誰かに蹴られて端まで追いやられたらしいイヤリングを発見した。とっくにクローズとなったカフェの植木鉢が影になったことが幸いしたのか、マグルの誰にも拾われることなくそれはささやかに主張していた。
「これ……マリアのイヤリングよね。わたし、知ってるわ。ダンスパーティーでつけていたでしょう?」
ハーマイオニーが呆然とドラコの手にあるイヤリングを凝視する。ドラコもまた、ちっぽけな宝石を沈痛とした表情で見つめていた。
つまりは──ここで、イヤリングが外れるようなことがあったのだ。彼女の顔の付近にまで脅威が迫ったのか。
「周りにはなにもなさそうだよ」
周囲を見て回っていたロンが報告する。ハーマイオニーは不安を隠しきれない顔でハリーへとあおいだ。
「ねえ、ハリー。もっとわかることはないの? あなたが見た──マリアの姿で?」
「わからない……どこかの屋敷だった気がする。あの部屋ではなかったんだ──あの、ガラス玉が並んだ部屋────神秘部では」
立ち往生だ。誰もがイライラして、そして今やマリアの身に『最悪』が迫っていることを疑うものはいなかった。
ドラコはこの年の決戦の場が神秘部であることしか知らない。今、向かったとして、マリアとすれ違いになれば元も子もない。目も当てられない失敗だ。
自分は必ず向かわなければならないが──ハリーたちは。
「──殺してやる!」
突如、物騒な怒声が人通りのない路地に響いた。──ハリーだった。額の傷をえぐらんばかりに両手で押さえて、身をかがませて怒りに震えていた。
「ハリー?」
「殺してやる……殺してやる……! ベラトリックス・レストレンジ──!」
ハッと少年は息を呑んだ。ネビル・ロングボトムだ。
「ハリー、まさか──マリアは拷問されてるの?」
ネビルは蒼白で、けれどもネビルの目にも悲壮な怒りが満ちていた。
「あいつもいる……見てるだけだ……あいつ────ルシウス・マルフォイ」
ハリーの言葉にドラコはイヤリングを握りしめてセストラルへとまたがった。急展開についていけず目を白黒とさせている子供たちへと冷たく宣言する。
「行くぞ。──マリアは神秘部だ」
父上ならば────そこにいる。
***
「──ぐぁッ!」
「ハロー? ポッターベイビーちゃん? 優雅な目覚めにならなくて残念だったねぇ」
腹への衝撃に目の前がグラグラと揺れた。ご丁寧に強烈な美女はリナベイトでなく物理でモーニングコールをしてくれたようだ。お優しいことだ。
「ベラ、ト、リックス……!」
「さぁここがどこだかわかるかい? ん? これからやってくるお前のかわいいベイビーちゃんの墓場だよ」
髪を掴まれて限界まで首を振らされる。幾万もの言葉を秘めたガラス玉が目に入った。──神秘部。
「お前の弟が間抜け面さげてやってくるまで、死なない程度ならば遊んでもいいとお許しをいただいたのさ。さて、さて、お前はどんなイイ声で泣いてくれるだろうねぇ?」
両目を開いて迫り来るベラトリックスの顔へ、血混じりの唾を吐きつけた。薄い赤は蒼白く痩けた彼女の頬に色をつけた。ベラトリックスは己の頬に触れて呆然としていた。
「……ハッ、少しはいい化粧になったろう? かつてのブラック家の栄光の姿に近づいたんじゃないかい」
「────ッ」
バチンッ! 何度目かの平手だ。伸びた爪が狼男のごとく頬を裂いた。次は拳だ。殴られる。何度も。何度も。頬骨を砕こうとしている。脳みそが揺すられる。
「この、この、私に──! 穢れた血を──穢れた血を──よくも!」
「ベラトリックス」
打撃が止んだ。すっかり乱れてカーテンのようになっていた前髪の隙間から二人を覗く。ルシウス・マルフォイがベラトリックスの腕を掴んでいた。ベラトリックスの手の甲は僕の血に濡れていた。鼻血はとっくに止まらない勢いで、口の中も血の味でいっぱいだった。視界はおぼつかなかった。いまだ縛られたままの手首は摩擦に擦り切れ、全身の関節がきしんだ。顔はどこもかしこもが熱を持っている気がした。
「それ以上は死ぬ。相手は子供だ。思いの外、簡単に死んでしまうのだ」
「おお、そうかい。死ねばいい。死ねばよいのだ。あの方をお助けするのは私だけでいい。私だけがお側にお仕えし、お支えするのだ。あのお方のお心にとどまるのだ。こんな小娘に価値を見出だす必要はない!」
「我が君の命に背くか。ベラトリックス」
「──ッ」
僕は見た。二人の腕に刻まれた闇の印が不気味に光っていた。
「──放しな。気安く義姉の手を掴むんじゃないよ」
「それは、失礼しました。義姉君」
ベラトリックスが再び僕へ顔を近付ける。前髪を力任せに引き上げられる。ブチブチとちぎれる音がした。
「心底──憎たらしい目だよ」
ベラトリックスの杖が目の縁を杖先でなぞっていた。
「えぐり取ってしまおうか。愛しの従兄弟どのはお前の目玉だけが帰って来たら、はてさてどんな反応をするだろうねぇ。ぽっくり死んじまったご主人さまの──ジェームズ・ポッターの目だ」
「…………ッ」
杖先が眼孔に押し入ろうとする。貫かれてしまう。
「ベラトリックス」
「もちろん──冗談だとも」
杖は離れた。全身が震えていた。冗談? ──いいや、あれは本気の目だった。『予見者』という勘違いがなければ間違いなくえぐり取られていた。拷問に快感を見出だす──吐き気のするような女だ。
「それにしても、ルシウス? ずいぶんとこのお嬢ちゃんをかばうじゃないか?」
「死なせてはならないのだ。狂わせてもいけない。予言は狂言ではない」
「ああ、そうだねぇ…………愛しのガールフレンドの変わり果てた姿なんて、かわいいかわいいドラコ坊っちゃんには見せられないものねえ」
わかりやすい挑発だ。それを受け止めるルシウスの表情は──無だった。
「あれは関係ない。跡取りであるから生かしているだけのこと」
「そうだろうさ。私ならあんな恥知らずはこの手で殺しているよ。それが親の愛情ってもんさ。さっさとシシーと次の子を作って処分するんだね」
頭上の会話に歯軋りする。口腔にたっぷりたまった血は生ぬるかった。
──癇癪を起こすべきじゃない。この状況で、口答えは自殺行為だ。わかっている。そんなのは、どんな愚か者にだってわかることだ。トロールにだってわかる。だというのに──ハーマイオニーが『穢れた血』だと侮辱された時のような、ロンが貧乏な物乞いだと嘲笑われた時のような──沸々とマグマに変わった怒りが喉元を飛び越えていた。
「ドラコは死んでいい人間じゃない」
二つの視線が突き刺さる。
「お前なんかより──よっぽど価値のある人だ!」
ベラトリックスの足が腹へと吸い込まれた。バキッ。嫌な音。骨の折れる音だった。
「ぁぐッ──あ、ア ゙ア ゙ァアァッ」
頭を踏みつけられる。床には血の池ができていた。吐瀉物も混じっていた。身体のどこから出血しているのだか、もうわからなかった。
「ポッターってのはどこまでも生意気だ。ご主人様の命さえなければ──目をえぐって、鼻をそいで、耳を切り落として、爪を剥いで、ありとあらゆる痛みに命乞いをさせてやったというのに。口惜しいものだ。ああ、それとも、女としての絶望を与えてやろうか。雌に餓えた雄どもの群れに裸にひん剥いて放り投げてやろうか」
「ア ゙ッ、あ ゙、ぐっ、げほッ」
ガツン。ガツン。踏みつけられる。体重を目一杯込めて。憎しみを込めて。愉悦を込めて。
「ベラトリックス……私に何度言わせる気だ」
「わかってるさ。ああ、胸くそ悪いったら。少し外を見てくるよ。そろそろおバカなポッター赤ちゃんが来ているかもしれない」
ようやっと靴裏は離れた。自分が人間としての原型をとどめているのかすらわからなかった。完全に虫の息だった。
「チィ……靴が汚れたじゃないのさ!」
「ぐッ──!!」
最後に折れた肋骨へ渾身の蹴りをお見舞いして、ベラトリックスは通路の先へと消えた。予言に囲まれ残るのは僕とルシウスだけになった。
「……お前は、自殺願望があるのか? 挑発さえしなければこれほど痛め付けられることもなかったろうに。──エピスキー」
淡々と申し訳程度の治療魔法がほどこされる。ようやっと口を動かせるだけの気力を取り戻した。
「…………いい、の……?」
「お前を死なせてはならないとの命令だ」
ルシウスの目にも声にも情はなかった。──僕は知っている。
「次はおとなしくしていたまえ。あの女は元来、手加減というものを知らない。ロングボトム夫妻の末路を知っているだろう。私に苦労をかけるな」
知っている。
「どうして黙っていられなかったのだ」
あなたは。
「おい、聞いて──」
「これ以上──ドラコの悪口は、言いたくなかったでしょう?」
「────」
はじめて、ルシウスが感情的な眼差しで僕を見た。
「あなたは──家族を愛している」
わざと遠ざけることになったって──真逆の嘘をついたって──『守る』ためなら悪になれる。
ほんとうに──君たちって似た者親子だ。
「……私は、命令さえなければ君が死のうとなんとも思わない」
「ええ」
うなずく。皮肉にも僕の命は、ヴォルデモートの命令ただひとつに守られている。
「だがしかし──」
ルシウスが手首を縛っていた縄にナイフを刺し入れた。
「え──」
「このナイフは君が持っていた」
「え?」
「私は気づかなかった。ベラトリックスも気づかなかった。君は隙をついて器用にも拘束を抜け出した。そして私という障害をかい潜り逃げた」
「────」
片手の縄が切れた。手は自由になった。
「君の杖を持っているのはドロホフだ。そして透明マントを持っているのは──奇遇にも私だ。君は手癖の悪さから、逃走の際に私から透明マントを盗んだ」
「元々僕のものだ」
「そして──透明になって逃げた」
ドラコによく似た目と見つめ合う。言葉はなかった。
「……礼は言わないよ」
「なぜ礼がいる? 私は逃げられたのだから」
どうにかして微笑む。ちょっと頬を動かすだけでひりひりと顔面が痛んだ。フランケンシュタインも真っ青の顔にちがいない。
「──そして、人質に逃げられた間抜けなルシウスにマリアは言い捨てた。────ドラコはあなたが大好きだよ」
「────」
ルシウスの冷徹ぶった目が大きく開かれていくのなんて待たずに、僕は透明マントをかぶって駆け出していた。