この洞穴を見るのは二度目だ。体が震えた。冬の海の冷たさからか、獣の口のような穴の深さからか。大きな大人の手が二つ、肩を撫でる。優しい体温にほんの少しだけ心が落ち着いた。
「ここだな」
男のかすれた声が呟いた。僕と、シリウスと、ルーピン先生と。そしてクリーチャーは大口を開けて待つ地獄の穴を見上げた。誰の心にも恐怖と決意があった。
再び、僕は亡者うごめく洞窟の前へと立っていた。
***
「マリアを借りてもいいかい」
昼食を終えて、いざ聖マンゴへ向かおうという時に思い詰めた顔のシリウスが切り出した。予想していた僕と、事情を知る親友二人は、ああ……と目だけでうなずきあった。シリウスがうかがいを立てた相手はハリーだ。ハリーは、はっきり顔に不満を浮かばせながらも答えず二階へと上がった。シリウスは苦笑した。なんだか今だけは隣に並ぶルーピン先生と同じくらいくたびれて見えた。
「──許してはくれなさそうだ」
「ハリーが一緒だとダメなの?」
「護衛つきで人が多くいる病院と、人知れず隠された洞穴──君はどちらが安全だと思う?」
「……連れていけるわけないか」
至極当然に返されて、僕も大人二人へと苦笑せざるを得なかった。つめたいように聞こえるが、現在の不死鳥の騎士団の最優先事項はハリーの身の安全と護衛だ。拘束が僕とは比べ物にならないのだ。
「しかたないな。案内役は──」
「マリア、これを使って」
拒絶を示したと思われたハリーは、透明マントを手に戻ってきた。指に触れた水みたいななめらかな感触に僕はぽっかりと口を開いてしまった。
「用心して、必ず戻ってきて。無茶はダメだよ。ぜったいにダメ。シリウス、マリアから目を離さないでね。この子、ほんとうに無鉄砲なんだから」
「……もちろんだとも」
「ハリー……いいの?」
「いやだけど──約束してくれたから」
不満たっぷりの拗ねた顔。そこに見える──隠しきれない不安。
「そばにいるって、言ってくれたじゃないか。それって、どこにいても必ず僕の元へ帰ってくるってことだろう? ……信じてるから」
咄嗟に抱きしめていた。いじらしい僕の兄弟。愛する、たった一人の血の繋がった家族。
「当たり前だよ。……僕、君におかえりって言ってもらうことに慣れちゃったんだもの」
おはようも、おやすみも、ただいまも、おかえりも──君の声でないと物足りないんだ。
「うん──信じてる。シリウスのことも、ルーピンのことも」
何度か背を撫でられて、額に額を当てられた。ハリーは少しだけ身をかがめていて、明確な身長差に悔しくなった。
「僕は君の兄さんだからね」
「……僕が姉だよ」
ハリーの笑みは穏やかだった。
***
暗い洞窟の中は空気すらもしめっていて、杖の先に光をともしていようと先は見えない。不快感がゾッと肌をなめていく。『僕』は一度経験している。だから進めた。だが、それはダンブルドアという絶対的な盾があったからだ。今にも奥から魔物が姿を現しそうな闇の中、臆することなく歩みを進める大人の背中に他人事にも感心していた。
これは、きっとハーマイオニーならば無謀と呼ぶ行為だ。……たぶん、ドラコもそう言うだろう。怒りと嫌悪を乗せて。
クリーチャーが立ち止まる。壁を見上げて、暗い目で「ここに扉が隠されております」と告げる。
「扉? ただの壁だろう。開くのに条件があるのか」
「──血だよ」
声の一つ一つが反響して不気味に響いた。歪んで耳へ返ってくるのだ。
「通行料だ。血を捧げなくちゃダメなんだ」
シリウスはためらいなく己の腕を杖で切りつけた。止める間もなかった。静かな瞳で壁へと傷口を擦り付け、扉を開いた。
「シリウス……」
「なぜ君が扉の開き方を知っているのか──それは聞かないよ。聞かないと決めたんだ。だから、教えてくれるだけでいい。この先にはなにがある。なにをすれば──レギュラスのロケットを取り戻せる」
「……先には──」
僕が答える前に答えは目の前に広がった。黒い湖だ。向こう岸が見えないくらい広く、天井は高い。──この下に、レギュラス・ブラックは眠っている。
「レギュラス坊っちゃまは小舟を発見されました。闇の帝王が使った小舟です。ご自身で見つけられました──」
クリーチャーはチラリとシリウスを目だけで見上げると、軽蔑の眼差しのまま口元を歪めた。シリウスはクリーチャーを見てはいなかった。緑に光る湖の中央を一心に見つめていた。
クリーチャーはいまだシリウスを許してはいない。協力するのは当主としての命令があるからだ。そしてレギュラスのためだからだ。それがありありと伝わる顔だった。お前とちがってレギュラス坊っちゃまは自分だけでこれらの妨害を突破したのに──そう、クリーチャーは言いたいのだ。
ゴムのような手が宙をまさぐる。やがて、クリーチャーの手には鎖が浮かび上がった。鎖の先には小舟が湖を泳いでいた。
「一人用か」
「ヴォルデモートが使うためのものだからね。一人の魔法使いしか乗れないようになってるんだ。つまり──成人でない僕はカウントされない」
瞬時に意味を理解したシリウスはじっと僕を見た。僕も負けじとシリウスを見つめた。けれども、シリウスは折れなかった。
「だめだ。ここにいなさい。ハリーと約束したからね。リーマスから離れないように。リーマス、わかってるな?」
「いっそ僕が行こうか?」
「俺の弟が害されたんだ。それはすなわち──ブラック家そのものに対する喧嘩だ。俺には買う権利がある」
シリウスの瞳はギラギラと緑の光をにらんでいた。──怒りに美しく輝いていた。
「この先の敵はなんだ。マリア」
「……湖の中に亡者がいる。そして──毒。ロケットは毒で満たした水盆に沈められていて、すべてを飲み干さないと取り出せないようになってるんだ。……どれほど強力な魔法使いだって、殺してくれと叫ぶような毒だよ」
クリーチャーが震えるのが見えた。クリーチャーは毒の苦しみを経験している。そして、今、再び────
「わかった。──クリーチャー、俺に何があっても毒を飲ませ続けろ」
すべての目がシリウスへと集まった。クリーチャーですら目玉を剥いてシリウスを見上げていた。
「ご主人様──?」
「そしてロケットを取り次第、俺を連れて必ずマリアの元へと戻れ。万一、俺が口が利けない状態にあったらマリアの言葉にしたがえ。いいな、ここまでが命令だ。この間、俺がなにを言おうとも命と受け取るな。これも命令だ」
クリーチャーは呆然としていた。ルーピン先生も、そして僕も。みんながこう思っていたのだ。──シリウスはヴォルデモートと同じようにクリーチャーに毒を飲ませるだろう、と。シリウスは屋敷しもべ妖精という生き物を軽視していた。
シリウスの中で──なにかが変わり始めていた。
シリウスとクリーチャーを乗せた小舟が湖の中央へと遠ざかっていく。目が離せなかった。僕の肩を抱きながら、ルーピン先生も二つの背中を見つめている気がした。
久遠のような時間に感じた。シリウスがひざまずく。クリーチャーが側でなにかを動かしている。声が聞こえた。はじめは小さく、湖が無音でなければ掻き消えていただろうくらいの──そして声は徐々に大きくなる。呻く。喘ぎ、懇願する。────シリウスだ。
「──るして、くれ。そんなのは、いやだ」
「おれは──ちがう。俺は、こんなつもりじゃ──」
「おれが間違えた。おれのせいだ。どうして──」
耳を塞ぎたくなった。涙があふれそうだった。それでも、僕はシリウスを見続けた。シリウスの小さくもだえる哀れなシルエットを目に焼き付けた。ダンブルドアが幻覚に己の罰を乞うたように──シリウスは自分自身が課した罪に苦しんでいた。
「ゆるさないでくれ。どうか──殺してくれ──────ジェームズ」
クリーチャーの手の中でなにかが光った。次の瞬間には、シリウスを掴んだクリーチャーが僕の元まで姿現ししていた。シリウスの目は虚ろだった。
「シリウスッ!」
「マリア、前に出るな! ──インセンディオ!」
「でも──ああ、シリウス……っ」
シリウスの手が宙をもがく。水を……そう、うわ言に繰り返す。湖は亡者であふれていた。このままでは全員が呑まれてしまう。
「クリーチャー、命令だ! 僕たち全員を──グリモールド・プレイス十二番地に付き添い姿現しするんだ!」
ぐにゃりと歪む視界の最後に映ったのは、ロケットの輝きと亡者を包む炎の海だった。
***
クリーチャーが飛んだ先はシリウスの部屋だった。現在のシリウスが使っている部屋ではない──学生のシリウスが家出をするまで使用していたと思われる部屋だ。主張の激しい赤色で統一され、オートバイの切り抜きやグラマラスな女性のポスターなんかが色褪せた状態で壁に貼られていた。レギュラスの部屋とちがって埃が目立ったが、クリーチャーは良くも悪くもこの部屋に手を入れることはなかったようだ。
シリウスをベッドへ寝かせて、クリーチャーに持ってこさせたコップに水を満たしてシリウスへと手渡す。
「シリウス、シリウス、もう大丈夫──大丈夫だから──」
「……ジェー、ムズ」
シリウスの指が僕の目元を撫でる。僕の目に父を見ている。ツキリと胸が痛んだ。──それでも、かまわない。
「……ああ。なんだい? パッドフッド」
「ジェームズ……俺は……」
「少し休むといい。君はまた無茶をしたんだ」
「俺は……許して……おれを、ゆるさないでくれ……」
「許すさ。親友だもの。……君を許すよ、シリウス」
シリウスはほんの少し微笑んでから目を閉じた。シリウスの息がぐっと深くなった。
「マリア……」
「ありがとうございます、ルーピン先生。先生がいなければきっと、僕もシリウスも湖に引き込まれてた。……クリーチャーも、ありがとう」
クリーチャーは眠るシリウスからコップを取り戻すと、ぶっきらぼうに僕へと鎖を押し付けた。──レギュラスのロケットだ。
「クリーチャー……?」
「ご主人様からお預かりしてよいと命を受けておりません。クリーチャーはお嬢様が持つべきであると判断しました」
「あっ」
クリーチャーは退室の礼もなく部屋から出ていった。残された僕とルーピン先生は信じられない気持ちで見つめ合ってしまった。
「……これって」
「君は思っていた以上に偉大なことをしてしまったのかもしれないよ。マリア」
ルーピン先生がクスクスと笑った。つられた僕も、吐き出すようにくしゃくしゃになって笑った。