やあ、おかえり。心做しか薄くなったような気のするブロンドの彼にヒラヒラと手を振る。
「……ずいぶんやられたな」
「君の伯母さん、ほんとうにおそろしいよ」
茶化せば、軽く額を小突かれた。それだけで世界が揺れた気がした。受け身も取れず看護ベッドへと沈む僕に、焦るドラコにほんの少し意地悪な気持ちが湧いてわざとらしくうめいた。
「ああ、ひどい。今のがトドメになった気がする。彼女の患者を殺したとなったら、マダム・ポンフリーに地の果てまで追いかけられるぞ」
「やめろ。洒落にならない──件のマダム・ポンフリーは?」
「出てるよ。みーんなが寝たからね」
行儀悪く顎で隣を差す。僕以外の患者たちはすっかり夢の中だった。僕の隣はハリーだ。向かいはロン。その隣がネビルで逆隣がハーマイオニーだ。ジニーとルーナは事件の翌日には退院していた。──つまり、実質僕らは今、二人きりなのだ。
僕の言葉の意図を正確に読み取ったドラコは素早くカーテンを引いた。薄っぺらな布で空間を切り取って、流れ作業で防音魔法をかければ簡易報告室のできあがりだ。
「ひさしぶり、と言うべきかい? 親子水入らずは楽しめたかな、ドラコ坊っちゃん」
「うるさい」
ドラコに小突かれた額を今度はドラコ自身によって撫でられる。子供たちが熱を出した時の『僕』のジニーのような手つきだ。幼少の頃にナルシッサからこのようにあやされたのだろうか。
「……ルシウスは、ちゃんと生きてるんだね。すっかり死喰い人たちの証言で死亡者扱いになってるけど。──案外、上手くいくものだ」
「……ああ」
ドラコはどことなく放心気味にうなずいた。
──すべては、彼が僕に『告白』した一年前から始まった。
ホグワーツの生徒たちも、そしてその親たちも多くいる駅を舞台に選んだのには訳があった。──牽制だ。ドラコは牽制したのだ。闇の陣営に与するものたちに。そして自身の両親に。ドラコ・マルフォイはポッター家に関心を持っているのだと知らしめた。
だがしかしマルフォイ家そのものは闇の陣営に近しい存在だ。ゆえに──ドラコは不安定な『中立』の立場を得られた。
ホグワーツでの態度も拍車をかけた。ドラコ・マルフォイがマリア・ポッターに告白する場面を多くのものが見た。だというのに当の本人たちはまるで親しくする様子がない。いっそよそよそしいほどだ。どうなってしまったのか。ドラコ・マルフォイは
混乱は子供から親へと伝わり闇の陣営そのものを巻き込んだ。
スポンサーであるマルフォイ家のただひとりの子息だ。大切にしなければならない。だがしかしポッター家に肩入れしているかもしれない子供だ。ならば排除しなければならない。
ドラコは絶妙に『どっちつかず』を利用した。自身が死喰い人として目をつけられることも、また邪魔者として処理されることも避けた。それはまさしく一つの判断が死を招く命がけの駆け引きであった。
では、なぜ、それほど危険な橋を渡ったのか──ルシウス・マルフォイただひとりのためだ。
このままではルシウスは神秘部での作戦失敗を機にアズカバンへと投獄されてしまう。それによってマルフォイ家の闇の陣営内での権威は極端に落ち込み、結果、子供のドラコがとんでもない尻拭いを課せられることとなる。
ドラコはどうしても避けたかった。家族の不幸を。自身の悲惨な末路を。──そして、ひとつのシナリオを計画した。
ルシウス・マルフォイの悪事をその手で阻止する息子というシナリオを。
ルシウスをある程度まで成功させ、ヴォルデモートにルシウスを信用させた上で神秘部にてドラコがルシウスを打ち倒す。可能ならばルシウスを
死喰い人たちにチームワークは存在しない。役立たずも怪我人も死人も切り捨てていくのが彼らだ。魔法省とて死人までは追う余力はないだろうし、仮に身柄を確保され裁判へ起き上がったとしてもドラコの働きから情状酌量の余地は十分にあるだろう。どうあってもルシウスはドラコの手で
それらが叶えば、あとは時が来るまでルシウスを世間からかくまうだけだ。──そこで活躍したのが『忠誠の術』とマルフォイ家の別荘であった。別荘の在処を知るのは僕とドラコ、管理していた家のもの、最後にナルシッサのみだ。あらかじめ僕の筆跡で住所をしたためた紙をドラコへと持たせ、無力化したルシウスを連れて別荘へと向かえば、晴れて死人のルシウスを囲む檻は完成した。
これほど壮大な計画を、ドラコはただひとり内に秘めて決行したのだ。
相談する相手もマリア・ ポッターを除いてたったのひとりもいない状態で──ドラコ・マルフォイはやり遂げた。
ナルシッサにだって別荘の話を持ちかけるまで騙しきった。そうするしかなかった。──ヴォルデモートは優秀な開心術者なのだから。どちらの心にもドラコへの愛情を染み付かせるわけにはいかなかった。徹底的に親との不仲を演じるしかなかった。
「いったいどんな目眩ましをしたんだ? まさか本気で──死の呪文を放ったわけではないだろう?」
「……ああ」
すっかりくたびれた様子のドラコはためらいがちに答えた。
「ベラトリックスが唱えたのに合わせて失神呪文を使ったんだ。おそらくそれが、周囲には僕も死の呪文を放ったように見えたのだろう」
「……そう、仕組んだくせに」
「ご名答だ。──チャンスだと思ったよ。そのあとは事前の打ち合わせ通り混乱にまぎれて屋敷付近まで姿現しをして、父上にお目覚めいただいてから別荘で待機していた母上へと引き渡した。ホグワーツまでは母上の手を借りた。あんなめちゃくちゃな状況にあったんだ。誰も僕が消えたことになんて気づいちゃいなかっただろう?」
「ダンブルドア以外はね」
「……はなからそのご老人は数に入れてない」
ドラコのダンブルドアへの苦手意識をひしひしと感じて小さく吹き出す。どちらの声にも覇気はなかった。
「……君は、利用したんだ。シリウスを殺した光を」
「ああ」
ドラコはうつむいていた。目を閉じた。なんだか刑を待つ罪人のような顔だった。
「ドラコ」
背を起こす。何度もベラトリックスの拳によって揺すられた頭を動かさないよう、時間をかけながらドラコへと向き合う。
「ドラコ」
「なんだ」
ドラコは目を閉じたままだった。……殴ってなんか、やらないよ。
「──がんばったね」
瞬間──長く透き通った睫毛を押し上げて水面のような瞳が現れた。波紋を中に浮かべるように瞳は揺れていた。
「マリア」
「君、すごくがんばったよ。僕が手助けしたのなんてほんの少し。ぜんぶ、君がやった。──君がルシウスを救った」
「──がう、ちがうんだ、父上は」
ドラコは声を震わせた。
「父上は、ずっと、僕を」
ドラコは優秀な閉心術の担い手だ。それは、彼が真から『子供』であった頃から揺るがぬものだった。ならば────ルシウスだって、彼の自身の心を殺す覚悟は本物だったのだ。
「父上は、僕を愛してくださっていた」
「うん」
「あの人の目が僕へ向かないよう──僕は一度、殺されかけているから」
「そうだね」
「ダンブルドアと交渉して──僕のために、危険な任を──スネイプ教授のように──僕のために。僕を見守ってくれと、ダンブルドアに」
ダンブルドアがかつて告げた言葉──「君の勇気に見合う対価ならすでにもらっておる」
それを支払うものこそが、ルシウス・マルフォイだったのだ。ルシウスはスネイプ先生に続くスパイとして息子の命を守っていた。
「私は──父に愛されていた」
「ルシウスはドラコが大好きだよ」
ビリビリと嫌な痛みを訴える腕を持ち上げてドラコの頭を胸に抱く。
「よくがんばったね、ドラコ。君、すごいよ。君たちの未来は明るいとも。それは、君が──君がその手で掴んだ未来だ。君が愛する人たちを救ったんだ。……弱虫の、意気地無しの、臆病者のマルフォイが」
ドラコの手が僕のパジャマを握りしめる。背中まで回って、無遠慮に締め付ける。肩は震えていた。胸にかかる息も震えていた。じわりと彼の目と触れる部分がしめった。ドラコは一年間ものあいだ抱き続けた恐怖を、孤独を吐き出すように泣いていた。
「……リー、ハリー」
「なんだい、ドラコ」
「ハリー……っ」
情けない涙声で僕の名を呼ぶ、子供のような彼の背を撫でる。
「私……でも、こんな、私でも、私にも、誰かを──私が、」
「君があの日のスコーピウスを救ったし、今日のルシウスを守ったんだ。どこの誰でもない。もちろんハリー・ポッターでもない。──君だよ、ドラコ・マルフォイ」
殺しきれない嗚咽がしめった布の貼り付く肌を撫でた。ドラコは泣きじゃくった。十五歳みたいに。子供みたいに。もうひとつの人生を生きるドラコ・マルフォイははじめて年相応に泣いた。圧し殺した涙じゃなく、声を上げて泣いた。
十五歳のドラコ・マルフォイはここに生きていた。
***
今学期最後の夜だ。とても学期末パーティーに出る気分にはなれなくて、荷造りをするふりをして寝室へと閉じこもった。みんなが無事に退院し、アンブリッジもいなくなったホグワーツはほがらかで日常にあふれていた。その中で笑う僕は──パペットショーのように嘘くさかった。
建前上、荷造りと称して追い出したのだからと、のろのろと嘘をまことにする。トランクにくしゃくしゃのまま服をつめる。ローブがしわくちゃになってしまおうとかまわなかった。
ふと、荷物に潰され妙な模様を作っていたベッドシーツに巻き込まれる形で小物が落ちた。両の手のひらに収まるほどの箱だった。
「──あ」
ドラコからのクリスマスプレゼントだ。好きな人の歌声でうたうというオルゴール──
荷造りからすっかり意識がそれて、惰性的にネジを回した。カラカラと透き通った音色が流れ出す。
はじめに歌い出したのはやはりハリーだった。自分の歌声はこんなだっただろうか──妙にくすぐったくて小さく笑った。次はロンだ。まったく調子外れの音程でクリスマスソングを熱唱していた。ロンらしいと思うと同時にロンには聴かせられないなと笑った。うっかり拗ねられかねない。次はハーマイオニーだ。程好く音程の取れた綺麗な歌声で、教会のミサを思い出した。その次はジニー、ネビル、アステリア、ルーナ……様々な仲間たちの声に包まれて少しずつ心が浮上する。羽ペンや教科書なんかが散らばったままのベッドへと腰を落ち着けて、愛しく愉快なオルゴール撫でる。
そして、クリスマスソングも最後のフレーズに差し掛かった頃。
「────ぁ」
その、声は。
グリモールド・プレイスをクリスマス色に飾り付けて、鼻唄まじりにもみの木を置いたりして、心做しか赤色が強いモールをそこかしこに引っかけて。
楽しそうに、彼が歌った──声。
「あ、あ──ぁ、」
彼が歌っている。彼の声が歌っている。たぶんそのつもりになればものすごく上手いのに、恥ずかしそうにわざと下手くそっぽく鼻唄で歌っている。
オルゴールにパタパタと滴が降り落ちた。
もうその声はどこにもないのに。
彼は、歌わないのに。
彼の声は永久に喪われたのに。
歌声が。
「あぁ、あ──ぁ────あ」
ぼろぼろと、あふれる。とまらない──とまらない──歌声が、止まない。
「あ…………あああああああ……っ」
オルゴールを手の中で懸命に握りしめた。そうしなければ、なくなってしまう気がした。
「シリウス」
無理だよ。
「シリウス」
やっぱり、僕には無理だ。
「シリウス……っ」
身を屈めて、オルゴールを抱え込んで。彼の声を抱き締めた。
「泣くな、なんて──嘆くな、なんて────そんなの、無理だよ。シリウス」
あなたがいないのに。
あなたは、いないのに。
「シリウス」
声は、もうマリアとは呼んでくれない。