「おかえり、マリア!」
ハリーにぎゅうぎゅうに抱きしめられる。苦しくて、笑いながらハリーの背を叩けば渋々面で解放された。
ハリーの部屋だ。室内にはロンとハーマイオニーの姿もあった。
「怪我らしい怪我がなくてよかったわ。シリウスは寝込んでると聞いたけど……ルーピン先生が看病しているのよね? どうしてマリアまで行かなくちゃいけなかったの?」
「病院で僕たち、ネビルのばあちゃんに会ったんだ! それで、ネビルのママが──」
「その話はあと。レギュラスのロケットは取り戻せたの? マリア」
三人が示し合わせたみたいにいっせいにしゃべり始めるものだから、一度逃げ出したハリーの腕の中に戻り直してしまった。ハリーはニッコリとした。
「これがレギュラスのロケットだよ」
「これによく似た物を、ヴォルデモートが湖に隠していたのね。そして今はクリーチャーが持っている……」
「そうなるね」
ハーマイオニーがロケットを慎重にいじる。開いた中身は空っぽだった。──僕が取り除いたのだ。まだ、分霊箱のことを知られるわけにはいかない。然るときにその他の分霊箱と共にハリーに譲ろうと考えている。シリウスやハーマイオニー……彼らの優秀な頭脳からハリー自身が分霊箱である可能性について勘づかれるわけにはいかない。
「ああ、僕、わかったぞ。そのロケットがジョージが盗み聞いた『例のあの人』の武器なんだ!」
「ちがうと思うわ。ヴォルデモートは『手に入れてない』武器を探しているのよ。ヴォルデモート本人の所有物じゃ辻褄が合わないわ」
ハーマイオニーにバッサリと切られてロンはちょっぴり拗ねた。
「けれど、だとすればヴォルデモートはなんのつもりでロケットを隠したのかしら。なにかすごく、重要なアイテムなの──?」
……さすが僕らのブレーン、ハーマイオニーだ。うかうかしていると一人だけで分霊箱の存在へとたどり着きかねない。
僕が心底からひやひやしていると、ハーマイオニーからロケットを取り返したハリーが僕ごと立ち上がった。
「ともかく、クリーチャーへ渡そう。シリウスもそうするつもりだったと思うんだ。それで、ヴォルデモートのロケットと交換してもらおう。いいかい? マリア」
「ハリーの望む通りに」
胸のすく思いで兄弟を見上げた。──どうか君はそのまま。
間違えないで。
***
ハリーから改めてロケットを渡され、そして唯一実行できなかったスリザリンのロケットの破壊をハリーに約束してもらえたクリーチャーは、再び泣き崩れた。ハーマイオニーはもらい泣きしていた。その日からクリーチャーの態度は間違いなく軟化した。相変わらずぐちぐちと文句を言う癖はあるものの、慇懃無礼な態度は心持ち鳴りをひそめていた。そしてシリウスも、クリーチャーをその辺の雑巾でも見るような目で見ることはなくなった。改まった交流があるわけではないが、それだけで屋敷の空気がほんの少し変わった気がした。
「ハリー、マリア、準備できたか」
玄関でシリウスが穏やかに僕たちを呼ぶ。クリスマス休暇終盤の本日、シリウスの計らいにより僕たちポッター兄弟はゴドリックの谷へと両親の墓参りに行く予定となっていた。もちろん、万全の護衛つきだ。念のため透明マントをハリーのポケットに突っ込みながら、大人たちの群れに混ざる。玄関先でクリーチャーが見送りのために頭を下げていた。
「まだ奴らが行動に起こすとは思わないが──ま、用心して損はない」
マッドアイが目も鼻も利かせた中で進む。トラブルひとつなく両親の墓の前へとたどり着いた。気を利かせた騎士団員たちが一時的に解散してくれたおかげで──当然、見えないところで待機しているだろうことはわかっていた──シリウスとハリーと僕の三人だけになった。
美しい大理石だ。両親の名前と生年月日、没年月日、その下には『いやはての敵なる死もまた亡ぼされん』と刻まれていた。
……ひさしぶり。父さん、母さん。
「……僕、周りを見てくるよ」
「ハリー? ひとりはダメだ」
「透明マントをかぶっておく。トンクス辺りと一緒にいるから」
「ハリー、待ちなさい!」
制止を振り切って消えたハリーに、追おうとしたシリウスを止めたのは僕だった。
わかるのだ。ハリーは堪えられなかったのだ。かつての『僕』がそうであったように──両親の死と、あったかもしれない故郷での生活を浮かべて苦しくなったのだ。『僕』は時に任せて痛みを癒していったけれど、こちらのハリーははじめて直面した。鮮明に目の前へ差し出されてしまった。理不尽に奪われたものを。当たり前にあるはずだった形を。あの子にもまた──どうしようもなく時間が必要だった。
「大丈夫だから」
シリウスはしぶしぶと墓の前に座り直した。花を手向けて、墓石に刻まれた名前をじっと見つめる。1981年10月31日──没。その日はきっと、シリウスにとっても最悪のはじまりだった。
「考えていたんだ」
指がジェームズの文字を撫でる。
「クリーチャーの言うとおりあれが湖に沈んだとするなら──あれの墓の下にはなにもないのだと」
誰の話だか、聞かずともわかっていた。遺体のない墓。空っぽで、土に墓標を刺しただけのハリボテ──そこに刻まれたシリウスの名前。
僕は知っている。むなしさを知っている。悔しさを知っている。怒りを知っている。愛する人の体すら取り戻せぬ死は、遺された者の心を刻み続ける。
「……シリウスは、眠るならどっちがいい?」
なんてバカなことを。そう、呟いてから血の気が引いた。けれども、シリウスは穏やかなまま僕をたしなめることなく答えた。
「どうせならジェームズたちのところがいい。そして、永く永く君たちを待っていよう。急ぐんじゃないぞ。たっぷり時間をかけて──そうだな、ダンブルドアを越えるくらい老人になるまで私たちを待たせなさい」
なんとも無茶な要求に笑ってしまった。大きく息を吸って、シリウスの手を握って────彼の涙伝う横顔に寄り添った。
「レギュラス。すまなかった。お前を取り戻せなかった。そこは冷たいだろう。恐ろしかったろう。俺の弟、たったひとりだけの弟、レギュラス──」
父と母にかけられた花輪が、親友を慰めるようにほのかに揺れていた。
***
追い付かない。届かない。その先はだめだ──叫ぶのに声は出ない。不吉なヴェールが揺らめく。大切な人の体が喰われていく。魂が分離する。これだけ伸ばしているのに──指先ひとつですら触れられない。
たすけて。連れ戻して。止める腕を叩く。もがく。だれも邪魔をしないで。
絶叫した。
「────シリウスッ!!」
「なんだ?」
伸ばした手を取られた。夢の中で追い続けた人がそこにいた。呆然と見つめれば、目尻を片方の手で撫でられた。シリウスの指は濡れていた。
「──リ、ウス」
「マリアにしてはめずらしくよく寝てたからな。ハリーならともかく。ああ、ハリーは先に下りてるぞ。ロンと一緒にリーマスを巻き込んで宿題の追い込みだ。今頃しごかれてるな。リーマスはあれで案外スパルタなんだ」
寝汗がひどいだろうに額を撫でたシリウスは、やわらかく笑った。背中を起こせば、彼がベッドへと腰かけていることに気が付いた。
「いつから──? 僕──」
「しっかり呼吸をしなさい。──悪夢を見たあとは、誰だって落ち着かないものだ」
引かれるままにシリウスの胸へと倒れこむ。背中を大きな手が叩く。呼吸に合わせるように、ゆっくり、ゆったりと体温がなじむ。
「──マリア。これは私の独り言だ。誰に向けたものでもない。いいね?」
「え? うん……」
ぼんやりしたままうなずいた。やわらかく拘束されて、彼を見上げることは叶わなかった。
「たとえば──たとえば、私が死を迎えるとするなら────」
「ッシリウスは死なない!!」
衝動から胸を突き飛ばしていた。シリウスが僕を見る瞳は風のない水面のように静かだった。
どうして、そんなこと。どうして、そんな目で。
「ぜったいに、ぜったいに死なない──! 死なせない──!!」
ほとんど錯乱に近かった。夢と現実が曖昧になっていた。
「マリア。落ち着きなさい。……これは、ただの独り言だ」
「あ──」
手を取られる。体温によって落ち着かされる。その上で、シリウスは繰り返す。僕を逃がさぬように、瞳の中にまで僕を捕らえて。
「たとえば私が死ぬとすれば、誰かを守る形でありたい。無意味に死ぬよりも後に繋がるものでいたい」
「……いやだ」
「私のことだ。調子に乗った末の無駄死にな可能性も否めないが──まぁそこは、かっこよく散りたいと思うのは男のさがじゃないか?」
「やめて、シリウス」
「ともかく、誰か──それはもう大切なものを守った上での死なら──私は後悔しないだろう」
「やめろってば!」
腕を振り回す。シリウスは手首を離してはくれなかった。
いやだ。聞きたくないのに。いやだって言ってるのに。──彼の前から逃げたいのに。
「私が後悔しないのに──君が嘆いてはいけない」
ナイフのようにするどい言葉はひたすら僕を刺し尽くした。
「私の身勝手を背負うな。そんな資格は君たちにはないんだ。怒りなさい。勝手なことをした男だと──エゴを押し付けた高慢ちきな男だったと」
ぼたぼたとバカみたいに涙が落ちる。残酷だ。許さないなんて。奪っていくなんて。一緒に持っていこうとするなんて。
傲慢に──僕を許そうだなんて。
「そんなの、ひどい」
僕は泣いた。子供みたいに泣きわめいた。顔をぐしゃぐしゃにして鼻水だって垂れさせて、外面を放り出して泣いた。
今、泣かねば──この人はヴェールの向こうまで僕の心を持っていってしまうんだ。
「どうやら私は死ぬようだ」
親友の気でも狂ったような言葉に、リーマス・ルーピンは指先まで凍える心地になった。
「あの子たちの依存はいずれ互いか──互いに近い誰かを殺すと、以前に言ったな」
「……ああ、言ってたね。夏休みに」
「どうやらそれは俺らしい」
「…………」
沈黙。シリウス・ブラックは何気ない世間話のように最後の親友を追い詰める。
「──マリアが、そう?」
「いや。明確に『予言』されたわけではない。──ただ、あんなにうなされて──あんな泣き方をされればわかるさ」
予兆はあった。そも、マリアがシリウスを見つめる瞳は親愛と──時おり懐古の痛みに揺れていた。ジェームズが持つはずもない色だ。
マリアは未来を知っている。それは、シリウスとリーマス、そしてダンブルドアの中では確定となっていた。──なにか、かたくなに明かせぬ事情があることも。
「あとを頼むよ。リーマス。俺たちのとびきり優しい親友」
一番の親友の子供を赤ん坊からこれまで見守り続け、想い、とうとう家に引き取る形になってからシリウスはぐっと大人になった。親の顔をするようになった。そして、今──先行くものの達観した残酷さで残されゆく親友を突き放すのだ。
「……悲しむ暇すら、くれない気か」
「その代わりに覚悟する時間をやったんだ。お前は考える時間を与えるとろくなことにならない。二人の世話でいっぱいいっぱいになってくれ」
子供っぽく笑う。誰よりも苛烈だった男は親友にだけ許す笑顔で呪う。追ってくれるな。嘆いてくれるな。ひとりぼっちになっても──その二つの重りにすがって生きろ。と。
「ひどい」
リーマスは失敗した微笑みを隠すため、情けない気持ちでうつむいた。シリウスはそれでも笑った。
「マリアにも言われた」