「ハリーを妬んでいた」
箱の中のロケットを見つめる。ティアラの側にコロリと並んだロケットは、こんなにも華奢なのに。美しいのに。僕の周りにあるものすべてを狂わせていく。
「羨ましかったんだ。あの子が。僕は、ずっと──ずっとずっと、『僕』と比較して、妬んでいた」
僕よりも優しい子だ。僕よりも愛しい子だ。僕よりもかしこい子だ。僕よりも──愛される子だ。
「騙しきれるつもりだった──永久に。でも、軋んだ。あっけなかった。……シリウスが、あんな風になるなんて」
僕の知らない目で、ハリーを見る。(その目が僕は欲しかったのに。)
僕の知らない声で、ハリーと呼ぶ。(そう呼んで欲しかったのは僕なのに。)
僕に得られなかった愛情を与えてくれる。(それはマリアだ。)
深く深く愛してくれる。(それはマリアだ。)
「どこかで後悔しそうになっていた。自分の選択を。成功が憎かった。どうして──
蓋を閉じた。見つめていれば──また、緑に狂わされる。
「あの女のせいだ」
いやらしい微笑みが脳裏に貼り付いている。かつてロケットを手にした女──どこまでも立ちふさがった権力の敵。彼女の声は────猛毒だ。
「あいつが言うんだ。『かわいそう』──『マリアはかわいそう』──て」
甘い声で、獲物を知らぬうちに麻痺させてしまう蜘蛛のように。隠しもしない針でやわらかく刺す。──僕はまんまと絡め取られた。
「あいつは毒だ。存在そのものが毒なんだ。いっそあいつ自身が分霊箱みたいだ。──引き出すんだ。みにくいものを。言葉で掻き回して、ぐちゃぐちゃにして、表までひっぱり出してしまう。……おぞましいよ」
箱から離れて、ソファに手をついた。名残惜しむように見つめていた。──あんなにも、うつくしいのに。
「そうなると、もう、止まらない。追い付かない。わかってるのに──どうして失敗する──?」
目を閉じた。忘れられるわけがなかった。
「僕は──何度、くり返せば──ッ」
かつてアルバスに言った言葉がある。我が子に──愛しい僕の子に、父親である僕はこう言ったのだ。
『お前が息子じゃなかったらいいのに』
ひどい言葉だ。あまりに残酷だ。売り言葉に買い言葉だなんて、本心ではなかっただなんて、そんな言いわけは通じない。永遠に恨まれるべき攻撃だ。
僕は、今、再び──『家族』にくり返したのだ。
「このままじゃシリウスが死んでしまう。だって、シリウスは────シリウスは、生きる気がないんだ。言ったんだ。僕を見て、彼は言った。僕をジェームズと呼んだ。そして────『殺してくれ』」
彼はうかされていた。湖の悪意に。毒の殺意に。自身の罪過に。──これこそが、彼のさらけ出された願いだった。
「生きる気がないんだ。ヒーローぶって、守りたいものを守れたらそれで満足。きれいに散られたらそれでいい。後のことなんかどうでもいい。後のことは後の人間の問題。──そんなやつらばっかりだ!!」
叫ぶ。頭の中でタイムターナーを回したみたいに、廻る──廻る──愛する人たちの顔が浮かんでは消えていく。
「僕は──『僕』のために死んでくれなんて──一言も言ってない!」
マリアの皮を破ってハリーが叫ぶ。マリアこそが、心の盾の最後の一枚だったのに。
「生きてほしい、だけなのに。一緒にいてほしいだけなのに。それって──なあ、生きるって──そんなに難しいことかい──? 僕の願いは──そんなにも無謀か──? それって────『僕』が生きるよりも──?」
生きろと望まれた。なにがあっても、誰を置き去りにしても、誰の屍を踏み越えてでも──生きろ──生きろ──お前だけは死ぬことは許されない────
そして、しかるべき時に死ね。
「生きる気がない人間を、どうやって引き留めろって──? 無我夢中になるしかないじゃないか。ぜったいに駄目だって──手を掴み続けるしかないじゃないか。それなのに────『ハリー』は手放すんだ」
僕が欲しくて欲しくてたまらないものを手に入れて、僕にはない人生そのものを手にして──傲慢にも足りないとわめく子供。
「癇癪を起こして、また、失敗する! また、後悔する! また、犠牲を出す! また────『僕』が殺すんだ」
目を開いた。揺らめく視界に手が映った。
「僕は」
少女の手だ。少女の声だ。少女の景色だ。
「こんな手で──こんな身体で──」
僕の手は大人の手を引き留めるには小さい。僕の背は友をかばうには足りない。僕の腕は立ち止まる人を引くには弱い。──マリアは、英雄じゃない。
「なにができるっていうの。マリアに、これ以上なにができるの。置いていくのは君たちだ。これから先をいくのは君たちで──いつだっておいてけぼりはマリアだ」
これ以上この背は伸びないだろう。──ほんとうはこんな景色じゃなかった。
この声は愛らしいままだろう。──ほんとうはこんな声じゃなかった。
君に繋がれるような手じゃなかった。誰かを繋ぐための手だった。
「うらやましい。にくたらしい。僕は────『僕』が、憎い」
それこそが──真実だった。
「そうだ。君はずっと──
声ははじめて僕に意志を返した。
「そしてハリーを愛していた」
「────」
見上げる。立っているだけで儚く見えるその人は、美しく笑っていた。
「だからこんなにも苦しむんだ。自分が嫌いなくせにハリーを愛していることに罪悪感を覚えてる。────ほんとうに、心底からの愚か者だ」
手が伸びて、僕に影を作る。見下ろす。冷たい瞳なのに──熱っぽい。氷みたいだ。……炎みたいだ。
「ハリーを愛せば愛すだけ、自分を許したような気になるんだろう。自己愛をおぞましく感じたんだろう。だから、ハリーを許してやれない。ハリーの間違いを見守ってやれない。なぜならそれは、自分自身の過ちを映した鏡だから────ハッ。ざまぁないな?『英雄』」
ドラコは僕をソファに押し付けながらうっそりと笑った。視界が反転して天井を映した。僕よりも長く垂らされた髪が頬をくすぐった。
「この機会だ。教えてやろう。ほんとうは君が自分自身で気付くことを待っていたんだがな。……お前はほんとうにどうしようもない。ウィーズリーとグレンジャーに同情すらするよ。さあ、よく聞け、ハリー・ポッター」
薄い唇で呼ぶ。──ハリー・ポッター。
瞳の中にマリアを捉えて、ドラコ・マルフォイがハリー・ポッターを乞う。
「僕のハリーと君のハリーは──ちがう」
ゾクリと、心が震えた。
「僕が執着し、嫌悪し、憎悪し、敵対し、そして愛したハリー・ポッターは────『君』だ」
「あ……」
指が目尻を撫でた。──ハシバミ色の瞳なのに。
唇が額に触れた。──傷のない額なのに。
髪をすくってキスをした。──赤い髪なのに。
ドラコ・マルフォイの瞳にはマリアがいるのに、彼はハリーと呼ぶ。ハリー・ポッターではないと否定しながら。
「君の理屈では、同じ感情をこちらのハリーにも向けていなければおかしいだろう。──想像するだけで吐き気がするね」
愛でもささやくみたいに微笑んで、瞳は軽蔑に嗤っていた。ドラコ・マルフォイは怒っていた。
「マリアがいないハリーとマリアのいるハリーが同じなわけないだろう。僕が見てきたのは『君』だ。僕が告白した相手も『君』だ。口では言えるくせに、まるで頭が理解していない。この頭でっかちめ。自分の言葉すらまともにきけないのか。頑固もここまでくれば病気だな。魂に刻み込まれでもしてるのか?」
口汚い言葉だ。それなのに、頬に触れる手はこんなにもやさしい。
「君はハリー・ポッターだ。マリアの名を得たハリー・ポッターだ。間違いなく僕のハリーだとも。だが──この世界のハリー・ポッターではない。ここに存在するハリー・ポッターは君の兄弟ただ一人だ。君はマリアでしかないんだ。僕の前でしか────君がハリーであることは許されない」
「ハリー・ポッターである君は、僕だけのものだ」
身体の芯からしびれるような感覚だった。血が沸き上がって、ゾクゾクと肌を立たせた。目の前の男に完璧に捕らえられたことを理解した。
そして、ドラコはささやいた。
「だから、安心して──ハリーを愛してやれ」
「────」
「ハリーに求められるマリアじゃない。君自身が彼を愛してやれ。……それをマリアに許してやるんだ」
腕を取られる。倒れていたソファから起き上がって、彼に正面から包まれた。あたたかい。ハリーともシリウスともちがう男の胸だ。──こんなにも、安心できる。
悪夢の後のまどろみから引き上げられた心地だった。
「──ああ、うん。目が、覚めた」
「お目覚めの気分はいかがで? 眠り姫」
「……最悪だ」
抱き返して、それが正しい形のような気がして、脱力感のまま力なく笑った。ドラコの手は背に置かれていた。
……なんだ。僕たち──二人して『ハリー・ポッター』に振り回されていたのか。
「ハリー・ポッターってずるいね。……ずっと、こんな気持ちだったわけだ? 噛ませ犬のマルフォイ?」
「うるさいぞ、英雄気取りのポッターめ」
クツクツ笑い合う。ようやくくすぶっていた淀みが溶けた。
ドラコはたぶん、優しくなんてない。けれど──『僕』にはこれくらいがちょうどいいのだろう。
さんざん体温を分け合ったドラコは、それからふと意味深に笑うと杖を取り出した。見慣れたサンザシの杖だ。
「寝起きの君にいい眠気覚ましがある」
改めて隣に座ったドラコが杖を振った。彼の口が唱えた。
──エクスペクト・パトローナム。
「え──」
銀の光がほんのりと杖先に灯った。あの光だ。絶望を遠ざけてくれる幸福の記憶。DAでさんざん見守ってきた明かりが、今は信じられないほど幻想的に見えた。
光はやがて形にならず拡散したが、ドクドクと心臓が騒いでいた。
「君──だって──死喰い人は──」
「この世界のドラコ・マルフォイは死喰い人じゃない。なにより──」
目が。
きれいな目だ。僕を──好きだと告げる目だ。
「守護霊を作るのは幸福の記憶。……僕はまだ、なにもうしなってはいない。守護霊を作るだけの幸福が僕にはある。アステリアは生きている────君が、僕を見ている」
それこそが、僕にとっての幸福だ。
胸をかきむしって、叫びだしたくなるくらい愛しいと伝えてくる眼差しなのだ。いっそ──残酷なくらいに。
「僕は死喰い人であったことを後悔していない。あの時に取れる最善がそれだけだった。だからこそ守れたものがある。……それはもう、おそろしい目に遭ったがな」
もう一度杖を振って。
「けれど──まぁ、これも悪くはない」
色白で綺麗な腕のまま、かつての悪役は微笑んだ。ドラコ・マルフォイもまた──新しい人生を生きているのだ。
「……まだ、形にはならないんだね。こっそり特訓してたわけだ?」
からかってみる。どんな形になるのだろう。ドラコの守護霊は、どれほど美しいだろう。
「ちゃんとモノにしてから君に見せるはずだったんだ。予定が狂ったよ」
「……どうして?」
どうして、今、これを────?
「君の守護霊は牡鹿だな」
「……うん。その通りだ」
「──ハリーは?」
「え……」
「ハリーの守護霊は?」
二年前の夜、吸魂鬼によって凍える空を駆け抜けたのは。
「──雌鹿」
ドラコが瞳を細める。悩んだ末の正解を見つけ出した子供を見るように。ほぅら、たどり着いたと──瞳の氷を溶かす。
「守護霊は術者の心のあり方。想いの形だ。──同じ牡鹿でない時点で、君たちはとっくに別々なんだ」
ああ──ああ、なんだ。答えは何年も前にとっくに示されていたのに。
「……ほんとうに、バカだね。『僕』」
「『どっち』だ?」
「もちろん──
目の前の肩に額を押し当てて笑った。間抜けだ。やっぱり僕は『僕』だ。こんなにも簡単なことで──ヒントどころか答えが目の前にある状態で、いつまでも同じところを走っていた。盲目のまま、耳をふさいでうずくまっていた。
差し出された幾多もの手なんて──気付かないまま。
「ハリーに謝らなくちゃ」
立ち上がる。生まれ直した気分だ。手のひらの痛みすら愛おしい。
「しっかり喧嘩してこい」
いつも通りの、人の神経を逆撫でする嫌味な笑い方。慣れてしまえば──なんだか癖になっちゃいそうな顔だ。……たぶん、手遅れだ。
作業のようにサンザシの杖が振るわれて、秘密箱がキャビネットの中へと吸い込まれていく。当分、この部屋は必要ない。
「ただ──」
「うん?」
ひとつ、気になることがある──取っ手に手をかけた状態でドラコが切り出した。薄い眉を怪訝にひそめていた。
「いくらなんでも、『君』……不安定になりすぎやしないか? ハリーにつられて──いいや、ちがうな」
「…………」
「君は、いったい誰の感情に引きずられているんだ?」
──やはり、ハリー・ポッターの人生は一筋縄ではいかないようだ。