マダム・ポンフリーからお説教と治療を受けて、ハリーと入れ替わりに僕は校長室へと来ていた。この内装も久々だ。校長席に座るのはマクゴナガル先生ではなく、恩師たちの肖像画も飾られてはいない。
「お掛け、マリア」
ダンブルドアの声は苦渋を慈愛で塗り固めたようににじんでいた。僕は老人の前へと腰かけた。肖像画たちが眠ったふりをして聞き耳を立てているのがわかった。フィニアス・ナイジェラスの肖像画は空っぽだった。
「……ハリーは、部屋を半壊にはしなかったようですね」
「君の
「盛大に」
口だけで笑えば、ダンブルドアも弱々しく微笑みを返してくれた。
ずるい人だ。この人は、僕の前ならば弱ってもいいと考えている。僕にまで背負わせようとしている。僕が──あなたを愛し許していることを知っている。僕にとってのドラコのように──僕を共犯者に仕立て上げようとしている。
そして、それを僕が拒絶しないことを知っている。
「ハリーに話した。ヴォルデモートとの繋がりのはじまりを。……無論、君は知っておろう」
「はい。あなたよりも、きっと。あなたの確信の少し先まで」
「わしを恨んでおるかね。わしは失敗した。そして君の愛する兄弟を追い詰めた。──君から、愛するものを奪った」
「──いいえ」
まだきしんでいる気のする首を振る。この対談が終わればまた入院だ。ハリーと一緒にすっかり常連である。マダム・ポンフリーのお説教もそろそろおざなりだ。
「あなたも許されるほうが苦しいでしょう。だから許すし、恨まない」
ダンブルドアは老人らしい顔で疲れきったようにうなだれた。
「マリア──君は、わしをよう知っておる」
「ええ。よく知っています。なにより──
ダンブルドアの目はいたみに潤んでいた。
「僕がへまをした。僕が彼をおびき出した。僕が──ハリーたちを危険な目に遭わせた」
「マリア」
「言わないでください。どうしようもなかっただとか──君のせいじゃないだとか──そんなのはほしくない。それは優しさじゃない。あなたはそれをよくご存知でしょう」
沈黙。肖像画たちすらも息をひそめる重みで部屋は満ちていた。
「お互いに──失敗しました」
それこそが真実だった。ダンブルドアは失敗した。僕は失敗した。──過つのはいつだって『僕』だ。
「──じゃが、ルシウスは救えた。そうじゃな?」
「────」
大きく顔をあげた。もうダンブルドアの目に涙は見えなかった。
「ドラコはうしなわなかった。すなわち──彼は勝利した」
「ええ……ええ、彼は決して手放さなかった」
よそ見なんてせず、一心に求めて──そして奪い返したのだ。ドラコは件の戦いにおける唯一の勝者だった。
「救いじゃ。それは……わしらにとって大きな救いとなる」
「……はい」
拳を握りしめる。うなずくしかない。だって──泣かないと約束したんだ。たとえ、それがあなたに届くことはなくても。
「マリア、君は優しい子じゃ。わしは君だって愛しておる。君が絶望を見ないよう、君が健やかにその時まであれるよう、祈っておる。願っている。愛している。こんな老いぼれで代わりになれるならば命とて惜しくはない。君たちは──愛しい。じゃが、しかしそれでも君は『予言』に向かって、」
「────予言?」
はた、と、空気は硬直した。ダンブルドアは目を見開いていた。僕はさらに開いていた。
予言? 予言だって? ────
「どういうことですか。予言って……僕に? マリアに? それは、確かに?」
「……知らぬのか?」
「僕──僕、ハリーの予言は知ってる。七つ目の月が死ぬときに生まれる子供。三度、帝王に抗った両親から生まれる子供。それを──帝王が自ら選んだ。印を刻んで」
「そうじゃ」
「一方が生きるかぎり、他方は生きられない──ハリーとヴォルデモートは、最後には互いを殺し合わねばならない」
「その通りじゃ」
ダンブルドアは動揺していた。人間らしい顔だった。
「それで────トレローニーの予言は、それだけじゃなかった?」
「まったくその通りじゃ、マリア」
再び、沈黙。言葉もないのに場は混乱の極みにあった。
「マリアの予言──それは、ハリーに関わるものなのですか──?」
「そうとも言えるし、そうでなかったかもしれん。正確には『生き残った男の子』に関わる予言じゃ」
ダンブルドアは杖を取り出していた。こめかみ辺りへと杖先を当てた。そして────ためらった。幼い子に対してひどくむごい事実を告げるような──いたいけで無垢な生き物に残酷な行為を働くような──そんな顔で押し黙っていた。
「先生」
「マリア、わしは君を愛しておる」
「ダンブルドア先生」
「愛しいのじゃ、君たちが。これ以上、どうして苦しめられよう」
「ダンブルドア先生!」
癇癪と同時に責め立てれば、ようやっとダンブルドアは記憶の糸を引き出した。情けないほど弱々しい銀糸が憂いの篩へと吸い込まれていった。
「わしは──君は
トレローニーの声が語りだす。
──分かつ男女の子供。元はひとつの子供。少女は寄り添うだろう。闇の帝王を打ち破る力を持った者に、少女は死するときまで付き添うだろう。彼女は死を抱き締めるだろう。
一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ。分かつ子供たちは、同時には生きられぬ──
「────」
「『生き残った男の子』の近くにある男女の双子は──君たちだけじゃ」
静寂だった。自身の心音すらも嘘くさくて、肖像画すら狸寝入りを忘れて聞き入っていた。ダンブルドアは苦悩の表情にあった。
マリアは。
「僕は────ハリーのために、死ななければならない?」
ピィピィ鳴くみにくい雛のフォークスだけが間抜けに返事をくれていた。
分かつ子供──ホグワーツに存在する双子が僕たちだけなわけではない。ウィーズリーの双子がいる。パチル姉妹だって双子だ。けれど、どちらも同性の双子だった。そして──たとえ『生き残った男の子』がネビルだったとしても、僕は共に歩いていた。『生き残った男の子』に付き添う双子の女の子は────
「だから──」
僕は立ち上がった。
「だから、僕を排除しなかった? こんなに怪しい人間を──『生き残った男の子』であるハリーの側から? あえて対になるよう見逃していたんですか? ハリーの危険はマリアが背負うものなんだと、そう、あなたは思っていたのか」
「わしは君は承知の上なのだと思っていた。まさか──まさか──君の献身はただその心からだけだったとは──兄弟を想う心だけだったとは──」
「僕は──僕もまた、家畜のように育てられてきたのですか?」
「ちがう!」
ダンブルドアも立ち上がった。ダンブルドアは再びくたびれきった老人のように、今にも崩れ落ちそうに見えた。それでも──彼にはそれが許されない。みながダンブルドアを求める限り、ダンブルドアという絶対の庇護を盲信する限り、ダンブルドアは心を無にして応えねばならない。
ハリー・ポッターが『英雄』であるように。
「それでも──君たちになによりも幸せであってほしかった」
ダンブルドアのからがらの叫びに咄嗟に口を抑えた。そんな綺麗事──飛び出しかけた罵倒を手の中で唇を噛んで耐える。
なにがちがう。僕と彼と──なにがちがうというのだ。僕らは互いに、互いを刺す剣を持つことはできないのだ。
「マリア……」
どうにか唾と共に激情を呑み込んで、ダンブルドアの前へと立つ。声はいっそ無感情的ですらあった。
「言ってください」
「マリア」
「あなたの口で、言ってください。誰かに託すのではない、あなたの口で。────しかるべき時に、死ねと」
「────」
スネイプ先生に預けるだなんて、そんなずるい真似はしないで。あなた自身が噛みしめるのだ。──僕たちが生きていて、愛する人に生きながらに死を望まれている残酷を。僕たちが人間として生きていることを。
僕とあなたに──逃げ道は許されていないことを。
ダンブルドアは罪過にあえいだ。
「マリア──どうか──どうか────」
痛みを知るダンブルドアは──人間だ。
「ハリーのために、しかるべき時に、死んでおくれ」
僕は。
「──はい」
僕は、笑った。笑えた。よどみが拭われた心地だった。喉にへばりついていたどろどろを胃の底まで押し込んだ。消えず、蓄積した。
これでいいんだ。……今は、これだけでいい。
「すまぬ、マリア……マリア……どうにもできぬ老いぼれを、許さんでくれ」
「いいえ、許します。だからいっぱい苦しんでください」
ダンブルドアのキラキラしたブルーアイから涙がこぼれ落ちた。この人は──こんなにも人間なのに。
「ダンブルドア先生。あなたを愛しています」
「マリア……」
「あなたに果てしない恩義を感じています。あなたの心を受け継いでいます。……こんなところにまで」
目の前の老人の肩を抱いた。ハリーであった頃よりもダンブルドアを大きく感じるはずだ。なぜならこの身はハリーよりも華奢なマリアなのだから。けれども──なんてちいさな肩だ。この人は人間だ。
「だから、特別です。先生にだけ、特別ですよ。よく聞いてくださいね。────ハリーは、三人の子宝に恵まれました」
「────」
「ひとりはやんちゃな男の子、ジェームズ・シリウス・ポッター。二人目はおとなしいけど頑固なところはそっくりのアルバス・セブルス・ポッター。三人目は甘えん坊のお姫さま、リリー・ルーナ・ポッター。みんな、かわいい子供たちです」
「……ハリー、は」
「ハリーは幸せに生きました」
「……っおお、おお……」
背にダンブルドアの手が寄せられる。誰かのために生きる人は──いつだって自分自身を罰している。誰かが許してやらねば、永遠に心は血濡れのままだ。
「さあ、先生。しっかりしてください。あなたはアルバス・ダンブルドアなのだから。あなたを慕い、あなたの名を継ぐ子が未来にいるのだから。アルバス・セブルスが失望しないよう、もっと隙のない姿でいてくれないと」
「……手厳しいのう」
ダンブルドアの手が離れた。ダンブルドアの涙は笑顔の向こうへとなくなっていた。
「先生の話が長いものだから、僕、すっかりお腹がペコペコなんですよ」
「老人の話は得てして長いものじゃ」
「それは学期終わりの挨拶だけで十分です。……マダム・ポンフリーは大広間に行く許可をくださるでしょうか」
「はてさて、当分、ごちそうはお預けやもしれんのう」
「口添えはしてくださらないと?」
「わしも女史にはめっぽう弱くての。頭がほれ、この通りじゃ」
ほとんど首なしニックのようにガックリ頭を落としたダンブルドアにクスクス笑う。
大丈夫、笑えるとも。あなたと約束したから。──泣かないと、約束したから。
「マリア」
取っ手に手をかけたところで、ダンブルドアの声がやわらかく僕を呼んだ。
「君は──」
ダンブルドアはその後に続く言葉を完全に呑み込んだ。そして慈愛の目で問うた。
「もしも死者に会えるとするなら──君なら、どうする」
僕は答えた。
「もう、会えました」
この世界は奇跡でできている。──奇跡の中に、僕たちは生きている。
***
校長室を出てすぐ、黒髪の少女に会った。神秘部での戦いの中、もっとも軽傷だった彼女はマダム・ポンフリーの入院の刑から逃れることができたらしい。ところどころ包帯を残しつつも、美しさを損なわない凛とした姿で立っていた。
「やあ、チョウ」
「こんなところにいたのね。わたし、ついさっきあなたのお見舞いに行ったのよ」
「戻るところだったんだ」
雑談を交えて自然と廊下を共にする。ふと、アンソニーを思い出した。こんなふうに歩くのは彼とが多かった。そして、途中でドラコが邪魔をして────
「…………」
「…………」
気まずい。いつまでも脳内にばかり逃げてはいられない。立ち止まった。チョウも立ち止まった。
彼女は知らない。知ったとすれば、どう思うだろう。──君が懸命に守るマリアは、生まれた瞬間から死を決定付けられていたのだと。
「──わたしを恨んでいるでしょうね」
沈黙を破ったのはチョウだった。
「わたし、彼が誰だか知ってるわ。新聞で何度か見たもの。シリウス・ブラック──あなたたちの、親……のようなもの、だったんでしょう」
「うん」
「わたしが止めなければ、間に合ったかもしれないわね」
「…………」
「でも、あなたは死んでいたかもしれない」
「──っそうじゃなかったかもしれない!」
自身の声が人のいない通路に反響して、ハッと息を呑んだ。チョウは凪いだ目で静かに僕を見つめていた。
「それでも、わたし、同じことをするわ。何度だってくり返すわ。何度、同じ場面になってもあなたを引き留めるわ。あなたが絶対に死なない方法を選ぶわ。だから──謝らない。あなたには謝らない」
チョウは、泣いていた。
「わたしを恨んでいるでしょうね」
「チョウ……」
「わたしたち──同じ場所に立ってしまったのね」
美しく泣く彼女の頬へと手を伸ばす。こんなふうに泣かせてしまって……君に怒られるだろうか、セドリック。
僕が結局、その手からすり抜けてしまったなら──やっぱり君は泣いてしまうのだろうか。
「どうして、君が泣くの」
「あなたが泣かないからよ。わたしは泣いたわ。たくさん泣いたわ。泣いて受け止めたわ。あなたが受け止めてくれたんだわ。──でも、あなたは泣かない」
「チョウ」
「だからわたしが泣くの。さあ、ほら、わたしを泣き止ませたかったら泣いてごらんなさいよ」
「めちゃくちゃだ」
濡れる頬を指でぬぐう。何度ぬぐったって綺麗な真珠はこぼれていく。泣くどころか──こんなの、笑ってしまうじゃないか。
「やっぱり泣き虫だなあ、君」
「知ったふうな口を利くのね」
「実は、よく泣く君を知ってるんだ」
「セドリックから聞いていたんでしょう」
「当たらずといえども遠からずかな」
とうとう本格的にしゃくり上げ始めてしまった彼女に苦笑する。彼女のほうが年上で、身長も高くて大人っぽくて、ハリー・ポッターの頃からの憧れで──そんな人が鼻も耳も真っ赤にして泣く姿はほしいものを得られずだだをこねる子供みたいだった。
「泣いてちょうだいよ。見てられないわ」
「泣かないよ」
「どうして」
「約束したんだ。……泣かないって、約束したから」
「そんなの──そんなの、呪いだわ」
チョウは大声で泣いた。その声は遠くの誰かを責めているようだった。
僕のために────誰かを責めていた。