必要の部屋って本当に便利だ。扉を開ければ出現していたキングサイズベッドを目に、しみじみ思った。
「話せたのか」
そこに寝転んでいた貴族然とした少年に、ぐっと疲れが込み上げてくる。白鳥の羽休めがごとき、なんとも優雅な姿だった。──なんだってこいつはこの状況でのんびりしてられるんだ。慌てているのは僕ばかりみたいじゃないか。
「話せたよ。未来のことは何も話してないけど。……僕の話はした」
ローブを脱いで靴を投げ出して。ベッドに背中から倒れ込む。すぐ横にある相棒──マリアでなくハリーとしての僕の相棒を彼とするのには違和感があるけれど──の顔を意味もなく見つめてしまう。ほんとうに……貴族らしい綺麗な顔だ。美形と言われれば思い出すのはシリウスだけど(少年の時点でかの美貌はすっかり完成されていた。)ドラコの造形にはガラス細工のような繊細さがある。
「なんだ」
微笑まれてはじめて、同じ血の通った人間なのだと思わせる。なるほど、表情がない時の彼は精巧なお人形のようだった。青白い肌と色素の薄い髪瞳がそれを助長させていた。
「君はよかったのかなって」
「うん?」
「ナルシッサさんは最高学年に残ってるみたいだけど。……会わなくていいの?」
光の加減で淡いブルーにも見えるドラコの瞳が、物思いに耽るように細められた。金色の睫毛が瞳に重なるさまはヴェールのかかった宝石を思わせた。
「かまわないさ。君とちがって僕の父上と母上は存命だ。いつだって会える。あの戦でも生き残ることを優先した。……裏切り者とそしられようがな」
我が子のためハリー・ポッターの死を偽ったナルシッサ。戦火の中、杖なくとも我が子の元へ駆け付けたルシウス。──すべては、愛する家族と『生きる』ために。
「……うらやましいな」
「そうだろう。──君の周りは、酷い大人ばかりだ」
ドラコの指が前髪を払って額をなぞる。稲妻の傷を指先でくすぐる。
目を閉じた。この世界の時間はどこまでも『僕』に優しかった。
「おやすみ。ハリー」
なにも考えられなくなるくらい──甘い世界だ。
***
図書室でその人を見かけたのはまったくの偶然であった。周囲に人目がないためマントを脱いでリリーについていたドラコと、マントを持ったまま別の本棚を回っていた僕。休日の土曜日に図書室を利用する生徒なんて、試験前でもない限り多くはない。ゆえに──彼が目に留まった。
「スネイプ」
彼は振り向いた。ハッキリと目が合った。なんともいえない沈黙が間に生まれた。
「……まだ用があるのか。ポッター」
──『まだ』? まだ、とはなんだろうか。……まさか、父さんがなにか?
「昨日見たことなら誰にも話さないと再三──そうか、お前が」
「はい。あの──ハリー・ポッターといいます」
べっとりとした髪の奥に隠れた黒目が不快げに細まるのがわかった。眼光は鋭い。きっとその目が見えなかったとしても如実に伝わっただろう。彼は僕を──この容姿を憎んでいると。
「スネ、」
「お前がなんだかは知らないが、リリーを味方につけたのはかしこかったな。ポッター家の人間は彼女につきまとうよう血に組み込まれでもしているのか?」
軽蔑的な眼差し。知っている。憎まれている。恨まれている。──僕はこの目を知っている。
「僕はジェームズじゃない」
喘ぐようにこぼれ落ちた。あなたが憎むジェームズ・ポッターではないんだ。──スネイプ先生。
「……礼は言わない」
「はい。僕だっていりません」
挑むように返せば、忌々しげに舌打ちをされた。この人、昔からこんなふうなのか。
ほんとうに──生きてるんだ。この場所で。この世界で。
彼の首に死の痕はない。
「──セブ!」
リリーもスネイプ少年を見つけたようで、喜色いっぱいに駆け寄ってきた。ドラコは深々とローブのフードをかぶっていた。
「セブ、どうして──あっ……ちがうのよ。彼はポッターじゃないの。いえ、ポッターなんだけど」
「わかってる。おおかた、あの男の親戚辺りだろう。あいつは一人っ子で、ちやほやされて育ってきたんだからな」
「セブ、そんな言い方は……」
リリーの目が気遣わしげに僕とスネイプとのあいだを泳ぐ。話題の人物の息子である僕を気にしてのことだとわかりきっていた。
「リリー、僕も同じことを思ったから大丈夫だよ」
「ああ、ハリー。絶望しないでね? その、いいところもあるのよ。仲間想いだったりリーダーシップがあったり。彼を慕う人も憧れる人も多いわ。ほんとうよ?」
懸命にフォローを入れてくれるリリーに、中身のない笑みで返した。それ以上はスネイプの目が呪いでも放ちそうだからやめてくれ。
「それで、こいつは」
「ハリーよ」
「…………」
「ハ、リ、ィ。ちゃんと名前で呼んであげて」
腰に手を当てすっかり見慣れたお説教のポーズを取るリリーに、スネイプは屈した。(怒る母さんがとってもかわいかったからにちがいない。)
「……ハリー」
その瞬間の僕といったら! 雷にでも打たれた心地だった。だってスネイプが──あのスネイプが僕をハリーだって!?
「昨日のこと、ハリーにお礼を言った? ハリーがいなかったらどうなってたか」
「……あのくらい、自分でどうにかできた」
「意地を張らないの!」
リリーがやわらかくスネイプの頬をつねる。なんともほのぼのとした光景だった。その間にドラコが僕の隣へと戻って、二人でマントを握りしめる。リリーには悪いけれど、今のうちに──
「ああ、ここにいたの、僕の白百合! ──と、そうだな。花を荒らす害虫ってところ?」
「アブラムシなんてどうだ?」
「最高だね、シリウス」
大好きな人たちの大嫌いな声がした。僕は再びジェームズたちの前へと立ちふさがっていた。なんだって、あなたたちは無邪気に悪意を振り撒くのか。
はっきりと睨み付ければ、ジェームズはニッコリ笑った。──ニッコリ笑った?
「ハリー! 君を探してたんだ。きっとエヴァンズのところにいると思ってね。ちゃんとマントを持っているね? さぁおいで」
「え? と……ジェームズ?」
「ハリー」
ドラコが僕の腕を掴む。僕とまったく同じ顔がドラコを見る。フードのおかげで顔は見えていないはずだ。けれど、ドラコ・マルフォイの名を知る彼ならばそこにいるのが誰か、容易にたどり着くだろう。
「ああ、君はいいよ。スリザリンらしくそこの泣きみそと一緒にいればいい。さぁ、ハリー?」
「おあいにくさま。この子たちは今、わたしが保護しているの。昨日の今日でなにを考えてるの。恥を知りなさい。あなた、彼になにをしたか──」
「そこは和解済みだよ、愛しのリリー。すまないね、君との図書室デートももちろん魅力的なんだけど……今日はハリーだけの招待なんだ。来るよね? ハリー」
断られるだなんて想定していない当然の顔つきでジェームズは僕へと手を差し伸べた。
「グリフィンドールの勇者どのは身内にも変わらず傲慢でいらっしゃるようだ」
「おや、アブラムシってしゃべれたのかい?」
「ポッター、セブへの侮辱はよして」
杖こそ出していないものの、空気に不穏さがただよい始めていた。一触即発。一触の前に彼らを連れて離れるのが現状における最適解だと、僕はドラコとリリーへと振り返った。
「いってくるよ」
「ハリー!」
「大丈夫だよ、リリー。和解したのは本当なんだ。……頼むね、ドラコ」
フードで綺麗なブロンドがすっかり隠れてしまった彼にささやく。透明マントがなくても、彼ならやりくりできるだろう。物言いたげなリリーの視線を振り切って図書室の出入り口へと向かえば、ジェームズはお気楽にリリーへとちょっかいをかけていた。
「美しい僕の姫! 愛してるよ!」
「わたしはあんたなんて大嫌いよ!」
……この時代の司書がマダム・ピンスでなくてよかったと心底思った。