夏休みも終盤へと差し掛かった頃、ようやっと新学期の案内と教科書リストが届いた。そして──
「これ、これ──夢じゃないよな? ねえ、マリア、試しに僕の頬をつねっ──アイタタ! 夢じゃない! もういいよ、マリ──イタイイタイ!」
涙を浮かべながら歓喜するロンの手には監督生バッジがあった。今回もロンとハーマイオニーが監督生に選ばれたのだ。モリー母さんは当然狂喜乱舞で、その日の夕食は二人のお祝いパーティーとなった。
「ハリー」
パーティーから抜け出したハリーに寄り添う。
「ロンが羨ましい?」
「どうして?」
ベッドに寝転ぶハリーの声はぼんやりしていた。
「自分が監督生になれると思ってたろう?」
「マリアは思ってたの?」
「まさか。我らがグリフィンドールの優等生はハーマイオニー以外ありえない」
「でも、ロンは優等生じゃない」
「……そうだね」
そっと髪を撫でる。ハリーは癇癪を起こしはしなかった。感情を呑み込むように目をつむっていた。
「ロンには僕に無いなにかがあったのさ。ダンブルドアにはそれが見えた。でしょう? もしも──もしも、マリアが監督生だったなら」
「ありえないよ」
「だとしても。ハーマイオニーがいなければきっと君が監督生だった。そしてもしもその時、対の監督生がロンだったら────僕、わからない」
トン、トン──ハリーの背を叩く。
彼は今、理不尽に思ってしまう自分に、理不尽をかんじている。ぜんぶ、わかってる。君も、僕も。
「ダンブルドアはなにを考えてるんだろう」
「さあ」
「マリア、気付いてる? ──僕たち、ダンブルドアに避けられてるよ。みんな、なにかを隠してる」
「……うん」
目を開かないハリーがそのまま眠ってしまえるように祈る。
気付いてるよ──気付いて、しまったんだね。ハリーも。もう少し先であったならよかったのに。
芽生えてしまった不信感は着実にハリーの心を蝕んでいく。
「ハリー、ダンブルドアは──」
「マリア、いいかい?」
ノックと、ルーピン先生の声だった。僕は立ち上がった。ハリーは止めなかった。
「ちょっと、行ってくるね。……おやすみ、ハリー」
「マリア」
ハリーは。
「──君も、僕に隠し事ばかりだね。マリア」
喪失感を抱えながら、少年はぬくもりのなくなったベッドを撫でた。
***
ルーピン先生の呼び出しによって、僕はシリウスの自室にいた。二人は深刻な顔をしていた。
「マリア、ディメンターの件だけど──君の言うとおりだった」
「──!」
ハッと息を呑む。やはりディメンターは現れたのだ。マグルの街中に──命を受けて。
「あんな場所に偶然でディメンターがいるはずもない。──これは、ハリーを狙ったものだね?」
うなずく。どこからの差し金か、二人ならば理解できるだろう。魔法省は今年もハリーがプリベット通りに戻ると思っていたのだ。
「敵が多すぎるな……」
舌打ちと共にシリウスは長い髪をかき上げた。場違いにもさまになるな、なんて思った。ルーピン先生はすっかりくたびれたふうに眉間を揉んでいた。
「いいかい。ハリーに警戒させるのは当然として、マリア、君だって気を付けなくちゃならない。ホグワーツで無茶をしすぎないように。目立った行動はひかえなさい。特に君は──ジェームズに似てかしこい」
シリウスの真面目ぶった眼差しとその言葉に、僕は面食らっていた。
シリウスが──
「ホグワーツで情報収集に動け、とは──言わないんだ」
「当たり前だろう。君たちは学生だぞ。騎士団に入ってるわけでもない。そんなのはスニベルス……いや、スネイプの仕事だ。危険は大人が背負うんだ。君たちは守られるべき存在だ」
シリウスが続ける。ルーピン先生も当然の顔をしている。二人は心から──僕たちを案じている。
「でも──父さんなら、こういったスリルを楽しんだんじゃない?」
「マリア……いいかい、君たちは確かにジェームズによく似ている。才能も受け継いでいる。だがね──ジェームズではないんだ。あいつの無鉄砲まで継いでくれるな。ちゃんと守らせてくれ」
シリウスは呆れたとばかりに首を振っていた。父親の顔をして、ハリーをハリーと呼ぶ。
僕はジェームズじゃない──そんなのは、『僕』が一番知っていたんだ。『僕』こそが、伝えたい言葉だったのに。
「シリウスは──ちゃんとハリーが見えてるんだね。父さんじゃなくて、ハリーが」
彼の灰色の目にジェームズの亡霊は映っていなかった。
「当たり前だ」
迷うことなく即答したシリウスに、僕は下手くそに笑った。そうしなければ、吐き出しそうだった。パーティーのご馳走をかもしれない。息をかもしれない。声かもしれない。とにかくぶざまをさらしたくなくて、笑った。
きっとこのシリウスがハリーを見てジェームズと呼ぶことはない。ハリーにジェームズと同じ冒険を求めることもない。自分の親友を取り戻そうとはしない。彼の中で──ジェームズは『過去』となった。ハリーがハリーとして生きている。
ああ──ああ────うらやましい。
***
九月一日。騎士団の護衛を受けながらキングス・クロス駅へと向かう。シリウスが犬となって忍ぶ必要もなく、どうどうと見送られる。ロンとハーマイオニーは監督生用のコンパートメントへと向かい、僕とハリーはジニーと共に空いている席を探す。
「マリア、マルフォイはいいの?」
「どうせあいつも監督生だからね。……ああ、ジニーからすれば僕はお邪魔虫かな?」
「そんなことないわ! もう、いじわる」
からかえばかわいらしくすねるジニーを愛でながら、ネビルと、そしてルーナが座るコンパートメントを発見した。
「彼女、ルーナ・ラブグッドよ。あたしと同じ学年のレイブンクロー生。ハイ、ルーナ! こちらは、」
「知ってるよ。あんた、ハリー・ポッターだ。それで、あんたはマリア・ポッター。ジニーがよく話すもン」
ルーナは常にびっくりしたような飛び出た目をパチパチとまばたきさせた。それから、ジッとハリーを見つめた。ハリーは非常に居心地が悪そうだった。
「その雑誌、いいよね」
ハリーをルーナの視線から救うべく、テキトウなおべんちゃらをかく。ルーナのお父さんが編集する『ザ・クィブラー』は彼女の自慢なのだ。誰もがバカにするインチキ雑誌だが、これが後々、奇矯にもハリーの生命を繋ぐこととなる。
一時間ほどすればロンとハーマイオニーもやってきて、コンパートメント内は賑やかになった。僕はすっかり忘れていた。──否、忘れようとしていた。『彼』の存在を。
「マリア」
シン──笑い声が冷や水でもかけられたように消えた。みんなの視線が僕へと集まった。
「歓談に水を注したようですまない。──彼女を借りても?」
ドラコ・マルフォイだ。胸には監督生バッジが誇らしげに輝いていた。
「マリア」
ハリーが僕の手を取る。ハーマイオニーが気遣わしげに僕とドラコとを見比べている。……やっぱり、二人には気付かれていた。僕が彼を避けていることを。
「大丈夫だよ」
「マリア……」
「時間は取らせないさ」
ハリーとハーマイオニーの目を振り切って席を立つ。ドラコはすでに歩き出していた。取っておいたらしい無人のコンパートメントへと案内されて。
「──返事は期待してない」
「────」
僕は座ることもできず立ち尽くした。
「……本気だったの?」
「本気じゃないとでも?」
「だって、君──おかしいだろう。君が、僕を──だなんて。僕は──君は、知ってるはずだ。────僕が、ほんとうは男だって」
「君の性別は関係ない」
引かれるままに彼の向かいへと座る。ドラコの目は静かだった。水面から覗く水底のような色をしていた。
「『君』だから好きなんだ。──ハリー・ポッター」
どのように解釈して、そしてどのように受け止めればいいのかわからなかった。
ドラコ・マルフォイが、ハリー・ポッターを、好き? ──世界まるごと、狂ってるみたいだ。
「……アステリアのことは」
「もちろん、愛しているとも」
「アステリアを愛してるのに、ハリー・ポッターも、好き?」
「そうだ」
「めちゃくちゃだよ……気でも触れたみたいだ」
「恋愛とは人を狂わせるものだろう?」
いつも通りのシニカルな笑み。──唐突に気付かされた。顎はシャープで、鼻はスッと立っていて、睫毛は涼しげに伸びて、瞳は静かで──手には血管と骨が浮き、腕も足もしなやか。声は────低くなっていた。
目の前の少年は男になろうとしていた。……僕を置き去りにして。
「マリア。いや、今はハリーと呼ぼうか。ハリー、返事はいらない。──まだ。君が僕をそんなふうに見ないことは知っている」
「…………」
「君をあそこから連れ出したのは別件だ」
組んでいた脚をほどいて、ドラコは瞳に不思議な光を宿した。僕はすっかり呑まれていた。彼の蠱惑的な魔力に。
ドラコは告げた。瞳に僕を捕らえたまま。ゾッとするほど──いつも通りの顔で。
「僕と共に────僕の父を殺してほしい」