「──弟は、両親にとって実によい息子だった」
扉に書かれた、ちょっと気取った文字をシリウスが撫でる。
『許可なき者の入室禁止──レギュラス・アークタルス・ブラック』
ハリーはこの時になって、ようやく気になっていた部屋の主とシリウスとの関係を知った。シリウスは弟の部屋を避け続けていたのだ。
「軟弱でおろかな弟だった。両親の言いなりで──ヴォルデモートの信奉者でもあった」
ハッと息を呑む音が聞こえた。ハリーからだ。シリウスはかまわず扉を開いた。昨日だって訪れた部屋だ。だというのに──ハリーには途端におそろしい場所に思えた。
「ヴォルデモートの信奉者である──この意味がわかるか? つまりは、死喰い人であったということだ。ゆえに、殺された。弟が十七の頃だ。……私は、その事実をずいぶんと知らずにいたがね」
部屋は綺麗なままだ。心から主を慕うしもべであり友によって守られた、永く誰にも侵すことを許さずにいた語られぬ英雄の聖域。
僕は思い出していた。水盆の毒に苦しむダンブルドアの姿を。あのダンブルドアでさえ殺してくれと乞う地獄の痛み──それに、十七歳の少年が堪えきったのだ。すべては──友と家族を守りたいがために。
「結局、弟は逃げ出したのだ。すべてが中途半端だった。ヴォルデモートの残虐行為に恐れをなして──ぶざまに尻尾を巻いて自業自得で死んだ」
彼が守りたかった家族の──兄であるシリウスの口から彼に対する侮辱がつづられるのは、ひどく残酷に思えた。
「──ほんとうに?」
少女の声は場違いなほど響いた。部屋がそれを求めたように感じた。
「どうしてそう言えるの? シリウスはレギュラスの死を知らなかったのに?」
「マリア──?」
「シリウスの知るレギュラスは軟弱者でしかなかった? レギュラスとの思い出はそれだけ? ──彼の死因を知るものが他にいるかもしれないとは考えなかった?」
シリウスは戸惑う前に苛立ちを見せた。それほどに、彼のかつての家族について触れることは危険だと暗黙の了解があったのだ。
「君がなにを言いたいのかは知らないが、父も母もとうの昔に死んだ。ルシウスやベラトリックスならばともかく、ナルシッサがレギュラスの件に関わっているとも思えない。ブラック本家の残りは俺だけだ。それで、誰に聞くんだ? ダンブルドアか? それともヴォルデモート本人か? どんなふうに死喰い人を使って私の弟を殺してくれましたか──とでも?」
「あなただけじゃない」
手に力がこもって気付いた。無意識にハリーの手を握っていた。ハリーは迷うことなく握り返してくれた。
「この屋敷を、老いてなお守り続けてきた存在がいるじゃないか」
シリウスはとうとう黙りこんだ。彼の優秀な脳が答えを導き出せないはずがない。
「僕のお願いはこれだよ。──クリーチャーからレギュラスの話を聞き出して」
緊迫した空気が僕たちポッター兄弟とシリウスのあいだに張りつめた。
「マリア……目的が見えない」
「そんなのはどうだっていい。僕の下世話な好奇心だよ。だから、お願いだからレギュラスの最期を知って。クリーチャーはあなたの命令には逆らえない。無理矢理だっていいから。──あなたで、ないと」
だって、他人の『僕』でなく家族であるあなたに託されるべきだったんだ。彼の意志は。──あなたは、弟の真の勇気を知らずに死ぬべきではなかった。
シリウスは戸惑いながらも数秒を使って、葛藤の末にうなずいてくれた。かなり嫌々ではあったけれど、いわゆる根負けだ。
「わかった。約束をやぶる男だとは思われたくないからな。──クリーチャー!」
シリウスの呼びかけひとつで鶏ガラのような屋敷しもべ妖精が姿を現す。クリーチャーはレギュラスの個人部屋へと侵入していた僕らを見回してギョロつく目でにらんだ。これまで何度か顔を合わせた中でも最高の憎しみがこもっていた。
「何用でしょうか、ご主人様。……クリーチャーは許せない。レギュラス様のお部屋をブラック家の裏切り者と野良犬どもが土足で踏み荒らしている。ここだけは穢されてはならない。クリーチャーは絶対に許してはならない──」
「そのレギュラス様の話だ。──お前はレギュラスがどんなふうにして死んだのか、知っているのか」
クリーチャーは糊でもつけたように唇を引き結んだ。明らかな拒絶の表れだった。それによってシリウスも確信した。──このしもべはなにかを隠している。
「命令だ。嘘も誤魔化しも許さない。レギュラスについて話せ。──弟はどのようにして死んだ」
「…………」
「クリーチャー……現当主である私に逆らう気か?」
「いいえ、滅相もございません。クリーチャーめはブラック家の忠実なしもべです。……クリーチャーは、クリーチャーは話したくない。この男にだけは──ブラック家を、レギュラス様を裏切ったこの男にだけは──」
「クリーチャー」
額を床にこすりつけ、全身を使って震える哀れなしもべ妖精の前に膝をつく。クリーチャーは顔を上げなかった。それでも、僕にはわかった。『僕』はクリーチャーが泣く姿を知っている。
「クリーチャー」
触れずに、声だけを届ける。
「──レギュラスのロケットを、取り戻してくるよ」
クリーチャーは息もつかぬといった早さで頭を上げた。ただでさえ大きな目が極限まで開かれていた。
「なぜ──なぜ──」
「だから、話してくれ。君が誇る主人の話を」
ぼろぼろとクリーチャーの目から涙がこぼれ落ちた。僕の肩にはハリーの手があった。シリウスは呆然とクリーチャーを見ていた。シリウスは知らなかったのだ。──しもべ妖精にだって、僕たちと同じように誰かを想い泣く心があることを。
「クリーチャーは──レギュラス様の命令を、果たせませんでした」
クリーチャーは語った。喘ぎ喘ぎに、最愛の主人の勇敢でかなしい最期を。屋敷しもべ妖精のクリーチャーを家族として、友としてかわいがったレギュラス・ブラック。命の危険にさらされたクリーチャーのため立ち上がった優しい人。家族のため誰にも告げずに暗い湖の底へと沈んだひとりぼっちの少年。
シリウスはクリーチャーの告白を止めなかった。しもべ妖精特有の甲高いしゃがれた声がただの嗚咽に変わった頃には、誰もが想いを抱いて黙した。空気が質量を持ったかのように重たかった。僕はシリウスを見上げた。
「あなたの家族に──あなたと同じように闘った人がいたんだ」
シリウスは灰色の瞳を揺らして、埃一つない特別磨かれた床へと崩れ落ちたクリーチャーを見つめた。
「……少し、ひとりに、してくれないか」
「シリウス」
「出ていってくれ」
クリーチャーは体を引きずってシリウスの命にしたがった。そして僕とハリーも、しきりに振り返りながらレギュラス・ブラックの部屋をあとにした。扉を閉める間際、室内に残されゆくシリウスの背中は、重さに耐えるように丸められていた。
「……ねえ、マリア、君は──」
「ハンカチは必要かい? ハーマイオニー」
廊下の向こうで物の倒れる音がした。おそるおそると角から現れた頭は二つ。ロンとハーマイオニーだ。ハーマイオニーは泣き腫らしながらも大慌てで目をこすっていた。……ハンカチは水で濡らしておいた方がいいかもしれない。
「あの──わたしたち──」
「盗み聞きするつもりじゃなかったんだ。ほんと。僕はやめとけって言ったんだよ。でも、ほら──わかるだろ?」
ハーマイオニーが裏切り者を見る目でロンを見上げた。察するにロンも望んでここにいたのだろう。どうせハリーが後々に報告すると見ていた僕は、呆れ半分、手間が省けてよかったと思うことにした。
「怒ってないよ。僕たちがこそこそ居間を抜けたから気になったんだろう?」
「伝言を伝えたかったのよ。ウィーズリーおばさまが、午後にはウィーズリーおじさまのお見舞いに行きましょうっておっしゃったの。そうしたら、シリウスがクリーチャーを呼ぶ声がして……」
「虐待がおこなわれないか心配になった?」
「…………」
ハーマイオニーは恥じ入るようにうつむいた。
「繰り返すけど、僕たち、怒ってないよ。だって君たちにも教えるつもりだったもの。そうでしょう? ハリー」
「もちろん」
「というわけで、居間へ戻ろう。朝食を食べそびれちゃった」
「ママがサンドウィッチを残してたぜ」
「それはいいや!」
いつもの四人組でレギュラス・ブラックの名の書かれた部屋から離れる。誰からもあえて話題に出さない気遣いを感じた。
どうか、失敗でありませんように──祈る。クリーチャーが心を開いてくれますように。シリウスが心を信じてくれますように。
力を貸してくれ。──R・A・B。