忘れてた。
「マリア?」
朝食の途中、思わずオートミールをつついていたスプーンを落とした。ハリーは低血圧から起きてこられなくて、他のみんなもまだ眠っていて、シリウスとルーピン先生の三人だけで机を囲んだ朝のことだった。(モリー母さんはアーサーおじさんに付き添って隠れ穴に帰っていた。)
「──ディメンター!」
「「ディメンター?」」
同じタイミングでおじさん二人が首をかしげる。
思い出していたのだ。『僕』の時とあまりに現状がちがいすぎて──あんまりにも幸せで、だから、『僕』がこの家でどう過ごしていたか。過去に思いを馳せていた。
──そして、至った。魔法省に呼び出されたこと。理不尽な尋問を受けたこと。──
その、原因が。
「ダドリー!」
「「ダドリー?」」
頭を抱えた。そうだ、ダドリーをかばったんだ。守護霊を喚んで、ついでにフィッグばあさんがスクイブであることも知って──
だがしかし、此度のハリーはプリベット通りに戻っていない。ディメンターに遭遇すら叶わない。ダドリーは無事だろうか。そもそもディメンターは現れるのか。
「シリウス。ディメンターがマグルの街をうろついたとか、そんな話は聞いてない?」
「これまでもこれからも聞くことはないと思うが」
「ディメンターがホグワーツへやって来たのは特例のことだったんだよ、マリア。あいつらはアズカバンにいるんだ。くわしくは君のおじさんに聞くといい。ここにいる誰よりも彼らにくわしいだろうからね」
「ソレ、笑えないぜ。リーマス」
「そんなことは知ってるよ。知ってるけど──ああもう、僕はここから出られないのに」
ルーピン先生が新しいスプーンを用意してくれたのにも目もくれないで、なすすべなくオートミールを見つめた。『前回』、ディメンターがプリベット通りへと現れたのはハリー・ポッターを陥れるためだった。つまりは、ブラック邸に引きこもっている今回ならば例の事件は起きないのかもしれない。──だが、確証はない。
ダドリーのことは好きじゃない。和解してからだって、義務的な付き合いはあったが友好的とは程遠かった。今のダドリーなんて最悪だ。極力、関わり合いになりたくない。ダドリーのことは好きじゃない────だとしても、廃人になっていいとまでは思うはずもないのだ。
「マリア、どうしたんだ。困ったことがあるのなら言いなさい」
シリウスとルーピン先生に心配そうに顔を覗き込まれて、僕は躊躇した。言っていいものだろうか。これは不確定な未来だ。自分の代わりに──来るかどうかもわからないディメンターを警戒してプリベット通りを見張ってほしい、だなんて。
「マリア」
「マリア」
シリウスのグレーの瞳も、ルーピン先生の緑の瞳も、どちらも透きとおるほど真摯で僕はうながされるままに口を開いていた。
「ぜったいの、ことじゃないんだ。信じてもらえなくてもしかたないんだけど」
「信じるさ。なにがあっても君たちを信じると、私はそう言ったはずだ」
「シリウス……」
ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられた。女の子の髪を雑に扱うものじゃない、なんてルーピン先生に叱られているシリウスの姿に、笑顔までくしゃくしゃになってしまった。
「マリア、私たちになにをしてほしいんだ?」
「言ってごらん」
一呼吸。
「──プリベット通りに、向かってほしい」
二人はきょとりと顔を見合わせた。
「プリベット通りというと──君たちが預けられていた?」
「うん。……出所は、言えないんだけど。もしかしたらその辺りをディメンターがうろつくかもしれない」
目を見張ったのはシリウスだ。ルーピン先生は口元に手を当て考え込んでいた。
「そんなことがあるのか」
「わからない。絶対じゃないんだ。いつかもわからない。まったく無駄なことかもしれない。僕が見張れたならそれが一番なんだろうけど──」
「ここから出せるわけがないね」
「……そうだよね。僕もハリーを置いていくなんてできないや」
苦笑すれば、ルーピン先生は大きくうなずいて僕の肩を叩いた。
「わかった。私が張ろう。満月まではまだ遠い。シリウスよりも私のほうが適任だ」
「リーマス」
「忘れがちだけど、君だってこの屋敷から出ることは控えるようダンブルドアから言い付けられているだろう。二人の側にいてやるといい」
現状、打てる手の中での最善だった。ルーピン先生の守護霊の呪文はうつくしい。きっとダドリーを救ってくれる。
「ありがとうございます、先生。……あの、ほんとうに?」
「ああ。私は君の……そうだな、予言、ということにしておこうか。君の不安感は見過ごせないからね」
「……ダンブルドアが、そう?」
「……私の生徒はかしこい子ばかりだ」
シリウスとはちがって、撫で付けるような優しさで頭に触れられる。
「勇気を出してくれてありがとう、マリア」
「────」
寝起きのハーマイオニーが下りてくるまで、僕は保護者二人の手に身を委ねてありあまる幸福感にひたっていた。
「──やはり、マリアは」
リーマス・ルーピンは家主シリウス・ブラックの自室にて美貌の男と向き合っていた。
「予知能力、か……向こうの陣営に知られるとやっかいだな」
「予知──かな? ほんとうに?」
「どういう意味だ?」
かつての仲間たちの中でも一等思慮深く慎重だった男の疑問に、シリウスは深く腰掛けた身をただして先をうながした。
「このあいだボガートを退治した時に思い出したんだけど……マリアは守護霊の呪文を使えるだろう? ハリーに教えたのは僕だ。だがしかし──マリアは誰から教わったんだろう」
「お前じゃないのか?」
「そんな暇はなかったよ。──あの子ははじめから知っていた」
はじめから。十一歳まで魔法の存在すら知らなかったマグル育ちのポッター兄弟が、独学で高等呪文を覚えるなんていうのはまず不可能だ。その点、ハリーは才能云々を含めたとしても等身大で──マリアは謎が多すぎた。
「聞いてみたんだ。そうしたらあの子は──マリアは、まるで『僕』から教わったかのように答えた」
「ハァ? お前、さっき、」
「ああ。僕は教えていない。ぜったいに」
リーマスは断固と否定する。
「これは予知では説明がつかない。予知で
荒唐無稽な絵空事だ。ありえないことばかりが積み重なっている。マリアもハリーも亡き親友の忘れ形見として等しく愛しているけれど、少女の方に得たいの知れないものを感じていることも事実だった。
「セドリック・ディゴリーのことだって──」
「…………」
その日、マリアはおびえていた。周囲がエンターテイメントの一つとして試合を観戦する中、彼女だけは先を見据えて警戒していた。シリウスはそんな彼女の傍にいたのだ。──マリアの異常をひしひしと感じていた。
それから、もうひとつ。リーマスは続けた。
「ボガートは対象がもっとも恐れるものに化ける。僕の場合は満月、ハリーはディメンターだ。それは知っているね?」
「ああ」
「あの子の恐怖は──『赤ん坊』だった」
「赤ん坊?」
シリウスの愁眉にリーマスは記憶を引き出しながらうめくように語った。
「それも、普通の赤ん坊じゃない。おそろしくみにくいんだ。血だらけで、骨の浮かんだミイラのような──とにかく、常識では考えられない形をしていた。ゾッとしたよ」
形から赤ん坊と表現したが、それすらも定かではない。とても愛することのできない──嫌悪の象徴のようなナニカだった。
「魔法界には様々な生き物が存在するけど、あんなのは見たことがない。マリアは、いつ、どこであんなものを知ったんだ? なぜそれに怯えている?」
ハリーを愛し、慈しみ、姉として最愛の家族を盾になってでも守ろうとする少女。そんな毅然とした彼女が試験すらも投げて逃げ出すほどの恐怖。──マリアはたった十四年のあいだになにを経験してきたのだろう。
それから──そうだ。リーマスは連鎖的にもう一人の存在を思い出した。
「ドラコ・マルフォイだって気になるんだ。彼のボガートは──ジェームズに化けた」
「ハァァ?」
シリウスはとうとう立ち上がった。ドラコと、ジェームズ? まるで接点が見えない。
「なんだってルシウスのガキがジェームズを? いつ見たっていうんだ? ジェームズが生きてた頃なら、あいつだって一歳だろう」
「僕が知るわけないよ。マリアから写真を見せられたにしても、なんでそれが彼のもっとも恐れる対象になるのか」
ジェームズ・ポッターとドラコ・マルフォイ。繋がるはずのない糸が絡みもつれ合う。
「それも、ジェームズは傷だらけで──今にも死にそうな姿だった」
「……それ、ほんとうにジェームズか?」
「まちがいなく。僕が彼を忘れるはずがない。あの背中は、あのくしゃくしゃの頭は確かにジェームズだった」
「…………」
シリウスは再び脱力するようにソファへと座り込んだ。リーマスがジェームズを間違えるはずがない。その通りだ。シリウスだって間違えたりはしない。
どれほど──彼の背中を見てきたか。
「……それは、ドラコには」
「聞けるわけがないだろう? プライバシーの中でも特にデリケートな部分だ。マリアの赤子のことだって、僕は真相を知らないよ。そもそも、ルシウスからもミセスマルフォイからもかわいがられているはずのドラコが二人と仲がいいことも謎の一つなんだから」
知れば知るほど複雑になっていく。英雄としてかつぎ上げられるハリー。そんな彼の影にあるマリアの存在。両親から離れポッター兄弟に関わるドラコ・マルフォイ。
「あの子たちは──なにと闘って生きているんだろう」