ハリーの手が離れない。
わかっていた。わかるのだ。ハリーは混乱しっぱなしだ。もちろん僕だってそうだけど、僕よりハリーのほうがずっとひどい。
「ハリー! また会えたな! なんだなんだ、お前、こんなにチビだったか?」
「シリウス、小さな子に向かって大声を出さないで!」
「リリー、君もだよ」
「わたしはいいのよ。だっておかあさんだもの。──おかあさん! ああ、なんて素敵な響きなの」
「ほんとうに素敵だ……リリーが僕の奥さん……子供は二人……男の子と女の子……広い一軒家を建てて犬も一緒に飼うんだ……ふふ、うふふ」
「二人とも、こっちにおいで。君たちのお父さんは今ちょっと子供には見せられない顔をしてるからね。……おや、ハリーのほうはもしかして人見知りかな」
場所は変わらず、禁じられた森の中、集結した初代悪戯仕掛人たちを前にハリーは硬直していた。否、ルーピン先生の若々しくも優しい微笑みと共に傷だらけの手を差し出されて、ハリーは後ずさった。当然、手を繋いでいた僕も一歩下がる形になる。ハリーは怯えていた。目の前の状況が呑み込めず、唯一彼が知るものである僕の背にすがっていた。
こんな奇跡は、たえられない。
「まあ……ハリー、小さい頃は人見知りだったのかしら。十四歳のハリーはしっかりしたものだったけど」
「ウーン、このハリーは僕らが出会ったハリーではないようだからね……うん、ここは自己紹介からすべきかな」
ジェームズ──自分たちと変わらない歳の父の嬉々と仲間を紹介する声は、そのままハリーの耳を素通りしていく。
ちがうのだ。そうではないのだ。ハリーにはとても、受け入れられない。突然与えられた過去の人たちの存在を受け止めきれない。
僕は、妻と息子の手を借りて、そして長い時間をかけて両親の死を乗り越えた。名付け親の、恩師の、友の死の痛みを親友たちと分かち合った。すべてすべてに時間が必要だった。マリアとしての生を得てからも、死者がそこに生きている現実を何年もせま苦しい物置部屋の中で咀嚼する猶予があった。
けれど、ハリーにはないのだ。まだかさぶたにすらなっていなかったのに、彼等の笑顔に無理やり傷口を開かれてしまった。──惨い。
「ハリー」
「マリア……」
「大丈夫、傍にいるよ」
「でも、そんなはず──そうだ、これ、夢で──? それなら、君も……? 君は、やっぱり──あのときに死──」
「ハリー」
父さんたちが沈黙してしまったのにもかまわずに、子供のハリーを抱き締める。
「大丈夫だから。何度だって確かめていいから」
「マリア」
小さな背中だ。ほんとうの彼は二十歳を前にするっていうのに、今はこの十一歳の背中がしっくりときた。
「マリア」
「うん。ここにいる」
「マリア」
「生きてるよ」
「マリア」
「ハリー」
力む体からおもむろに力が抜けていく。どうにか落ち着いたらしいハリーに胸をなで下ろして、それから見上げた先、父さんと母さんは息子の尋常ならない様子に気まずそうにしていた。僕らの困惑を無視してはしゃいだ自覚があるのだろう、シリウスやルーピン先生もすっかり押し黙ってしまった。──そんな中。
「ハリー」
「……ピーター」
子供の僕らの目線まで膝を曲げて、邪気なく微笑んだのは両親の仇敵とも云えるピーター・ペティグリューだった。
「突然でびっくりしたんだよね。君たちからすれば知らない大人ばかりなのに、知ってるみたいな顔をして囲まれたら怖いよね。こんな場所じゃ落ち着けもしないよ。……一緒にホグワーツまで来れるかい?」
「…………」
不思議な心地だった。あのペティグリューから好意的に笑まれて、あまつさえ庇護の手を差し伸べられるだなんて。
学生の彼には銀の腕に恍惚とする欲深さも、友を差し出す浅はかな陰も見られなかった。優しげで、シリウスやジェームズに比べれば見劣りはするものの醜男とするほど容姿が悪いわけでもなくて、特徴的な飛び出た前歯だって昔のハーマイオニーを見てるみたいで、僕からすれば愛嬌のようにすら感じられる。目をそらし続けてきたのに、ここに来て目をそらすほど醜悪な人でもないと思わされてしまった。
そっと腕の中のハリーを見る。ハリーもまた、ペティグリューの対応に唖然としていた。きっと、思っていることは同じだ。僕も君もハリーなのだから。
「僕はピーター・ペティグリュー。……あの、やっぱりわからない、かな」
「……ううん、わかるよ。ありがとう、ピーター。行こう? ハリー」
ハリーの手を繋ぎ直す。しっかりと握り込まれる。──今度こそ、大丈夫そうだ。
「そうね、ピーターの言うとおり、ちゃんと腰を落ち着けてから話しましょう。朝っぱらからこんな場所に連れてこられた時はどうしてやろうかと思ったけど……つまりは今回のデートは宝探しだったってわけね、ジェームズ?」
「ン、そういうことにしておこう。……ウソです、ごめんなさい。君が好きそうな薬草スポットがあったんだよ、これがホントウ」
「ハリー、マリア、ココアは好き? それともミルクたっぷりの紅茶がいいかしら」
「僕の奥さんが冷たい……」
子供二人を中心に護衛でもするように男女総勢七名が移動を開始する。前方にシリウス、その隣──と、いうよりシリウスについていくようにペティグリュー、僕らを挟む形でジェームズとリリーが隣を歩き、ルーピン先生は後方だ。
自然と彼等の空気に巻き込まれていく。僕が以前に出会った彼等から何年かが経過しているようで、大人っぽくなったジェームズとリリーのあいだにかつての殺伐とした睨み合いは見られない。ジェームズの茶々にツンと顔をそらしたリリーだけれど、そこには見ていて思わず笑ってしまいたくなるような子供っぽい愛情が感じられた。──そう、思わず笑ってしまった。そんな僕を、さめざめと泣き真似をするジェームズが顔をおおっていた指の隙間から見た。マリアと同じ形のハシバミ色が茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばした。悪ガキの顔だ。……ああ、うん──これは確かに、
「せっかくだ、どうせなら熱々のバタービールでも用意しようか。こちらの美男子が厨房と話をつけてきてくれるからさ。(ジェームズの言葉にシリウスがぎょっとした。そんな顔も実に様になる。美形は得だ。)あとは……ムーニー! 君のヘソクリが活躍するときだよ!」
「なんのことかな、プロングズ」
「あら、あなたまたハニーデュークスのお菓子を溜め込んでるの? いい加減、栄養が片寄るわよ」
「……リリーに言われると敵わないや」
空気がやわんでいく。ハリーが小さく息を吐くのを聞いた。森の抜け道が見えた。
「それにしても、さすがピーターだな。もしかしたらお前、リーマスよりも子守りが向いてるのかもしれないぜ」
「もちろん、僕よりピーターのほうが優しくて子供にだって好かれるに決まってるさ」
「まさか! そんなわけないよ、僕が、そんな……」
「ええ、ええ! それって素敵な才能よ、ピーター」
トンッ。肩を叩かれた。ジェームズだ。手にはよく知る透明マントがあった。
「一応、ね。マクゴナガル辺りに見付かると面倒そうだ」
同意を示して、ハリーと二人でマントをかぶる。ふと、ほんとうに一年生だった頃にもこうして二人でマントをかぶって城内を歩いたことを思い出した。
マントの中で言葉なくハリーと目を合わせる。思慮深そうなリリー譲りの瞳が僕を見る。──どうしようか。どこまで話すべきか。……このまま、子供のフリをしていようか。
やがて、当然のように僕らは必要の部屋へと案内された。すっかり、この場所は初代悪戯仕掛人の秘密基地のように扱われているらしかった。血は争えない。
「さあさあ、シリウスとリーマスはおつかいに行っておいで。かわいい客人の歓迎パーティーは豪勢でなくっちゃ!」
「簡単に言ってくれるぜ」
「あ、シ、シリウス、僕も手伝うよ」
「僕らの王様は我が子の前でも人使いが荒いね」
ジェームズとリリーを残して三人は退席する。わざとだ。そして気遣いだ。改めて、両親が真っ直ぐに僕らを見る。
「ごめんね、ハリー。また君と会えたことが嬉しくて、ついはしゃいでしまった。君の気持ちを考えてなかった。──まずは、どうして僕らが『ハリー』を知っているのかから話さないとね」
「マリア、あなたも聞いてくれる? ……娘、なんだものね?」
それからジェームズとリリーは、かつて夢の先に消えた──いいや、僕が自らの意志で手放したほんの少しの奇跡と堕落の日々を語った。ハリーは見た目こそ十一歳の子供だが(それどころか栄養失調から十歳に見えるかどうかすら怪しい。)脳は大人のままだ。
横目で沈黙するハリーを見る。なんとか咀嚼している顔だ。だてに命懸けのハプニングに巻き込まれ続けてきた人生ではない。
冷静さを取り戻したハリーに、この後の判断はすべてお兄さまに任せてしまおうと肩の力を抜く。
「──まず、会えて嬉しいです。……父さん、母さん」
「わたしもとっても嬉しいわ! ね、ジェームズ」
「もちろんだとも! 正直に言って、今すぐ全寮全教室中に我が子の愛らしさを叫んで回りたいくらいだよ」
「ぜったいにやめて」
「ハイ」
流れるように繰り広げられた両親の夫婦漫才にハリーがクスクスと肩を揺らす。──よかった、笑ってくれた。向かいに座する両親にも僕の安堵が伝わったようで、二人も目を合わせてほっと息を吐いていた。
「やっぱり、二人とも見た目どおりの年齢ではないのかな」
「それは……」
「いいんだ。言いづらいことなんだろう? 未来に直接関わってしまう事柄だからね。僕らも無理に聞き出す気はないよ。君たちが実際はいくつであれ──僕たちのかわいい子供に変わりはないのだから」
そっと、リリーが──母が父に寄り添った。どこまでも自然で、当たり前で、美しい光景だった。ずっと求めていたものだった。焦がれていた。写真の中にしかない──僕ではない誰かの思い出の中に生きていた希望が目の前にあった。
たまらない──と、唇を噛む。苦しい。だから、ハリーと手を取る。この痛みは君としか分かち合えない。
「仲が良いのね。どちらが上なの? それとも双子かしら。ハリーに、マリア。……ふふ、マリア、ね。そう──『マリア』、なのね。その名前をつけたのはわたしかしら」
「はい、そうです」
「そうよね。そうだと思ったわ。……わたし、ちゃんと彼を許せるのね」
僕の隣まで移動したリリーがやわくマリアの身を包む。そして囁く。
「あなたが──わたしとセブルスを仲直りをさせてくれるのね」
祈るようにうなずいた。──そこに、『あなた』はいないけれど。きっと、いつか、遠い未来で。
絶妙なタイミングでノック音が響いた。顔を出したのはルーピン先生だ。その腕には目に痛いカラーリングの包装袋が溢れんばかりに抱えられていた。……ほんとうに溜め込んでたのか、この人。後ろにはシリウスと危ない手付きのペティグリューもそろっていた。
「親子水入らずはいかがかな? ポッターのみなさん」
「最高だとも! けれど、実に惜しい。ここに、今、君が抱えているお菓子とシリウスのバタービールがあればなおさら良しだった」
「はいはい、ご要望のお品だよ」
机にばらまかれたそれに、ぐう、と腹の虫が声を上げた。ハリーと同時に。
「「…………」」
「あらあら、まあ! 二人とも食べ盛りだもの、しかたないわ。でも、お菓子ばかりはダメ。昼食と夕食もしっかりいただくこと。おかあさんとの約束です」
「リリー……君って最高の奥さんになるよ」
「当然でしょう。あなたの……妻だもの」
「リリー……!」
「パーティーする前から腹いっぱいにしないでくれよ、お二人さん。子供が見てるぜ。そら、ハリー、詰めた詰めた」
僕らがかけていた横長のソファにシリウスが無理やり割り込むものだから、挟まれたハリーがぐえっと哀れに鳴いた。
「マリア、替わってよ」
「どうして」
「…………」
「……しょうがないなあ、僕の弟は」
「僕が兄。君、まさか一生この不毛な問答を続ける気か?」
「そのつもりだけど?」
「……しょうがないな、僕の妹は」
「しょうがないんだよ、君の姉さんは」
いつもの慣れたやり取りで張っていた気をほぐす。──わかっている。父さんと母さんの存在だけで頭はとっくにパンクしているのに、シリウスの、ルーピンの、そしてペティグリューの温度は生々しすぎる。君の壁になるくらい、お安いご用だ。
「…………」
「ジェームズ?」
ふと、シリウスが怪訝そうに声を上げた。ハリーと入れ替わることによって正面に変わった父さんは、眉根を寄せて深刻そうに考え込んでいた。
「ジェー? どうした?」
「納得いかない」
「なにがだ」
「僕の娘は女の子のくせにどうして男子制服なんて着てるんだ?」
「…………」
あー……久々にされたな、その手の質問。ハリーに隙間からそら見ろと脇腹を小突かれる。
「マリアのこれは気にしないで。アイデンティティみたいなものだから。この子、徹底的に女の子扱いを嫌がるんだ」
「女の子じゃないんだから当然だろ」
「なんてもったいない! 君はどこから見てもかわいい女の子だよ! リリーそっくりの美人で、僕そっくりのお茶目さんだ」
「ジェームズ。そうじゃないわ。きっとこの子たちの時代には、女らしく、とか、男らしく、なんて考えは廃れているのよ。……ちょっと、残念だけど」
言葉の通り見るからに肩を落としたリリーに、ううん? と首をかしげる。
「わたし、もしも娘ができたらたくさん素敵なお洋服を贈って、一緒にオシャレを楽しもうと思ってたのに」
「ああ、それはマリアが一番苦手なやつだ」
「うるさい。ハリーだって人のこと言えないだろ」
八つ当たり気味に近くのグミを取る。半分ちぎって、ハリーの口へと詰め込む。ファッションセンスに関しては僕たちは生まれついてのお揃いだ。もちろん、悪い意味で。
誰ともなしに始まった宴会にルーピン先生がバタービールの泡髭を舐めながら笑った。隣のシリウスはヒュウ、なんて小憎たらしく僕たちを冷やかしているし、ペティグリューはやれ誰かのグラスが空いただのゴミが溜まっただのとネズミのように忙しない。リリーはバタービールを持ちながらまだ未練がましい目で僕を凝視していた。ジェームズは──ジェームズは、ただひとり遠くからすべてを見るように、会話にも参加せず優しい微笑みでいた。驚くほど親らしい顔だった。かつて『あの人』の記憶で見た──そして僕が実際にこの目で確かめ、失望した悪童の姿はそこにはなかった。
親としてのこの人は──こんなにも静かな顔をするのか。
「さて、リリー。そろそろ時間だ。名残惜しいけど、僕とリリーは大広間へ向かわなくちゃ」
「ああ、姿現し訓練の補助だっけ?」
「そう、それ。成績優秀者の仕事だなんて言われると断れないよ。休日返上だ。気のいいジェームズ・ポッターはこうして体よく使われてやるのさ。すべては僕が優秀だったばかりに……悲劇だ」
「言ってろ」
友人たちが激励を込めて代わる代わるにジェームズの肩を叩く。最後に、立ち上がったジェームズはそのままリリーの前へと回り込むと片膝を着いた。
「お手をどうぞ、
「……くるしゅうないわ」
恥ずかしげに冗談めかす母と道化を気取る父の様は実に似合っていた。……胸の内をかきむしって、それから腹から笑い出してしまいたくなるほどに。
両親が退室する。ムードメーカーのジェームズがいなくなり、気まずくなったらしいシリウスや腰巾着(と、表現するにふさわしいベッタリぶりだ。)のペティグリューもジョッキを手に出ていく。一人、僕らと共に残されてしまったルーピン先生は、傷痕の目立つ頬を指で掻くとウーンと唸った。
「はっきり言って──僕も、ここにいないほうがいいだろう」
「そんなことは」
「いいんだ。気を遣わないで。……これ以上は、ハリーがかわいそうだ」
──聡いひとだ。本当に、心から。
「……うん。よし、こうしよう」
ひとりうなずいて、そしてルーピン先生はジェームズに負けず劣らずの含んだ顔で笑った。
「これから僕は君たちに昼食を運ぶ予定でいる。──けれど、こう見えて監督生なんてオマケの役職を持っていてね。もしかしたら誰かから運悪く雑用を頼まれて、戻ってくるまでにちょーっと時間がかかるかもしれない。そうだなあ……昼食のはずが夕食になってしまうくらい──なんてのは、時間を空けすぎかな?」
「…………」
思わずハリーと顔を見合わせていた。なんだか面白いくらいに僕らの事情はお見通しらしかった。なんてひとだ!
「……異論はなさそうだね。それじゃあ、二人ともここでゆっくり、気持ちを落ち着けるといい」
「ルーピン先生……」
柔和な微笑みが扉の向こうへと消える。閉じた戸を皮切りに城内の音が失せる。パーティーの余韻は瞬く間に拡散した。とうとう、必要の部屋にこもるのは僕とハリーだけになった。
「マリア」
「ハリー」
ハリーは震えていた。プツリと、ハリーの中の大事な一本が切れてしまったようだった。声はどことなく虚ろだった。
「僕、どうすればいいんだろう」
ハリーの身を腕の中に迎えて、背を撫でる。小さい。こんなにも小さな背中に、よくもまあ世界なんて危ういものを乗せられたものだ。──君も、僕も。
「君の思う通りに」
──ハリーの選択を、