大広間へとたどり着けば、様々な箇所がハリーたちの困惑を誘った。不在のハグリッド、警告を歌う帽子、埋まった闇の魔術に対する防衛術教授の席──なにかが動き始めていると、厳しい空気からもひしひしと感じられた。子供たちは不安げな顔を隠せなかった。
「なんてこと──あの女、とんでもない宣言をしていったわ」
「あの女って──アー……ドレス・アンブレラ?」
「「ドローレス・アンブリッジ」」
「そう、それ」
監督生の二人が一年生を寮へ案内するのについていきながら、声をひそめたハーマイオニーに同意を示す。ダンブルドアの挨拶をさえぎってまでされた甘ったる声のスピーチ──反吐が出そうだった。
「やっぱりわたしとマリアしか聞いていなかったのね。マリアはさすがだわ」
「君みたいにぜんぶを聞いてたわけじゃないよ。ハーマイオニーは僕を買いかぶりすぎだ」
「でも、理解できたでしょう? あの女がホグワーツになにをしようとしているのか」
「なにをしようとしているんだい?」
声をひそめることすら忘れたロンに、僕とハーマイオニーははっきりと答えた。
「魔法省が学校運営に」「介入してくるってことだよ」
男子寮と女子寮を前に分かれる際、僕は慎重にハリーをうかがい見た。周りはハリーを指してはひそひそとささやく。不快でたまらないだろう。すべてが敵に見える頃だ。ただひとつ、『僕』とちがうのは、ひそひそする人々の目には同情が浮かんでいることだった。日刊予言者新聞に踊らされる人々にとって、今のハリー・ポッターは、詐欺師ダンブルドアの魔の手にかかり正義の魔法省から保護を受けられない悲劇の男の子なのだ。
そうじゃない。──かわいそうに。
ダンブルドアは間違ってない。──かわいそうに。
僕は騙されてない。──かわいそうに。
僕の話を聞いて! ────かわいそうに。
憐れむだけの無責任な人々に、ハリーの声は届かない。
「ロン。ハリーのこと、見てやっててよ」
「ああ……うん」
ロンは一瞬、ハリーの八つ当たりに付き合うのは嫌だなぁ、といった顔をしたが、ハーマイオニーからも見つめられて、しぶしぶ風にうなずいた。男子寮の中までは女の子のマリアじゃすぐにかばいに行けないんだもの。
「君たちは
「僕たちが味方だ。そして君はぜったいに味方だ」
「その通り。──君があの子にそれをわからせてやって」
ようやっと、ロンは笑った。そんな僕たちにハーマイオニーが偉ぶった政治家のように咳払いをした。
「ハリーのことなら言われなくったって任されるわ。親友だもの。それで──マリア? まるで他人事のようにおっしゃいましたけど、あなただって『ふくろう』の年のはずなんだけど?」
「……ハァイ」
今回も勉強の鬼からは逃れられそうにない。
***
アンブリッジの初授業の日だ。すでにハリーのイライラは限界に達していた。イキイキとハリー(と、ネビル)をいびるスネイプ先生に、タイムリーにも夢占いの分野へと入った占い学。ただでさえ悪夢により慢性の寝不足と化しているハリーに追い打ちをかける宿題の山。そしてなにより、腫れ物に触れるがごとき周囲のよそよそしさ。そのすべてがハリーを追いつめていた。──僕たちを巻き込んで。
僕たちはハリー・ポッターという爆弾を常に抱えていた。
「ハリー、先に言っておくよ」
闇の魔術に対する防衛術の教室の前で、僕は三人を呼び止めた。
「次の授業で君はぜったいに怒る。ハーマイオニーも怒ると思う。良い授業にはならない。アンブリッジはクズだ。──いいかい、まともに相手をしようとしちゃだめだ。君は嫌な人間とのやりくりを覚えるべきだ」
「マリア。確かにあの先生はおかしいわ。校長先生の挨拶をさえぎるだなんて。それに、あの口調。わたしたちのことを一年生から七年生まで、まるで五才児あつかい。……でも、まだ、それだけよ。これ以上のクズかはわからないわ」
「いいや、クズだよ。あいつは」
ハーマイオニーは話にならないとばかりに肩をすくめた。そんな彼女を見てロンは兄そっくりにニヤッとした。
「ロックハートよりも?」
「ロックハートがかわいく思えるくらい」
ハーマイオニーの顔が赤くなった。例の事件以来、彼女の前でロックハートの名前は禁句なのだ。ロンのおかげで空気が緩んだところで──ハリーの導火線にぬる火がついた。
「マリアお得意の予言? どうでもいいよ、そんなの。僕にとってはみんな等しくクズだ。──あ、いや、君たちを除いて、だけど」
「ハリー」
「そんなに自信があるのならいっそ占い学も君が教鞭を取ればいいんだ。そうすれば、お友達が死ぬ夢ばかり見るのはあなたに死が近づいているから、なんてご高尚な解釈を聞かされなくて済む」
「ハリー、ちゃんと話を聞いて」
「聞いてるよ。ミスアンブリッジに怒らない。ああ、かまわないとも。彼女が僕をかわいそうな五才児あつかいしないならね」
ハリーはさっさと教室へと入ってしまった。僕と、そしてロンとハーマイオニーは言葉もなく顔を見合わせた。
「あいつ、マリアにすら当たるなんて──相当だぜ」
「そうよ。マリア、あなた怒るべきよ」
「……いや、僕に当たれるうちはいいんだ」
それで、彼の気が済んで、周りの声が聞こえるようになるのなら──『僕』のような致命的な間違いは犯さない。そう思いたい。
親友二人は名状しがたい表情で沈黙すると、やがてチャイムにうながされて入室した。
授業は『僕』の知っている通りだった。実践あるのみの防衛術に対して、ひたすら理論を説き、板書を書き取る。絶望的につまらなかった。ハーマイオニーが理解できたとばかりに僕へ暗い流し目を送った。僕はそれに首を振った。我慢して──そのうち別の形で学べるようになるから──
しかし、導火線にとっくに火が着いていたハリーにまで僕の煩慮が届くはずもない。
「それで、いつ実践に入るのですか。アンブリッジ先生。まさかこの時間ずっと、書き取りを?」
「発言には挙手を、ミスターポッター。どうして実践する必要があるの? この先だって実践はありません」
「なんだって?」
ロンが耳を疑うとばかりに声を張り上げた。触発されて、クラス中がペンを置いてざわめいた。
「試験に実技はないということですか?」
「理論を十分に勉強していれば、その時に呪文をかけられないということはないのですよ。ミスブラウン」
「フリットウィック先生は練習が大事だとおっしゃいます。マクゴナガル先生だって!」
「発言には挙手! ミスタートーマス。申し上げておきましょう。現在のホグワーツの教師方は、はっきり言って……」
そこでアンブリッジは薄ら笑いを浮かべた。誰が見てもわかる嘲笑の笑みだった。
グリフィンドールの寮生たちは等しくマクゴナガル先生を尊敬している。厳格な人だが、それだけ生徒たちを生徒として見守り愛してくれる人だ。ホグワーツの師であり母だ。それを──この女は侮辱した。今や教室中を不穏な空気が包んでいた。
「つまり、アンブリッジ先生はこうおっしゃるわけだ。今、目の前にヴォルデモート卿が現れたとしても──理論を知っていれば誰もが太刀打ちできると」
氷のような沈黙だった。誰もがハリーを見て硬直した。ただひとり──不気味な微笑みのアンブリッジを除いて。
「ミスターポッター、よろしいですか。死者はよみがえりません」
「ヴォルデモートは死んでなかった!」
「ええ。ええ。そう言えと強要されたのね? わたくしはきちんとわかっていますよ。あなたはこれまで多大なる恐怖に見舞われてきました。労しいことです。そしてあなたの最大の不幸は、周囲に正しい人間がいなかったこと……正しい判断ができなくなっていても仕方のないことでしょう。あなたのように純粋な坊やが……おお、わたくしは正しい大人として大変心を痛めています。──今なお、悪い大人に騙されて、かわいそうに」
「僕の周りには悪い大人なんていない!」
「ええ、そうでしょうとも。そう思いたかったわよね……さあ、そのお話は授業後にゆっくりしましょうね。みなさんも、かわいそうなミスターポッターのことをよく見てあげて。そして教えて差し上げましょう。──おそろしい闇の魔法使いはもういないのだと。みなさんでミスターポッターの病気を救いましょう」
もはや五才児あつかいですらなかった。親の命令がわからない三才児をあやす声だ。教祖がごとく腕を広げて、ガマガエルは薄汚れた偽善に酔いしれていた。
「それじゃあ──」
ハリーは椅子を蹴飛ばし立ち上がった。
「セドリックは勝手に──独りでに死んだと? ああ、それとも──僕たちが殺した?」
針のような緊張が走った。アンブリッジですら目を見開いていた。そして。
「──セドリック・ディゴリーの死は、悲しい事故です」
「ッセドリックは──」
「ハリー」
僕もまた立ち上がっていた。醜悪な女へ噛みつこうとするハリーの緑色の目が、様々な感情をふくんで僕を見た。
大丈夫。堪えられられる。──僕はこの痛みを抱えると決めたんだ。
「どうやら先生の授業は私たちには合わないようです。失礼します」
「認められません。ミスポッター」
「では、罰則を。マクゴナガル先生に伝えておいてください。行こう、ハリー」
「待ちなさい!」
ハリーの腕を取って退室する。適当な空き教室へと入り(まともな部屋にたどり着くまでにフェイクの扉一つと、教室内が空洞の部屋に当たった。ホグワーツではサボりすら命がけだ。)ハリーと向き合った。
「ハリー」
「我慢しろって言いたいんだろう」
「……いいや」
見上げる位置に変わった肩を抱きしめる。ハリーは拳を握って唇を噛みしめていた。
「僕も我慢できなかった」
「うそだ」
「ほんとう。……セドリックへの侮辱を、僕らだけは許しちゃならない」
くしゃくしゃ頭をゆるく撫で付ける。ハリーははじめて呼吸を思い出したように、ゆっくりと息をはいた。
「マリア──君だけは──」
「うん……うん」
授業終わりのチャイムが鳴るまで、ハリーの手は僕の背のローブを握り続けていた。