当に常識がない。
水着回と温泉回は基本の基であり、王道中の王道であり、やらなければならないものだということがなぜわからないのか。
「みんなメイとマイの入浴シーンのイラストが見たいはずですよね」
「そのニーズはないですね。ご主人さまならまだしも」
ええ……?
ご主人さまの入浴シーン?
そんなので喜ぶのは女児くらいだろ……俺の読者のメインは……女児だった。忘れていた。桜上水みつご先生の描くご主人さまは、超格好良いので女児から人気なのだ。
「つまり、ストーリーで温泉に行くからその取材をしたいと」
「そう。そうですよ」
「却下です」
切られた。
くそっ、取材旅行ということで経費を使わせてくれない編集など、存在している意味がわからない。
「温泉行きたいナァ」
そうつぶやいた途端に、スマホに着信が。
「はい」
「真奈子です」
「どうしたの、真奈子ちゃん」
「我が家の温泉付き別荘にご招待します」
「えっ!?」
「今すぐ行きましょう」
「ええっ!?」
どういうタイミングなんだ……まるで盗聴器で会話を聞いていたかのような……そんなわけがないが。
「じゃあ、準備を……」
「あ、大丈夫です。着替えとか全部用意してますので」
浴衣とかのことか。
「じゃあ、下着だけ」
「それも用意していますから、そのままでどうぞ」
どうして……
「じゃあ、そちらに向かうね」
「もう車で迎えにきています。玄関前でお待ちしております」
……。
「あ、あと、しーちゃん先輩には見つからないように。面倒くさいので」
面倒くさいって……
まぁ、あいついっつも変だからな。
それにしてもこの外堀を完全に埋められている感じ、怖いのですが。
ただこの流れでお断りするのも怖いし、有無を言わせず行くしかない気がする。
スマホで会話をしながら階段を降り、廊下や部屋をスニーキングミッションしながらダイニングへ。行き先掲示板を目指す。
「詩歌は……デートって書いてあるな」
家にいないことがわかったので、警戒を解く。
「デートですか?」
「親父とだよ」
詩歌の言うデート、というのはつまり俺の親父と二人で出かけることを指す。だから親父の行き先もデートと書いてある。ハートマークまで付いている。娘と二人で出かけるのがそんなに嬉しいのかね。
なんでデートなんて言い方をするかというと、親父はデートなら全部費用を払うからだ。デートではない振る舞いをするといきなり割り勘になるから要注意。
いちいち「今はデートなの? それとも親子のおでかけなの?」と確認する親父はキモいが、詩歌は割と嫌ではないらしい。あんな俺とそっくりの顔をしている親父のどこがいいんだか。
「別荘ってどこかな?」
「ヒ・ミ・ツです」
ここで清井さんの別荘って書いたら何かと面倒だな。母さんが早合点して「婚前旅行? 紹介してよ」などと言いかねない。JSを紹介したら死ぬ。
「探さないでください、と」
「それでいいです」
本当にいいのだろうか。まぁ俺の両親は探さないでって書いてあるから、探さなくていいだろうと安心すると思う。素直。
「お待ちしておりました」
玄関を出ると、運転手が待っていた。ハイヤーを運転するようなスーツだ。やはり黒塗りの高級車なのだろうか。そして誰かに追突されるんだろうか。そこで提示された示談の条件とは……。
「ええっ!?」
無駄な心配をしていたようだ。車はなんとキャンピングカーだった。
ステップに足をかけてドアを開けると、真奈子ちゃんが待っていた。ルームウェアだ。
「先生、ようこそ、私達の
なんか気になる言い回しだな……
「広いね、車とは思えないなあ」
「でも、ベッドは一つしかないので、一緒に入りましょう」
「いや、まだお昼だし……」
「眠る必要はないですから、一緒に入りましょう」
「こっちのソファーの方が……」
「一緒に入りましょう」
「はい……」
真奈子ちゃんは一緒にベッド・インすることの意味をわかっていないので困る……。あげはちゃんみたいに、わかっていても困るけど……。
「同じ枕で寝ながらお話してたらすぐに着きます」
「そうだね……」
初体験の前にピロートークを体験することになるとは……
「先生の小説であったじゃないですか。ご主人さまがメイちゃんをベッドで慰めて、その後とりとめもない話をするシーン」
「あ、うん」
「わたしにもしてください」
絶対駄目でしょ……
「実は朝、メイちゃんのマネがしたくて、パンをかじったらパパに叱られてしまったんです……」
「あ~」
パンはちぎって食べるのがマナー、っていうのを実践しないといけない日本人はあまりいない想定で書いてるのに実際に起きたんですね。お嬢様すぎる……。
「だから、慰めて欲しいんです」
なるほど、俺の書いた小説で起きてしまったから、過ちも起こしてしまえと。
書いた小説の責任であれば取るしか無い。
俺は覚悟を決めて彼女が寝ているベッドに体を滑らせる。
「慰めてください、言葉だけじゃなくて」
わかっているとも。
「優しくしてください」
もちろんだ。
ぎゅっと目を閉じた真奈子ちゃんに、俺は覚悟を決めて……
「頭を撫でて慰めてください……」
「だよね」
そうだよね! 慰めるってそういう意味だよね! 女子小学生が認識している慰めるって言葉はそうだよね! きっと読者の殆どはそう思ってるんだよね。あげはちゃん以外!
「よしよし」
「えへへ」
「よしよし」
「えへへ」
ベッドの上で、女子小学生の頭を撫でて、笑顔にするだけの簡単なお仕事。
自分の小説のキャラクターのマネをしてくれた読者に対して、このくらいのことはなんでもない。いくらでもしてあげたくなる。
「ぎゅっとして」
「ぎゅっ」
ベッドの上で、女子小学生の頭を撫でながら、ぎゅっと抱きしめるだけの簡単なお仕事。
いくらでもしますとも。
「おでこにちゅーして」
「ちゅっ」
ベッドの上で、女子小学生の頭を撫でながら、ぎゅっと抱きしめつつ、おでこにキスするだけの簡単なお仕事。
いくらでもしますとも。
「ほっぺにもちゅーして」
「ちゅっ」
いくらでもしますとも。
「口にもちゅーして」
いくらでも……
「それは駄目かな」
「なんでですか~!?」
あぶねー。うっかりキスしてしまうところだった。なんか最近、真奈子ちゃんはことあるごとに俺とキスをしようとするから注意せねば。
「ご主人さまとメイだってしてないだろ」
「してしまったら、恋人になってしまうから、ですよね」
そう。ご主人さまはメイにもマイにもキスはしない。もっとエッチなことはしまくっているが、それはしていないという関係性が俺は好きなんだ。好きになっちゃうと困るからという理由でキスだけNGにしているソープ嬢みたいでよくね?
なので、ご主人さまが「キスをしたら、それは恋人だ」って言わせている。
「あの二人の距離感が素敵なんですよね」
「うんうん」
そっか、真奈子ちゃんにもわかりますか。ソープ嬢の気持ちが。
「先生とわたしの関係も、ご主人さまとメイの関係みたいなものですよね」
いや、それは絶対に違う。真奈子ちゃんが知らないだけで、あの二人はとんでもないことをしているのだ。
俺は否定の言葉の代わりに、髪をくしゃっと撫でてからベッドを降りた。
車が高速道路に入ったのか、ベッドの揺れは治まった。