それはクリームの柔らかな色合いをしていた。花模様が彫られ、きっと部屋の主は繊細で可憐な花のような少女だろうと見る者に思わせた。薄っぺらな愛情と幸福で隅々までつくろった無情な檻だった。
僕らがただの子供であったなら気付けなかっただろう。この扉にだけ──外から錠をする魔法がかけられているだなんて。
二階の最奥。大切な宝物を隠すように、彼女はそこにいた。
「アステリア」
「うそ」
ベッドへ寝転び柔らかな髪をシーツに広げて目を閉じる少女は──なるほど、ここに来てようやく僕はドラコの恐怖を我が事のように実感した。
彼女は死んでいた。
死体の少女が虚ろに侵入者を見上げた。
「どうして」
「僕とハリーにはいくつか小狡い道具がそろっていてね」
「どうして」
「正直、犯罪まがいの代物ばかりだから囚われのお姫様を救いに来たヒーローというよりは盗賊に近いんだけど」
「どうして」
「ねえ、アステリア──君は、」
「どうして────どうしてッ!!」
死体が息を吹き返す。人形に感情が宿る。
「わたし、死ぬの! わたし、死ぬのよ? どうして!? ひどいわ──ひどい──わたし、もう死んだのに! 死んでいるのに!」
「アステリア」
「わたし──生きていないのに」
「君は生きている」
身を起こし髪を振り乱すその人に真っ先に触れたのはドラコだった。彼女の体温を確かめるように、千切れかけた魂を繋ぎ止めるように、無我夢中で愛する人を抱き締めた。
「君はここにいる」
「────」
「こんなにもあたたかいのだから。──私は、冷たい君を知っている。私は、君の知らない『君』を知っている。だから、断言しよう。──アステリア・グリーングラスはここに生きている」
「わたし──」
色を失った震える指が己を抱き留める男の背へと回る。存在を確かめて、これは幽鬼でないのだとすがる。柔らかな光を持った瞳がもう一人の侵入者を見据える。
「今までで一番、夢のような悪夢だわ」
「夢じゃないよ」
ひざまずいて、彼女の頬を両手で包んで。──あたたかい。触れて確かめねば安堵できないほど──眠る彼女は生を放棄していた。己から死へと向かおうとしていた。……震えているくせに。泣いてしまうくせに。
「夢でしか生きられないなんて──そんなことは僕たちが言わせない」
ほろっと、滴が長い睫毛にはじかれ滑り落ちた。一粒だけのそれは、泡沫のように胸元のリボンへと吸い込まれていった。
「ほんとうに……?」
「ああ」
「マリアなの?」
「君のマリアだよ」
「ドラコお兄様?」
「君のドラコお兄様だとも」
「わたし──わたくし──」
ためらいから宙を彷徨う彼女の手を同時に掴む。ドラコと示し合わせてニンマリと笑う。
「「攫いに来たよ、眠り姫」」
「────」
パッとアステリアの瞳が開いた。丸い虹彩の中に僕たちの姿を写すアステリアは、間違いなく僕たちが知るままのアステリアだったし、人間の顔をしていた。不器用で、笑っちゃうくらい真面目で、一生懸命で、ときどき年相応の愛らしいはにかみ笑いを見せてくれる──かわいい普通の女の子。アステリアはただの女の子なのだ。
だから、わかる──アステリアの枷はいまだ彼女を棺に繋ぎ留めている。
「わたくし──ごめんなさい。そしてありがとう、とても嬉しいです。だから、きっと逃げて」
「──君は、共には来られないの?」
「はい。わたくしはお二人と共にはゆけません」
「どうして? ──どうして、君は殺されようとしているんだ」
彼女と、そしてドラコを取り巻く問題のすべてへの核心だった。追い続けてきた真相にチェックメイトを打つときが来た。
「奴等は──君の家族は、君になにをさせようとしている? 君はいったい、何の犠牲になってるんだ」
アステリアは────笑った。
「血です」
『血』
「わたくしの血が、必要なのだそうです。延いてはわたくしの身体そのものを──わたくしの呪いを、切り刻んで研究なさりたいのだそうですわ」
「────」
──嗚呼、なんて。無慈悲。
ようやく繋がった。『前回』に比べ、これほどに激変した彼女の境遇。彼女の価値。彼女の人生とその末路。どこからずれたのか────最初からだ。
アステリア・グリーングラスが血の呪いを持って生まれたそのときから、彼女の運命は彼女に牙を突き立て致死の毒を注ぎ続けてきたのだ。
「血の呪いを持つ者はとても少ないのですもの。ええ、貴重なサンプルと言えるでしょう」
「そんな、ことが──許されるわけ──」
「許されるのです。『あの人』の作る新世界では」
ぐっと拳を固めた。血と共に僕の身を巡ったのは、ただただ純粋な怒りだった。ヴォルデモートと、そして──アステリアへの。
「どうして──どうして逃げないんだ、どうして抗わない!? どうして助けを求めない!」
ここにいるのに。君の手を掴もうともがき続ける男がすぐ側にいるのに。君を愛しているのに。君に生きろと願っているのに。──ドラコ・マルフォイは、ただそれだけを祈り続けたのに。
「だいきらいでした」
声はか細かった。けれども、芯を持ち透き通っていた。
「この血がきらいでした。この身がきらいでした。わたくしはわたくしの呪いを呪いました。わたくし自身がわたくしを恨み蔑み不要なものとして殺そうとしていました。わたくしこそが────わたくしを否定し嫌悪した」
アステリア・グリーングラスは、アステリア・グリーングラスがだいきらいだ。
「それを──求められた。周囲も、家族も、そしてわたくしも、嫌い厭った血を必要とされた。わたくしの個そのものは無価値であると断じ、よりによってもっとも不快な部分を認められた。どうしてでしょうね──わたし、それだけで────死んでしまおうと思ったのです」
「…………」
「とても、必死なのです。それが伝わるのです。面白半分でわたくしを弄くり回したい方も当然いらっしゃるでしょう。ですが、『あの人』は──」
あの人、と──アステリアは己を殺そうとしている存在を憐憫の声で呼んだ。
「助けたいのでしょうね。きっと、わたくしと同じような──呪いに生きた誰かを」
「アステリア……」
「わたくし、はじめてだったのです。誰もが厭ったこの血を求められたのは。──わたくし自身が見捨てたわたくしを、価値あるものとして見る人がいた。ただ、それだけのことなのです」
空々しい微笑み──少女の吐露を受けて、男の瞳がゆるやかに開く。冷たい光がそこにある。氷の瞳が熱を持つ。
「その上──その上、なんて幸福でしょう。大好きな人たちが、墓場にまで会いに来てくださった。この死躯に再びあなたたちに触れる誉れをくださった。────十分です」
「アステリア」
空々しく悔いのひとつも見せてくれない薄情者に、プツンと、ドラコの理性は呆気なく切れた。
「アステリア──時々、君は、僕を怒らせることに関しては天才的だ。その才能だけはマリアすら上回る」
「……ドラコお兄様?」
「はじめて、求められた? はじめて、認められた? ────僕が、いつ、君の呪いを疎んだんだ?」
「…………」
「僕は君の呪いを欠点のように扱ったか? 否定をしたか?」
氷の中でごうごうと炎が荒れ狂っていた。今にも彼の怒りが溶け出して、少女を呑み尽くしてしまうかと思った。それを真っ直ぐに向けられたアステリアは、人間のまま人間らしく硬直していた。
「君はどうも、重要なものほど遠くへ置いてしまう悪癖があるからな──何度だって、しつこく、執念深く、繰り返してやろう」
彼の本質は蛇だ。狡猾で、目的のためならば手段を選ばない。そのためならばどこまでも残酷になれる。──一度でも捕らえ、愛したのならなにがあっても逃がさない。
「僕は、君を、愛している」
こんなにも自分勝手で欲だけを煮詰めた
「ドラコ・マルフォイは、アステリア・グリーングラスのすべてを愛している」
「────あ、」
アステリアの瞳から再びほろほろと意地が剥がれ落ちた。仮面の向こうの無防備な少女が、大口を開けていかる蛇の前にさらけ出されようとしていた。──ほぅら、捕まった。
「目も、耳も、鼻も、唇も、髪も、指も、肌も、声も、心も──君の大嫌いな呪いも、僕が愛している」
「わたし、」
「僕が望んでいる。僕が慈しむ。僕が抱える」
「待って」
「さあ、アステリア。スリザリンらしく利益で決めてしまえ。君のすべてを世界一愛してる男とこれからを共に生きるのか、君の嫌いな部分だけを求める連中と愛のない心中を遂げるか。──どちらが君にとって幸福だ?」
アステリアは動揺の眼差しを咄嗟に僕へと逃がした。しかし残念かな──僕はこの男の共犯者なのだ。蛇に目を付けられた
「アステリア、君ばかりが求めてほしいって駄々をこねるのはずるいと思わないかい? ──君からも、求めてみてよ」
「マリア」
「アステリア────君は、どうしたい?」
ぐるぐる、ぐるぐると、愛に追い詰められた少女の冷静ぶった思考を壊していく。それでこそ、本音が見える。高く厚くそびえていた壁の向こうの声無き悲鳴を引きずり出す。
「わたし……生きていても、役に立てません」
「ああ」
「永遠にお荷物です」
「かもね」
「お金がかかります」
「マルフォイからすればこれほど些細な問題はないな」
「この身は永くないのです」
「なら、なおさら手放せないね」
「わたし──わたしは──」
そして、丸裸のアステリアは答えた。
「生きたい。死にたくない」
──やっと、僕たちの小さな少女を取り返した。
「生きよう」「一緒に」
「キャッ──」
アステリアをベッドから抱き上げる。なんて華奢な身体だ。ハーマイオニーよりも……もしかしたらジニーよりも、軽い。こんな体躯で、気力だけで立ち続けて、崩れないはずがあるものか。よくも僕たちのレディを私利私欲のモルモットなんぞに仕立てあげてくれたものだ。この借りは必ず返してやる。
「ま、待って、マリア」
「……マリア」
「しかたないだろ? 君には前衛を務めてもらわなくちゃいけないんだから。一丁前の嫉妬はひとまず置いて、僕の杖で存分に露払いしてくれよ」
「チッ、今回だけだ」
「我ら王子にあらず、盗賊なり──てね」
「マリア、マリア、聞いてちょうだい」
首に回ったアステリアの手が弱々しく背を叩くので、そろって彼女を見る。
「わたくし、ここから動けないの」
「うん。だから、僕が抱き上げて──」
「そうではないの。──繋がれているの」
アステリアが示した指の先には、ネグリジェから伸びる脚と白い蔦のようなものが絡む足首があった。皮肉にも、彼女の蒼い肌に白の鎖は儚く美しく見えた。
「なんだ、そんなこと。こういうときは、エマン──」
「待て、マリア。魔法は使わないほうがいい。能力ある者が見れば痕跡を追われる。こういった場合はマグル式だ」
杖なしのままエマンシパレを唱えようとした僕をさえぎり、ドラコがシリウスのナイフを使って蔦を切る。既視感。──ああ、そうか。そういうことだったのか。
「……? なんだ、ニヤニヤして。きもちわるいぞ」
「とことん君たちって似た者親子だと思っただけだよ。そしてこの顔はニヤニヤしたって見られる顔だ。母さんそっくりの美人だもの」
軽口を叩き合って、改めて身一つのアステリアを抱き上げる。いつかの夜のように、アステリアはぐったりと僕へ全身を預けてくれた。そしていつかの夜とはちがい、彼女の顔がはっきりと見えた。
「マリア──ありがとう」
「どういたしまして、アステリア」
「ドラコお兄様────どうか、おゆるしください」
「すべてを」
どうしようもなく不器用に生きる宝物を盗んで、僕らは走った。