風呂から上がって、十七歳の母の大きなネグリジェに袖を通して(リリーは「これでも一番小さなサイズを選んだのよ」と弁解していた。)鏡の前で僕は躊躇っていた。──鎖骨の辺りからハリーとの思い出の傷が覗いていた。
律儀なものだ。十一歳まで容赦なく縮んだ身体のくせに、傷はしっかりと残っている。……僕が、そう望んだのかもしれない。
恥はない。女性としての意識がない僕は、高々一生の傷程度でお嫁に行けないだとか嘆く精神構造はしていない。そもそもが稲妻のキズと一蓮托生した
問題はリリーの反応だ。僕は嘆かない。けれど──あの人は我がことのように傷付くだろう。そういうひとだと、もうわかっている。
「マリア? 着替えられた? もういいかしら。あなたの髪を梳かしたいのだけど」
「自分でできるよ」
「わたしがやりたいのよ。これも夢のひとつ。それから──そろそろ、わたしにもわかってきたわ。あなた、乾かすとか言って結局、生乾きのまま寝てしまうタイプでしょう」
「…………」
「お見通しよ。なんたって、あなたのおかあさんですからね」
クスクスと廊下に軽やかな笑い声が響いた。扉の向こうで待機しているらしい頑固な母に、気持ちばかりの雑なブラバッシングの手を止めて降参と声を上げる。ええい、どうにでもなれ。
「────それ、」
母は絶句した。栄養不足の骨じみた体躯を彩るたいそうな引き攣り痕は、彼女の目にどれほど奇異に映るだろう。誰になんと罵られようと貶されようとも欠片も気にはならないけれど──母に気味悪がられるのは、堪える。
しかし、
「……いたい?」
そっと、マリアの肌にさわった。震える指先で、赤い肉の色に変色してしまった痕をなぞる。
「今は、ちっとも。けど──うん、痛かったよ」
素直にこぼれ出ていた。直接的な痛みだけじゃない。言葉に尽くせないものが、ここには刻まれている。──君が刻んだんだ、ハリー。
「すべて、代わってやれたならよかったのに。なんて不甲斐ない母親なのかしら」
「代わってくれたよ」
彼女の切々とした声に、間、髪を容れず答える。僕の代わりに──あなたが命をとしてくれたんだ。
リリーは身を屈ませると、正面から僕を抱きしめた。小言の通りまだ生乾きの髪に手を差し入れて、梳くようにして撫でた。母の手だった。
「優しい子ね」
「……あなたの自慢の子供だからね」
ふふ。耳元で笑われる。なんて、やわらかな時間だろう。この泡沫の世界に溶けてしまいそうだ。
「あなたが気にしないのなら──わたしが泣いてはいけないわね。あなたの自慢のお母さんなんだから」
「そうだよ、母さん」
やがて、腕は離れる。さあ、母親らしいことをさせて──タオルを手にドレッサーの前へと座らされる。
「そっくりね」
「ほんとうに」
鏡に映り込む二つの赤毛は、髪質こそ多少の違いはあるものの、まるで一つを二つに分け合ったみたいに同じだった。鼻の形も、唇も、顎も、輪郭や肌の色だって、映るその人と同じだ。──目だけが、そこに父を見せていた。
「あなたは知らない話だけど──元々ね、わたし、あなたのお父さんが大嫌いだったの」
「知ってるよ」
「あら、知ってるの? 未来でわたしが話したのかしら。それとも、近くにおしゃべりさんがいた?」
「…………」
「いいの、答えないで。あなたと過ごすこの時間を大切にさせて。──それで、ね、わたし、ほんとうにアイツが嫌いだったはずなんだけど……ねえ、どうしてこんなことになったんだと思う?」
「どうして?」
母の邪魔にならない程度に小首をかしげる。ふわふわと風にあおられた毛先が首やら頬やらをくすぐる。それを指で払って、子供っぽい顔をした母さんは心底楽しそうにころころと笑った。
「うふふ、それはね────ハリーよ! ハリーのことがあったから、わたしたち、お互いに意識しちゃったの! びっくりでしょう?」
「──それは、」
「アイツは一目惚れだとか寝言をほざいてたけどね。そんなわけはないわ。わたし、ちゃんと覚えてるもの。ホグワーツ特急の中ではじめて会ったとき、彼ったらシリウスと一緒にとんでもなく憎たらしい顔をしたんだから。それで、セブを侮辱して──わたしのことも嗤ったわ! どこに一目惚れする余裕なんてあったのかって話よ。そう思うでしょ?」
「ウーン……」
そういうところだぞ、父さん。
「でも──でもね────ハリーを見ればわかるわ。あの人がお父さんで、わたしがお母さんなら、こんなにかわいくて素敵な子が生まれるんだって──それは、ええ、悪くないかもって……そう思っちゃったのよ。思っちゃったなら──どうしようもないわ」
ふと、そよ風を最後に赤い髪を乾かす母の手はなくなった。背後から、熱風の温度を残した腕で抱きすくめられる。
「やっぱり、間違いじゃなかった。ハリーだけじゃない。──マリア、あなたがこうしてわたしたちの元に生まれてきてくれたことが、わたしたちを親として選んでくれたことが、こんなにも嬉しい。誇らしい。しあわせなの。あなたを娘と呼べて、わたしを母と呼んでくれることが。──ほんとうに、幸福だわ」
「────」
咄嗟に、うつむいた。今だけは、髪を伸ばしっぱなしにしていてよかったと思った。横顔を隠してくれるマリアの髪に感謝した。
ああ──────無理だ。
僕には無理だ。僕に、子供をこんなふうに抱く腕はない。僕にこの温度は宿せない。僕は────『母親』にはなれない。
僕が男でありながらも子を産もうと決意したのは、取り戻したかったからだ。奪いたくなかったからだ。ドラコからスコーピウスを。そして、僕のマリアを。
我が子がほしいのではない。それは、とっくに決まっている。僕の子供はスコーピウスでもマリアでもなくて──ジェームズ、アルバス、リリー、君たちだけなのだから。私は君たちの父親であって、そして今は──無い物ねだりばかりの誰でもない『僕』だ。
僕に君たちの母親はできない────
ほんとうの『母』を知ってしまった今──それをむざむざと突き付けられた。
「母さん」
「なあに、マリア。わたしのかわいいマリア」
「ごめんなさい」
「……いいのよ。どうせ泣くなら──母の胸の中でお泣きなさいな。それくらいは、させてちょうだい。きっと早いうちにあなたたちに寂しい想いをさせるひどい母親だけど、それを許してほしいとは言わないけれど──今だけは、こうしてあなたたちのお母さんでいさせて」
「……っ母さん……!」
***
そして、夜更けの頃──事件は起きた。
目が覚めた。唐突に。空気に引っ張られるようにして飛び起きる。予感はあった。懸念もしていた。────的中した。
駆け出す。談話室へと続く階段を下りる。灯り一つない広間へ飛び込む。
「ハリー」
ちっぽけでひとりぼっちのハリーは冷たいソファの上で身を丸めていた。認められない
「ハリー」
肩へと触れる。気付いた。談話室の影はハリーのものだけではなかった。居心地の悪そうな父さんや親友たちもその先にいた。──きっと、ハリーは
「ハリー」
「マリア」
茫然とした声がマリアを呼ぶ。
「ここにいるよ」
「うそだ」
「ちゃんと触れられる」
「ゆめだ」
「体温もある」
「信じない」
「生きてるよ」
「────ッ君は死んだ!!」
ハッと、息を呑む声が暗闇から聞こえた。誰だろう。父さんだろうか、母さんだろうか、それともシリウスか。そんなことはどうでもいい。
「ハリー」
「君は死んだんだ! 間違いなく、あの時に! だって、確かめた。祈って、すがって、名前を呼んで──何度も眠る君の手を握りしめた。君は一度だって握り返さなかったし──人形みたいに冷たかった」
「ハリー」
「わからないだろう? 眠りに就くたび、目覚めるたび、すべて嘘なんじゃないかと疑う僕の気持ちなんて。僕はあの日からとっくに狂っていて、君という夢を見ているだけなんじゃないかって。眠る間際、目を閉じる君に途方もない恐怖を覚えるんだ。毎日だ!」
「ハリー……」
「それだけ君は酷いことをしたんだ! 僕を傷付けたんだ! ドラコも、ジニーも、ロンもハーマイオニーも、みんなみんなを傷付けた!」
「うん──その通りだ」
ぐちゃぐちゃに喚くハリーの背を撫でる。怯えきったハリーは、僕なんていないみたいに自身だけをつよく抱いた。
僕らにとって、死はとても近しいものだ。ありふれていて、ともすれば最期に出逢う生涯の友とすら云えるほどに。そしてハリーのそれは、僕よりもずっと生々しい痛みを持つ。
マリアはハリーを残して死んだのだから。
「マリア──僕は君に死んでほしいと望んだ。僕と共に死んでくれと」
嗚咽が聞こえた。きっと母さんだ。
「うそつき」
「ごめん」
「許さない」
「許さないで」
「一生許さない。死んだって許さない。僕が死ぬまで許さない」
「それでいい」
そろりと、弱々しい手が僕の背へと回った。やっと抱き返してくれた。
「ここは夢だ。そうだろう? だってシリウスがいる。ルーピンがいる。ペティグリューもいる。──父さんと母さんが生きてる」
「そうかもね」
「それなら、君は? 目覚めた先、君はもういないのか?」
「……もしも、いないとしたら、君は目覚めを放棄するかい?」
ハリーは答えなかった。ただ、一言だけをポツリと落とした。
「おいていかないで──マリア」
いかないよ。もう二度と。(──マリアはとっくにいってしまったから。)
信じてもらえやしないとわかっていながら、なおも繰り返す。それしか、僕にはできない。
「君をうしなったら、僕はひとりになる」
「ならない。ジニーがいる。君はジニーと新しい家族を作るんだ」
「そしてそこにマリアはいない。──そんなの、たえられない」
あえぐようにこぼして、ハリーは目を閉じた。気絶するように彼は眠っていた。事実、気絶同然だ。彼の心は限界を迎えていた。
「マリア」
顔を上げる。涙を堪える母さんの肩を抱いた父さんは、神妙に僕たちを見ていた。
「僕、一度死んだらしいんだ。それが──この子に最大のトラウマを作ってしまった」
「そんなの、当然だ。聞いていただけの僕ですら叫び出したくなった」
「兄弟をここまで追いつめた僕のことを叱る?」
「もちろん。けれど、それよりも──抱きしめたい」
ハリーごと、正面から強く父さんに抱かれた。後ろの温もりは母さんだ。
「がんばったんだね」
「うん。がんばったんだ」
「そうか、それなら──叱るけど、同じくらい褒めてあげないとね」
ぐしゃっと父の顔がゆがむ。さっきのハリーにそっくりだった。
「父さん、母さん。ここでいいから、今日はハリーと一緒に寝てもいい? ……ずっと、そうしてきたんだ」
呟く。──倫理的に間違っている。そんなことは理解している。いくら血の繋がった兄弟といえど僕たちは男と女で、成人もしていて、互いに将来を誓い合った恋人もいて──それでベッドを共にするというのは、決して許される行為ではない。異常だ。
けれども、そんなものはハリーの苦悩の前には意味を為さなかった。毎朝マリアの呼吸と体温を確かめるハリーの姿は、憐れ過ぎた。ジニーもドラコもどうしようもないと首を振ってしまうほどに。
「駄目だ」
きっぱりと父さんは告げる。
「きちんとベッドを使いなさい。──僕のベッドをね」
「…………父さんは、どうするの」
「シリウスのベッドにでも潜り込むさ」
「あ!? なんだってそうなる!」
「だって君が一番、寝相が良いんだもの。意外だよなあ。寝てる姿だけはまるでお貴族さまだ!」
「嫌味が雑だぜ、プロングズ」
笑いが上がる。暗く湿っていた空気がジェームズの言葉一つで快活さを取り戻す。とんでもない人だ。きっと、この人は場の掌握に関して天性の才能を持っている。
小さなハリーを軽々と抱き上げて、寂しさを隠しきれないリリーへとおやすみのキスを交わしてジェームズは寝室への扉を開いた。誰の心にもやりきれない瑕を残した夜は、朝を迎えるためますます深まっていった。