アンブリッジは僕の挑発を言葉通りに受け取ったらしい。苦々しい顔のマクゴナガル先生を前に、僕まで苦笑いだった。
「グレンジャーからおおよその流れは聞いています。あなたが兄弟をかばったことくらいはわかっていますよ。もっとうまくやるように、とは──あなたにはいらない説教でしょう」
「ただの私怨です」
「ええ。そう言うだろうこともわかっています。ですから、私が伝えたい言葉はあなたではなく弟君に言伝するとしましょう」
「……お手柔らかにお願いします」
「あなた次第ね」
罰則内容が記された羊皮紙を手渡しされる。放課後にアンブリッジ教授の準備室へ──やはり例の卑怯な体罰だろうか。
「すぐに行ったほうがよさそうですね」
「……気を付けて」
「はい。ありがとうございます、マクゴナガル先生」
ほんとうに、心から僕とハリーを案じてくれるマクゴナガル先生に張りつめていた気をゆるめて微笑む。ホグワーツは尊敬できる大人ばかりだ。
アンブリッジの部屋──ルーピン先生との思い出がつまった教科準備室は、面影を完全に破壊して待ちかまえていた。仔猫の絵と攻撃的なまでのピンクにクラクラした。絶句する僕をよそにアンブリッジは甘ったるい夢見る少女の声で誘った。……夢見る少女ならばルーナのほうがよほど心地いい。
「素敵でしょう? 乙女同士、きっとわたくしたち、よいお友だちになれますわ」
よいお友だちとやらをこれから体罰に処そうというのに、アンブリッジはまるで茶会の女主人がごとく悠然と微笑んだ。指で机を指して、そこに向かう僕の一挙一動を観察していた。
「あなたの評判はきいていますよ、ミスポッター。優秀で、理知的で──とても、ご兄弟に献身的だとか。同学年の中でもリーダー的存在なのね」
「まさか」
「みんながあなたを誉めましたよ。──あなたの弟とはちがって」
机の下で拳を握りしめる。爪の痛みに集中して頭を透き通らせる。例の羽ペンが出てくる様子は──まだない。
「わたくしにもね、弟がいたの。ほんとうに──不出来で、どうしようもなく、愚かな弟。血が繋がっているなどと考えるのもおぞましい子。わたくしは不遇な幼少を過ごしました……ですから」
アンブリッジはハエをとらえたガマガエルのように、ニッタリと口角を吊り上げた。
「あなたの気持ちがよくわかるの」
「……私の、気持ち──ですか」
ねばつくような目から、嗜虐的な色が覗き始めていた。
「かわいそうなマリア。あなたは優秀なのに、兄弟というだけでお荷物を抱えなくてはいけない……。姉というだけでかばわなくてはならない。面倒を見なくてはいけない。考えたことがあるでしょう? ──あんな子、いなければ。と」
僕は。
「──いいえ」
きっぱりと、迷いひとつなく首を振った。
「いいえ。ハリーがいなければ、なんて、一度も考えたことはありません。僕はハリーを愛しています。……あなたとちがって」
目覚めたとき、僕が二人いるなんておかしな感覚だった。僕の弱さ、愚かさをハリーを通して突きつけられ、悔しい思いもした。ままならなくて、ハリー・ポッターでない身を呪ったりもした。──だけど。
「……そう」
アンブリッジの目から急速に温度が消えた。
「罰則に入りましょう。このペンを取って」
インクを必要としない黒羽根のペンを渡される。まだなにも書いていないのに、手の甲がうずく感覚に襲われた。
「そうね……『わたしは教師に歯向かってはならない』──そう、書き取りをするのよ」
今さらインクについて聞くのもバカらしくて、歯を食いしばって羊皮紙へと立ち向かった。手の甲に傷が刻まれていく。わたしは──教師に──歯向かっては──ならない────バカバカしい。
「わたくしの言葉をよーく考えてちょうだいね。わたくしは、あなたの味方よ」
手の甲にミミズ腫れが浮かんだ頃、アンブリッジはうっそりと傷を撫でて解放を宣言した。僕は最後まで弱味を見せずに退室した。足音だって聞こえなくなるところまで歩いて──食いしばり続けていた息を大きくはいた。
「──僕は、あなたの都合のいいスパイになったりはしない」
傷痕を睨みながら呟く声は、憎々しさにあふれていた。
「──なにをしている、ポッター」
咄嗟に手を隠した。それがなおさら、彼の関心を引いてしまった。
「スネイプ先生……あっ」
問答無用で手首を取られる。すっかり夜に染まった廊下で、彼の暗い瞳が手の甲を見つめる。言葉はなかった。手首から伝わる人肌のぬくもりに、居心地の悪さをだけを感じていた。
「……あの、もう、戻りますので」
「ついてきたまえ」
「え?」
手首は放され、重そうなローブをひるがえしてスネイプ先生は歩き出した。振り返りもしない。歩みを合わせることもない。ついてこいと命じながら、それを期待していないように見えた。そう思うと──なんだか悔しくて、駆け足で隣へと並んだ。
たどり着いた先は予想の通りスネイプ先生の準備室だった。最低限の明かりしかないそこで、スネイプ先生は隅々まで見えているかのように迷いなく小瓶を取った。
「痛みと化膿止めだ。完全に治しはしない。……数日は、見せておく必要があるだろう」
「どうして……」
スネイプ先生は答えなかった。一度も目を合わせず、機械のような単調な動きで薬を僕の手の甲へと塗りつける。僕はそれに一瞬だけうめいて──うめいてしまったことに驚いた。アンブリッジの前では我慢できたのに。きっと、ハリーや親友たちの前でも我慢できるのに。
「お前は──泣かないな」
ねっとりとした前髪が遮光カーテンのようにさえぎって、彼の表情は見えないままだ。声からだって感情はうかがえない。──言葉だけが頼りだった。
「泣いたところで、時間は戻りませんから」
たとえば、名前も性別もちがう他人として生きない限り。──なんて。
「……フン、送ろう」
「ありがとうございます」
刺すような痛みはすっかり落ち着いて、ローブの中で意味もなく指を遊ばせながら、グリフィンドール寮の下まで僕はスネイプ先生の隣を歩いた。
女子寮の自室にはハーマイオニーの姿しかなかった。ハーマイオニーは髪を苛立たしげにかき上げながらベッドへと座っていた。編み物テロを未遂で止めて以来、彼女は勉強のかたわら、屋敷しもべ妖精救出法について頭を悩ませているのだ。見慣れたしかめっ面の彼女に、今回もそれだろうと苦笑すれば目ざとく見とがめられた。
「ああ、マリア! きいてちょうだい。フレッドとジョージが──彼らったら、一年生で商品の実験を──まあ!」
ハーマイオニーはほんとうに目ざとい。彼女に隠し事は通用しない。……たとえば、怪我だって。
「なによこれ……なんてこと……抗議よ」
スネイプ先生とはまるでちがう力強さで手首を取られる。鼻息荒く下りた先、一緒に宿題をしていたらしい談話室のハリーとロンがハーマイオニーの登場に目を丸くしていた。
「いいところにいたわ。ごらんなさい、ハリー。これを見てマクゴナガル先生の言葉をよく思い出すことね」
「待って、ハーマイオニー」
「なんだよ、君……フレッドとジョージならもう寝室に──ウワッ、なんだこれ」
ロンがミミズ腫れを目に入れてぎょっと目を剥いた。ハリーは呆然としていた。
「マクゴナガル先生がおっしゃったでしょう。真実が必ずしも正義になるわけじゃない──常識を働かせなさい、と。こういうことなのよ。あなたが勝手をすればマリアにまでシワよせがいくの。あなたは自分の発言力を理解しなくてはならないわ」
「ハーマイオニー、いいんだ」
「よくないわ! マリア、あなた、ハリーを甘やかしすぎよ。さあ医務室へ行きましょう。その次はマクゴナガル先生のところよ」
「ハーマイオニー!」
持ち前の押しの強さで暴走しかけるハーマイオニーを、取られた手首を逆手に止める。ハーマイオニーは不満たっぷりに振り返った。友のこととなると彼女の沸点はぐんと低くなる。
「怪我なら大丈夫。薬をもらったんだ」
「……誰に?」
胡乱な目のハーマイオニーへと小瓶を差し出せば、さらに胡散臭そうに見られた。
「アー……スネイプ、先生」
「エーッ!?」
ロンが声をひっくり返らせた。
「あら、そう。スネイプ先生なら間違いはないでしょう。それなら、まっすぐにマクゴナガルのところだわね」
「それもナシだ」
ハーマイオニーの目がつり上がった。ロンと、それからタイミング悪く談話室へと下りてきていたネビルの肩が跳ね上がった。
「まだたった一度の罰則だよ。様子見──君がいつも言うことだろう?」
「でも、あなたはあの女はクズだと言ったわ。そしてわたしも確信しました」
「僕が間違ってるとは思わないの?」
「思わないわ」
それは信頼からの言葉だった。純粋で、まっすぐで──力強すぎて、痛い。
ぐずりと、腹に石を投げ入れられた気分だった。
「……僕は、間違えてばかりだよ」
ハリーであった頃とはちがう言葉が刻まれた甲を見つめながら、誰にも届かず声は足先へと落ちていった。
***
「マリア」
示し合わせたわけではない。そんな気がした──としかいいようがないのだけど。みんなが寝静まった談話室で僕はハリーの隣へと座っていた。
「ごめん」
「その謝罪は受け取れない。これは僕が勝手にやったことだ」
「受け取って。行き場がなくなってしまう」
「…………」
行き場のない懺悔は蓄積するしかない。僕はそのつらさを知っている。──うなずくしかなった。
「マリアは、僕を責めないね」
「責める必要がない」
「ほんとうに?」
暗い談話室でハリーの瞳は、自ら発光しているかのように不思議な光を持っていた。
「──ほんとうに?」
「……ハリー?」
「マリアは大人だ。すぐに誰とでも仲良くなれる。寮関係なく友達がいる。あのスネイプとすら──僕が、あいつを嫌ってるのを知ってるくせに」
「ハリー、待ってよ。スネイプは」
「シリウスとも仲良しだ。ルーピンもマリアをかわいがる。マクゴナガル先生にも気に入られている。……ダンブルドアとだって、実は繋がってるんだろう」
エメラルドの瞳の魔力にあらがえなくて、見つめあったまま首を振る。
「そんなことない! 僕──知らないよ、ほんとうに」
「僕たち、双子なのに。すべて同じ時間を過ごしてきたのに。──どうしてちがうんだろう」
「ハリー……」
ちがう。ちがうわけない。だって僕は──ハリーだ。
「ハリー、僕たちはちがわないよ。同じだ。君は僕で、僕は君だ。今、君は──傷が痛くて、夢がおそろしくて、だから不安定なんだ。大丈夫、君は愛されてる。ほんとうに──みんなが
君には、そんなふうになってほしくないんだ。
「そこにマリアがいなくちゃ意味ない」
「もちろんだよ。……僕が一番、君をわかってる」
僕は──君だから。
少しずつ心の均等が崩れゆくハリーを繋ぎ止めたくて、必死に抱きしめた。どうすれば伝わる。どうすれば────あの頃の『僕』には、誰の言葉が届いた?
「それなら、そばにいて。ちゃんとそばにいて」
「うん──うん」
抱き返してくる腕が苦しくても、ふがいない自分への悔しさも呑み込んで、されるがままにあるしか僕にはできなかった。