バリン──割れる音だ。談話室は動揺する男子寮生のたまり場となっていた。
「みんな、どうしたんだい? 中でなにが──」
「ああ、僕らのマリア様! もう君しかいないよ!」
人のかたまりをかき分け飛び出したシェーマスが僕の腕をひっ掴む。そのまま、周囲からも押されるようにして五年生の寝室の前へと誘導された。
「なんとか今はロンがおさえてるみたいなんだけど──ハリーが」
「……なるほどね」
怯えきった顔のシェーマスに苦笑した。中で困った弟の癇癪玉がまた爆発しているらしい。それも、今回は今までに見ない激しさだ。かすかに聞こえる聞きなれた声たちの争う様子を確かめながら、そっと扉を開く。
「ハリー? ロン?」
「幻滅だ。クズだったんだ────父さんも、シリウスも!」
絶望に震える声。失望と、
「落ちつけよ。誰だって間違いは犯すものさ。それに、ほら──君のパパは十五歳だったんだろう?」
「僕だって十五歳だ!」
悲痛にわめくハリーの背後へ忍び寄って、静かに抱きしめた。正面のロンの肩から力が抜けたのが見えた。
「ロン、ここは僕に任せて」
「よろこんで」
疲れきった様子のロンがバトンタッチだとばかりに僕の肩を叩いて退室する。寝室は僕とハリーの二人だけになった。
「スネイプの記憶を見た。父さんが──父さんとシリウスがスネイプをいじめてたんだ。ひどいことをしてた。母さんは父さんが大嫌いで──ルーピンは止めもしなかった」
「うん」
「最低だ。スネイプをかわいそうだと思う日がくるなんて。それが、父さんのせいだなんて。父さんたちのせいで僕は今こんな目に遭ってるんだ!」
突然、突きつけられた現実に苦しむかつての『僕』に寄り添う。ハリーの中の理想の両親像は完璧に死んでしまった。少しずつだって、父さんと母さんも『人間』なのだと教えてやれればよかった。マリアに両親の記憶はないのだから、叶うはずもない後悔だ。
「君の気持ちは────ハリー、それは?」
床の一部がキラリと光ったように見えて、目を留めた。──破片?
「ハリー、君、なにを持って────ハリー!?」
ハリーの手に固く握られていたもの──それは両面鏡だった。無惨にも鏡面が割られていた。
「なんてことをしたんだ!!」
鏡だったものを取り上げる。勢い余って、残った破片で手のひらを一直線に切ってしまった。痛みは感じなかった。それどころでなかったのだ。
なんてことだ──これでは、いざという時にシリウスと連絡を取れるかわからない。そうなったら────『僕』は騙される。
「シリウスに伝えないと……ハリー、便箋とペンを、」
うつむくハリーに手首を取られた。──痛い。切った手のひらよりもずっと痛い。
「ハリー……?」
「そんなにシリウスが大切? あんなにひどいことをしてたのに? そんな男だったのに?」
「ハリー、シリウスは確かに、昔は悪戯が過ぎたかもしれないけど──」
「──っなんでマリアがそんなにもシリウスを好きなのかわからないよ! 墓参りでもずっとシリウスに寄り添ってた。僕、透明マントに隠れて見てたんだ。側で見てた。マリアは──マリアがシリウスを見る目はおかしい! 僕よりもシリウスが好きだっていうのか!? それなら、さっさとシリウスと家族になればいい──マリア・ブラックになってしまえばいい!」
「ハリー!」
激昂するハリーを抑えれば、カツン、となにかが足に当たった。ハリーのポケットの中からだ。頭のどこで判断したのか──僕は無我夢中でそれを取り出していた。
「……どうして、これを、君が」
黄金と緑にまがまがしく輝くロケット──
「どうしてだまっていたんだ! ずっと持ち歩いてたのか!?」
怒りが爆発する。だから、ハリーの様子はおかしかったのか。こんなにも攻撃的になっていたのか。
ハリーは闇の魔術に狂わされていたのだ。
「返せ!」
飛びかかったハリーによってロケットを奪い取られた。だめだ。あれを持つかぎり、ハリーの心に平穏はない。
「ハリー、それを渡すんだ。それは──よくないものだ。君にもっともよくない」
「へえ? なんだっていうの。ちゃんと説明してよ。──できないでしょう? 君っていつもそうだ」
ロケットの中心に刻まれたSの字と同じように、ハリーの目は爛々としていた。危険な輝きだった。
「全部わかってるって顔をして、そのくせだんまり。誰となにをたくらんでるんだかわからない。僕のことはずぅっと子供扱いで、偉そうに後ろから見てるだけで、そのくせ、勝手に知らないところで傷ついて──僕がどんな気持ちで君を迎えてると思う?」
「君って、ダンブルドアと一緒なんだ。なんにも話してくれないくせに、僕にはあれをしろこれをしろと当然の顔で要求してくる。僕に言い聞かせる権利があると思ってる。少しは僕の身にもなれってんだ!」
「────」
「なにが閉心術だ。あいつと訓練をすればするだけ嫌な夢を見るんだ! 悪化してるんだ! それなのに、どいつもこいつも早く習得しろ、努力しろって──あんなものを味わってないから言えるんだ! 僕は努力してる! これ以上どうしろってのさ!」
「……っハリー。ハリー、僕が悪かった。君がつらいのはわかったから。わかってるから」
「わかるもんか!」
「わかるさ。……『僕』は君だもの。だから、どうか閉心術の訓練だけは投げ出さないで。お願いだ。今に後悔する。このままでは取り返しのつかないことになってしまう」
「それは興味深いね。で、どうなるんだい? 言えないんだろう? 言えないのならもう二度とするもんか」
「ハリー!」
ロケットを握るハリーの手を両手で掴む。カランと両面鏡だったものが床で軽い音を立てた。
「ハリー、頼むよ。君でなくちゃ駄目なんだ。どうか考え直して」
「マリアが秘密主義を改めるなら考えるさ」
「わがままを言うな」
「わがまま? これはわがままなの? 僕に隠し事ばかりの君たちが悪いんだろう!?」
「好きで隠してるんじゃない! そんなだから──君がそうだからッ────シリウスが犠牲になるんだ!」
ハッ──と。空気が張りつめた。ハリーは丸い目を極限まで開いていた。僕の頭の中には本能的な警鐘と、ヴェールへ沈む『僕』のシリウス、そして嘆いてはいけないと突き放したシリウスがいた。
「……シリウス、シリウス、シリウス──愛しのシリウス! ああ、そう。全部シリウスのためなの。これではっきりしたよ。僕はシリウスのせいでこんなにもぐちゃぐちゃにされてるんだ」
「ちがう! どうしてわからないんだ──僕は、」
「わからないのはそっちだ! 知らないくせに──僕がどんな思いでいるか知らないくせに。どんなに恐ろしいか知らないくせに。どんなに痛いか知らないくせに。どんなに──僕が独りぼっちで堪えているか──」
──『ひとりぼっち』
ふつりと。
精神を繋いでいた最後の一本が、切れた。
「──ッ不幸ぶるな!!」
喘ぐ。いたい。苦しい。そんな残酷なことがあるものか。
「君にはマリアがいるだろう! ────『僕』にはいなかった!」
叩き付けるように。叫ぶ。あふれる。あぶれる。煮えつく。
「シリウスは君を見てくれる!『僕』のことは見てくれなかったのに! 絶対の味方のマリアがいて、虐待のつらさも使命の重さも分け合えて、弱音を吐き出せて、君に友好的な人間ばかりで」
「邪魔者のマルフォイすら味方で、ヴォルデモートに一人で対峙することも、これから死にゆく命をただ一人だけで背負うこともない。針のむしろみたいな裁判を受けて退学の危機もない!」
「こんなに愛されてるのに──『僕』よりずっとずっと生きやすいのに────だって『マリア』がいるから!」
マリアがどれだけ君をかばってきたか。ハリー・ポッターの肩代わりをしたか。ハリー・ポッターの生きやすい世界のために心を砕いたか。
『なんてかわいそうなマリア』──憎らしい女のささやき声が脳を犯す。
「君はもっと感謝すべきだ!『マリア』に感謝すべきだ!『マリア』がいないハリー・ポッターがどれほどのものを喪うか────」
頭がぐちゃぐちゃに掻き回される。
なにもわからずに死んだセドリック。撃ち落とされたヘドウィグ。フレッドに泣きすがるジョージ。たった一度だけ泣いたスネイプ。ヴェールに消えたシリウス。──笑顔で死んだセドリック。
「僕には、マリアはいなかったのに」
ひとりぼっちは────『僕』だ。
「……なに、いってるのか、わからないよ」
ハリーの瞳はおびえていた。マリアを見て──ハリーがおびえていた。
「そうだろう。そうに決まってる。わかるもんか。君に──『僕』がわかるもんか」
髪をかきむしる。赤毛だ。(僕がほんとうは黒髪だったなんて。)ゆるやかなくせ毛だ。(くしゃくしゃの髪だったなんて。)少女の声だ。(男だったなんて。)きれいな額だ。(稲妻の傷があっただなんて──)君にだけは、理解できるもんか。
マリアのいないハリー・ポッターを、マリアを得たお前が知れるもんか────!
「わからない──いやだ──いらない──こんなのいらない────
それは、すべてがおわる言葉だった。
「そう」
ハリーからロケットをもぎ取る。心は奇妙なくらい凪いでいた。感情は死んでしまった。マリアは死んでしまった。
「それなら────お前もひとりぼっちで、『英雄』になればいい」
僕は
ハリーを置いて部屋を出る。談話室にはロンとハーマイオニーの二人だけだった。親友たちの姿を見て、ようやく呼吸の仕方を思い出した。
「ずいぶん長引いたわね。大丈夫なの? マリア。ハリーの様子は?」
「他のみんなは夕食に行ったんだ。そうしたらほら、けっこうな怒鳴り声だろ? ひやひやしたよ。いったいなにを話してたんだ?」
心配そうに駆け寄る二人を避けて出口へと向かう。
「マリア?」
「マリア?」
今ばかりは『マリア』と呼ばれたくなかった。──マリアは、もういらないんだ。
「────マリア!」
肩を掴まれた。どこを歩いているのだかわかっていなかった。目の前には扉があった。──必要の部屋だ。
「グレンジャーがスリザリン寮まで飛んできたんだ。あのグレンジャーがだぞ。それで、君たちが────なんだその手は!」
振り返った廊下には点々と赤が残っていた。血だ。鏡の破片で切り、握り拳から爪が深々と食い込んで傷口をえぐっていた。
いたい。
「はやくマダム・ポンフリーのところへ────マリア?」
ローブに触れる。緑色のローブだ。大嫌いだったローブだ。
いたい。
淡い金色の髪に額を預ける。やわらかく頬をくすぐって気持ちいい。大嫌いだった色だ。
いたい。
ためらうように宙を泳いだ腕を掴む。手は背中を撫でている。大嫌いだった温度だ。
いたい。
いたい。
いたい。
いたい。
ほんとうは、とっくに。
「たすけて、ドラコ」
限界だ。