「──わかってはいたけど、これは」
死喰い人らしき影を前方に確認して方向転換する。四度目だ。アステリアに絡んでいた蔦は、どうやら彼女自身の異常を感知し伝える役割も果たしていたようで──とことん実験物としての扱いだ。吐き気がする──それが切れた時点で、屋敷全体に姿眩まし防止の魔法がかけられたらしかった。
ハリーたちは無事に合流・強奪・脱出とこなせただろうか。まだだったなら……悪いことしちゃったかな。
「キリがないね」
「まったくだ」
死喰い人の二人組が通り過ぎるのを、廊下の角で息をひそめて待つ。
「……あの、マリア」
「うん?」
「こんなときにごめんなさい。けれど、目についてしまったものですから…………この、傷は?」
腕の中のアステリアがおずおずと触れたそれは、胸から腰まで大きくななめに刻まれたセクタムセンプラの名残だ。セクタムセンプラは闇の魔術であるため、通常の治療では完治にまで至れないのだ。ジョージの耳は骨生え薬のように生え戻ったりはしないし、僕の場合は血は止まったがごらんの通り、目に痛い芸術を残してくれた。実は時々、横になった際に肌が引きつって慢性的に痛んだりもする。それが、ドレスの開いた胸元から見えていたのだ。
「いったいなにが──誰が、あなたにこのような」
「ンー……僕自身、かな」
「え?」
「因果応報ってやつ」
ニッコリ笑ってみせれば、アステリアはなおさら眉を悲しげに下げてしまった。
「痛くは……」
「レディたち、雑談はそこまでだ。アステリアは舌を噛まないよう閉じていてくれ。走れるな? マリア」
「もちろん」
周囲への警戒を解いて杖を握り直したドラコに続く。アステリアは揺れる瞳で僕の傷を見つめ続けていた。優しい子だ。
ああ、そうだ。アステリアを肩へ上げる形に抱き変えて、シリウスのナイフを取り出す。──ビリリッ。
「マ、マリア?」
「……オイ、いいのか」
「だって動くのに邪魔なんだもの。シリウスだってゆるしてくれるよ。着る本人が死んじゃあ世話ないのだし」
「……お前はそういうやつだよ」
即席スリットデザインと化したドレスに満足に息をついた僕を見て、アステリアは真っ青で絶句するしドラコは慣れているとばかりに半笑いだった。ムカつくな、その顔。
男の慌ただしい号令やら足音から逃げながら、階段を三段飛ばしに駆け降りる。出口を探す。さすがに、今度こそ正面突破は不可能だろう。どの場所にも刺客が待ち構えていると覚悟すべきだ。
見かねたアステリアの指示にしたがって中庭方面を目指す。
「裏の花壇はダフネお姉様の個人的な財産として扱われています。そしてお姉様のご希望により直に外へ出られる門があります。さらにお姉様は干渉されることを嫌いますから、警備も他の場所よりは手薄かと。ただ──」
「────本人が待ち構えている可能性が一番高いってことだね」
中庭を抜け裏庭へと続く渡り廊下にて、その人は外界の喧騒とは無縁であるとばかりに微笑んでいた。
「思っていたとおり──その口紅、よくお似合いでいらっしゃいますわ。ミス」
「……ダフネ」
涼やかに立ちはだかる実姉を見つめるアステリアを、肩を貸しながら地へと下ろす。いまだふらついてはいるものの、家族と対する最低限の矜持からか、アステリアは凛と背筋を伸ばして姉と向き合った。
「ダフネお姉様──わたくしは、」
──カラン。アステリアの言葉をさえぎるように、ダフネが黒いなにかをアステリアの足元へと放った。警戒と共に見れば、それは彼女が身に付けていたレースの手袋だった。
「ダフネお姉様……?」
「なにをしているの? はやく拾いなさい」
「あっ……」
姉の冷たい声に急かされるままにアステリアが手袋を拾い上げる。途端、姉と同じ色形の瞳が開く。ドラコが瞬時にアステリアの手元へと目を滑らせて、仕掛けがないかを確認する。
仕掛けは──あった。手袋の中に月桂樹を模した鍵が入っていた。
「……なんのつもりだ、ダフネ」
「お姉様、この鍵は──」
「
冷ややかで、心底からアステリアを嘲笑う──声。
「わたくしに、地に落ちたものを手ずから拾うような卑しい妹はおりませんわ。それは侍女のすること。さあ、拾ったのならば主人の手に早々に返しなさい。──名も知らないあなた」
「────」
ハッと。息を呑む。
アステリアは不器用だ。ならば、その姉も──アステリア以上に不器用なのだ。
「……失礼いたします、ダフネ様。──どうか、お元気で」
誰よりも先に、力強い一歩を踏みしめたアステリアに続く。ダフネの傍を通る。
ダフネの手は淑女らしく腹の前で重ねられている。目線は真っ直ぐ先だけを見ている。完璧なレディの姿だ。誰もが称賛する計算され尽くした美だ。グリーングラスが作り上げた最高傑作だ。
──唯一、手袋を失った片手の生々しさだけが、彼女の
その人は振り返らない。なぜなら、背をゆくそれらはダフネに関わらぬ人間なのだから。名すら知らないのだから。これまでも──これからも、ダフネの人生にあってはならない存在だ。だから────ダフネ・グリーングラスは見知らぬ少女を追わない。ほんのりと、ただよう花の香りに口元を緩ませるだけ。
「あら、大変。……侍女でなく、泥棒だったみたいね」
***
次に立ちはだかったのはウィンキーだ。外への門は彼女のすぐ後ろにあり、彼女はまさしく現状況に置けるグリーングラスの最後の砦だった。
「そこを退きなさい。ウィンキー」
「なりません、なりません、アステリアお嬢様はお外へ出てはいけません」
「我々がダフネの管理する庭にいる、その意味がわからないのか」
「ウィンキーに命じられるのはグリーングラス家の方々と、旦那様が懇意にされる方だけです。そして、命令の優先度は──」
ぶるぶると小さな身体のすべてを使って震えるウィンキーは、そしてハッと大きな目を開くと唇をきつく噛んだ。おそらく旦那様とやらに黙秘を命じられているのだろう。屋敷しもべ妖精の在り方は従属と拘束だ。なんとも哀れっぽい姿だった。
だがしかし、それだけではない。形相が尋常でない。彼女は明確に怯えていた。ハリーたちが彼女の前から逃げるのにためらった気持ちがわかった。
「ウィンキーは旦那様に命じられています。誰よりも『その人』の命に従えと命じられています。そ、『その人』が──アステリアお嬢様をお屋敷から出してはならないとおっしゃいます!」
小さな手を胸の前で拳にして、不幸な屋敷しもべ妖精は恐怖にあえいだ。
「ウィンキーは、ウィンキーは、もういやです。いたいのはいやです。
「──ッ」
咄嗟にアステリアへと振り向けば、アステリアは口をおおって驚愕を表していた。アステリアは知らなかったのだ。ならば、最近の話か。
「アステリアお嬢様をお通しすれば、ウ──ウ──ウィンキーは、恐ろしい『あの人』に、こ──こ──殺されてしまいますっ」
「ッああ、ウィンキー……! どうか、君も一緒に」
「マリアッ!」
鋭い制止の声に頬を張られた気分だった。ドラコだ。ドラコは月桂樹の鍵を手に、ウィンキーを激しくにらんでいた。
「同情するな。ソレの支配権は僕らにはない。無駄なリスクは背負うべきでないし、そんな余裕もない」
「……でも、」
「屋敷しもべ妖精からすれば、主から与えられるものは死すら名誉なんだ。それが屋敷しもべ妖精という生き物だ。そうだろう?
「あ──あ──」
ウィンキーはドラコの眼差しに気圧され、涙を浮かべて後ずさった。ガシャリと門が不満の声を上げた。──わかってる。正しいのはドラコだ。これは、僕の
「ウィンキー、お願いだ。共に来てくれ。できるはずだ!」
「マリア!」
「君たちは多少なら命に抗える。僕は知っている。──ドビーがそれを証明してくれた!」
「そのとおりです。マリア・ポッター」
「────」
まるでオモチャみたいな、剽軽な柄の靴下帽子。
小さくて、てんで頼りにならない──大好きなともだちの背中。
「ドビー」
グリモールド・プレイスの館で帰りを待っているはずの小さな友人が、地を踏みしめてウィンキーとの間に立っていた。
「どうして……」
「マリア・ポッター。ドビーはマリア・ポッターのお友だちです。ですから──
「あ……」
誇らしげな顔だった。ドビーは友として、僕の『命令』を拒否したのだ。
「マリア・ポッターはウィンキーを助けたい。ならば、ドビーはそれをお手伝いします」
「ドビー!」
ドビーが三度指を振る。ウィンキーに三本の光の輪が貼り付く。見たこともない魔法だ。おそらく妖精だけに扱える魔法だ。
「なんだって君は──クソッ、このお人好しども! 英雄癖も大概にしろよ、ポッター!」
「わかってる! けど、二度も見捨てたくなかったんだ!」
「ああそうかい、なんだっていいからさっさとまとめて連れてこい!」
アステリアと共に門へ先行していたドラコが月桂樹の鍵を鍵穴へと挿し込んだ。もう少しだ。ウィンキーを抱えたドビーへと振り返って、彼が立ち上がるのを待つ。
「──それは、困るな」
バチリと。目の前を火花が痛烈に焼いた。
「マリアッ──!」
「使えないしもべはともかく、アステリア嬢はお返し願わなくては」
茶色い髪に細身の体躯。気だるげでどことなく印象に残りづらい、かげろうめいた様相──セオドール・ノットだ。悠然と笑む彼は、僕らではなくウィンキーへと杖先を向けていた。
「ノ──ノット様、ノット様、お許しください、お許しください! ウィンキーはアステリアお嬢様をお引き留めされました! ノット様はウィンキーを罰さないのです!」
「お前たちの声はどうしてこうも耳障りなんだ。ほんとうに──なんて役立たずなしもべだろう。もはや生かす価値もないか?」
「ヒィッ」
ウィンキーが地面へとへたり込む。腰が抜けてしまったらしい。咄嗟に駆け寄り、小さな彼女を腕の中へとかばう。
「マリア、ウィンキーは捨て置け!」
「ドラコ……」
「あれもこれも救えると思うな! お前は
「────」
正しさは、いつだってナイフの形をしている。
「マリア・ポッター」
「ドビー」
再び、ドビーの背中が眼前に伸びていた。小さくて頼りないのに──おそろしいほど遠くにある。
セオドールの杖はウィンキーを捉えている。
「ドビーは、自分の意志でお友だちを助けます」
──たぶん。結局のところ。
僕はどこまでも歪んだ甘えを持っていたのだ。永遠に切り離せない、魂にこびりついた呪いだ。希望はほんの少しの加減で絶望へと転化する──そんな当たり前を、当たり前に理解し損ねていた。
「アバダ・ケダブラ」
緑の光と小さな友達の小さな手が、やわらかに僕らを包んだ。