ハリーは、もう行きましたか。老人へと尋ねる。きっと永い時間を彼と共にこの世界の狭間で過ごしただろう人は、やわらかに笑んだ。
「──マリアと、呼ぶべきかのう」
「どうとでも」
ダンブルドアが腰掛けるベンチへと、同じようにして座る。椅子の下にはあわれな赤子が身を小さくして、光から逃げるように、追いやられるように咽び泣いている。
虫酸の走る姿だ。汚ならしくて、心から嫌悪を誘う泣き様だ。同情よりも見たものに怒りを覚えさせる形だ。触れただけで己すらも穢れてしまいそうだ。──それでも。
「では、『君』と。そう呼ぼう」
ダンブルドアはそこにはなにもないかのように続けた。僕の視線の先を知っていながら彼は追及をゆるさなかった。
「どうして、君までもがこの場所へ? よもやハリーを追ったわけではあるまい」
「ええ。ハリーは帰ってきますから、僕は見送るだけでよかった」
「しかしそうはしなかった」
改めて真っ白の世界を見渡す。美しい場所だ。清らかな場所だ。満たされた場所だ。────椅子の下に縮こまるちっぽけな赤ん坊以外が。
かがんで、嫌だと拒否してしまいたくなる手を時間をかけて赤子へと伸ばす。
「どうにもできぬ。それは、君の手には負えぬ」
「そうでしょうか」
「そうじゃ。それは愛を知らぬ。人を愛する心を持たぬ。邪悪に染まりきってなお、得ることを知らず空白のままに生きてきたのじゃ」
手汗をにじませてザラついた肌を撫でる。触れられる────ああ、よかった。
ギィギィと耳障りに泣く赤子を衝動的に放り出してしまわぬよう、懸命に堪えて持ち上げる。唇を噛みしめ、諦めてしまった老人へと挑戦的に笑む。
「無いのなら与えればいい。『空っぽなら、好きなものをつめられる』」
「────」
「友の言葉です。僕は、そのために死ぬのです」
ダンブルドアが淡く唇を震わせた。声はなかった。言葉もなかった。目だけが如実に僕へ訴えた。
「僕にはどうすることもできない。その通りです。なぜなら、ハリー・ポッターとヴォルデモートは敵対する運命にあるから。どうあってもハリー・ポッターにヴォルデモートを救うことはできない。ハリーがハリーである限り、それは決して叶わない。ゆるされない。────だから、
トム・リドルを抱いて、再びベンチへと腰掛ける。鳥肌が止まらない。全身を悪寒が包んで、隅々まで僕をさいなむ。脳がそれを手放せと警告する。美しい場所にいてなお、赤子の存在ひとつで魂の底まで刻まれた地獄を思い出してしまいそうになる。
──それでも。投げ出さない。今度こそ。僕はマリアだから。
「この子は僕が一緒につれていきます」
抱きしめて、とどめて、どうにか息を吐いて、笑った。
「そうすれば、あなたも次へ向かえるでしょう?」
「君は……」
「この子のために、ずっとこの世界にふたりぼっちでいたんでしょう?」
「マリアや……いや、いや、君は」
すっかり老人らしくみすぼらしくなってしまったダンブルドアへと立ち上がって見せ付ける。あなたにもハリーにもできないことが、マリアならばできる。そのために、僕はマリアとして生まれた。
「君は、わしを軽蔑すべきじゃ」
「ええ、そうしましょう。そして許します。──あなたは許されるほうが苦しいひとだから、許すし、恨まない」
酷くあろう。優しいひとたちへ。せいいっぱい、最期までマリアらしく。
一歩。二歩。ダンブルドアをおいて扉へと進む。談話室の壁掛け時計が零時を指そうとしている。光が吹き抜けていく。腕の中の赤子が泣くのをやめる。
「それでは、さようなら。僕の世界。さようなら、優しい人たち。さようなら────僕だけのハリー」
さようなら。マリア・ポッターの物語。
僕が笑った。赤子は僕に抱かれていた。僕の腕から──僕の腕へと取り上げられて、抱かれていた。
「僕自身に僕の役割を奪われちゃあ、たまらないよ。そうだろう? ────
マリアが、トム・リドルを抱いて笑っていた。