地獄のO・W・L試験を終えた日のことだった。ぐったりした様子の五年生たちを眺めながら(ハリーやロンとハーマイオニーも例外ではない。)夕食にありつく。『前回』ではこの最終日にどっと問題がなだれ込んできたものだが、ハリーを見る限り、シリウスの夢に誘われた様子はない。アンブリッジの魔の手からハグリッドは無事逃げおおせたし、ハグリッドが逃げられたならばマクゴナガル先生がアンブリッジの前へ立ちはだかる必要もない。失神呪文を四本も受けて倒れ伏す女史の姿を見ることはなかった。一歩一歩と着実に『最悪』は防げている。──ゆえに。
「今日しかないだろうな」
「奇遇だね。同じことを考えてた」
夕食終わりにドラコと合流した例の湖畔にて、深々と互いにうなずき合った。
「試験が終わって先生方も気が緩んでる。ハリーたちの目もまだ優しいだろうさ」
「今日のうちに移動して明日に予定を済ませ、明後日ホグワーツへ帰還、か。忙しないな」
「試験がイースター休暇前だったならもっと時間も取れたんだけど。土日じゃ余裕はないに決まってるよ」
解放感あふれる生徒たちから隠れ、苦く笑う。中でも五年生と七年生は疲労困憊といった有り様だ。僕も、実技はまだしも筆記についてはかなり記憶を絞り出さなくてはならなかった。……ちょっとだけ、盛大な拍手喝采と共にホグワーツを去ったウィーズリーの双子たちが羨ましくなった。
「でも」
「今しかない」
改めて互いの決意を確認する。夏休みに入れば僕たちポッター兄弟は再び軟禁の身に置かれるだろう。ドラコは外出どころでなくなるはずだ。──『計画』通りに事が進んだならば。
ホグワーツを抜け出すには、今しかない。
「僕が先にアンブリッジに仕掛けてくるよ。君はお父君の名前でも出せばいい」
「出発はずらすべきだな」
「僕が先で君が後だね」
「移動はどうする気だ? 僕はアン伯母様に付き添い姿現しを頼む予定だが」
「おいおい、忘れたのかい? さんざん君の目の前でスニッチをかすめ取ってやったっていうのに」
ニンマリ笑えば、いかにも嫌そうに舌打ちをされた。こいつの余裕なふりをしたすまし顔にも慣れたものだけど、やっぱりこの顔が馴染みがあって好きだ。ハリー・ポッターとドラコ・マルフォイはいがみ合ってこそじゃないか。……今は、友達だけどね。
「夜中にのんびり飛んでいけば、いい時間に合流できそうだ」
「学校の箒を使うのか?」
「ハリーのファイアボルトは地下だからね」
「……大丈夫かい? ついていけるのか? 箒が、君の技量に?」
「ついてこさせるのさ。それもまた技量だろ?」
不敵に笑い合って。──パチン! ハイタッチを合図に僕らは立ち上がった。
「作戦決行だ」
「幸運を」
僕らの闘いは、なにひとつだって終わっちゃいないのだから。
***
──つまり。アンブリッジは懸命に彼女の考える理想の優しい声を出そうと奮闘していた。だがしかし努力は不快そうにわななく手と唇が台無しにしていた。
「長期休暇でもないのにホグワーツを出たいと言うのね? ミスポッターは?」
「はい。アンブリッジ先生」
ニッコリと。渾身の笑顔をアンブリッジへと突き付ける。アンブリッジは頭がいたいとばかりにガマ口を開いて大息をついた。
「ミスポッター。生徒の帰省はクリスマス休暇と夏期休暇のみと校則で定まっていることは、当然ご存知ね?」
「ええ。ですから、アンブリッジ先生にこうしてお伺いをしてるんです」
「なら、わかるでしょう。例外はないのよ」
「いいえ、あります」
アンブリッジの苛立たしげに震えていた指が電池切れとばかりに止まった。額のだらしない肉を持ち上げる眉がひっそりとひそめられた。
「……どんな例外かしら」
「私の従兄弟の様子がおかしいと連絡が入ったんです。この夏にそれはおそろしい体験をしたそうで。以来、どうも体調が良くないと、心がずいぶんと弱っているというんです。──身内の心配をするのはおかしなことではないでしょう?」
「…………」
あの悪ガキが身内だなんてはなはだ笑い草だが、書類上の諸々では僕たちポッター兄弟はまだダーズリー家預かりのままのはずだ。だからこそ吸魂鬼をプリベット通りへと差し向けたのだから。──この女は。
ウィーズリー兄妹が父の危篤のため少し早くクリスマス休暇に入ったことや、例のキャビネットに突っ込まれて頭がおかしくなったモンタギューを看にその家族がホグワーツへやって来たことも大きい。身内の大事が例外になる例をすでに作っているのだ。
さあ、断れるものなら断ってみろ。まだ、たとえ身内が死んだってホグワーツからは出られない──なんて教育令はないのだから。
「いったいプリベット通りに住む従兄弟はどんなおそろしい目に遭ったのでしょう。どう思われます? アンブリッジ先生」
アンブリッジは歯軋りした。この女は理不尽を味方につけているが、ゆえに正当法には弱い。そして。
「とある筋からの情報なんですけど、どうやら闇の魔法生物が関わっていたそうなんです。彼はマグルなのに──魔法が。なにかご存知ありませんか? 魔法大臣上級次官のアンブリッジ先生。なんたって、マグルの少年が魔法界に関するものに害されたとあれば、魔法省としても一大事ですものね。ああ、それとも」
ひと呼吸。
「──逃走したペティグリューを追うのに、それどころではなかったのでしょうか」
沈黙のもと、あたため続けてきたカードは今、切られた。闇祓い局局長としてつちかってきた話術がここに役に立った。ああ、感謝します、我らがミセスウィーズリー魔法大臣閣下。
アンブリッジはぐっと口を横に引き結ぶと、鼻息を大きく吹いた。それだけで机上の書類が吹き飛んでしまいそうだった。
「……よろしい。許可しましょう」
「ありがとうございます、アンブリッジ先生。ああ、向かうのは私ひとりですので」
「それはけっこうだけど、列車は」
「移動手段はこちらでまかないます。お気遣いなく」
「……そう」
悔しそうなガマガエルを背に退室する。その瞬間、僕は天高く拳を突き上げていた。──完全勝利だ! 今すぐ君に報告したいよ、『僕』のハーマイオニー。君のたゆまぬ教育のおかげだ。
達成感にニマニマと頬を緩めていると、クッと小さな失笑が背後から聞こえてきた。
「……ドラコ?」
「交渉は上々のようだな」
「完膚なきまでの勝利さ」
「ああ。実にスリザリン向きの『交渉』だったとも」
ニヤリ。性悪な顔付きで向かい合う。
「お坊っちゃんが盗み聞きかい? おっと失礼。マルフォイといえば盗み聞きだったね」
「ポッターはどこにいたって吠えメールのごとく騒ぎ散らしてるからな。僕の繊細な耳が堪えきれず拾ってしまうのさ」
「それはそれは。WWWの伸び耳と同じくらい繊細だ」
にらみ合って──ぷっ。同時に吹き出した。こんなやり取りも久々だ。久々だと思うと──心底から愉快になれた。
「このあとは優雅な空の旅かい?」
「アンブリッジの子飼いとね。その前にハリーを説得しなくちゃいけないけど。透明マントを借りないと」
「それはかわいそうに。……君と並走は実に骨が折れる」
「翻弄されちゃう?」
「とっくに」
軽口を叩きながらも、ドラコは距離をつめてそっと声をひそめた。
「杖を忘れるなよ。いざとなれば未成年の魔法使用禁止の法なんて関係なくなるんだ」
「誰にものを言ってるんだい?『君』のハリー・ポッターの職業を口にしてごらんよ」
今度は拳をぶつけ合う。一人で大丈夫か、だなんて。そんな心配はいらないんだ。それそこが僕らの信頼だ。
「「またあとで」」
再びのハイタッチは軽快に廊下を鳴らした。
***
「いつでもいらしてね、マリア。私たちの小さな守人さん」
「はい。アンドロメダさん」
アンドロメダ・トンクスの美しい微笑に見守られながら屋敷を後にする。ドラコとほっと胸を撫で下ろす。成功だ。──これで、裏工作はすべてだ。
「どうにかなったね」
「未成年の匂いさえなければ自分たちで忠誠の術だって結べたんだがな」
「十五歳で忠誠の術を扱えるってのはどうかと思うよ」
「貴重なご意見をどうも? 十五歳で守護霊の呪文を扱うミスポッター」
皮肉を返されてぐっと唸る。ドラコは上機嫌だった。信じられないほど順調なのだ。これで隠れ家は二つ。僕が死なない限り、二軒の屋敷の護りは薄れない。
「あとは──『その時』に乗り込むだけだな」
「そうだね」
立ち止まる。アンドロメダがまだブラックであった頃に親戚のアルファードより支援されたという屋敷は森の奥にあった。目の前にはなんの変哲もない道路と小道の境目。ここからはマグル避けが効かない。
「ここまででいいよ。君はアンドロメダさんの手を借りてホグワーツだろう? 僕はいったんグリモールド・プレイスに戻るよ。一応、建前上はプリベット通りにも顔を出さなきゃ。屋敷に残ってる団員の誰かに頼むつもりだ。帰りはそのまま僕も付き添い姿現しに与る形になるかな」
「了解した。……いいんだな、ほんとうに」
ドラコの痛むようなささやきに真正面から答える。
「ああ。──君の共犯者になってやる」
彼のずいぶんと伸びた髪に指を差し入れた。やわらかくて、細くて、儚い。きっとこれがシルバーブロンドだったならルシウス・マルフォイにそっくりなんだ。ドラコは心から家族を愛している。──たとえ親殺しの汚名を背負ってでも、守りたいものが彼にはある。僕が、なにに代えても兄弟を想うように。
「それじゃあ、ホグワーツで」
「マリア」
ドラコの手が耳朶に触れた。そこにはドラコからもらった三年目のクリスマスプレゼント──月明かりに輝くイヤリングが下がっていた。ルーモス代わりに、夜行飛行のお供として大変重宝したものだ。
「ドラコ?」
「──ホグワーツで」
彼の香りがかすめる。それは久々に受けたチークキスだった。ゾクッと胸の奥がざわついた。
「っあ、ああ、うん。また」
足が妙なふうにもつれながらも透明マントをかぶる。境を越える。森が消え失せ車や人の声であふれる。マグルたちの時間が忙しなく行き交っている。
ドラコの頬が触れた箇所を手の甲でこすった。心臓がおかしな鳴り方をしていた。あいつ──そうだ──あいつ────僕が、好きなんだ。
「……マルフォイのくせに」
なんの意味にもならない悪態をつく。じっとしていられなくてさらに頬をこすれば、指に引っ掛かったイヤリングがポロリと地面へ落ちた。アスファルトを白い輝きが転がる。このままではマグルの誰かに踏まれてしまう。
「ったく、もう。なにやっ────」
ぐるり。