「ものすごく恥ずかしいことをした気がする」
ハリーの朝イチの言葉はなんとも気の抜けたものだった。
知らないはずなのに懐かしい匂いのするベッドの上、毛布の中、いつも通りぐしゃぐしゃの髪を枕にすり付けてハリーが唸る。
「したんだよ」
「誰にも合わせる顔がない」
「僕にも?」
「マリアは別。当たり前だろ」
「うん、当たり前だ」
おそろしく跳ね散らかった黒髪を指で混ぜる。前髪を掻き上げて、額に現れる稲妻を指の腹で擦ってみる。もう痛まないはずのそれだけど──ハリーは僕の手を取ってくすぐったそうに笑った。
「……生きてる?」
「生きてるよ」
「ほんもの?」
「ほんもの。疑うなら君が何歳までおねしょしてたか答えてやろうか」
「なんで覚えてるんだ、そんなこと。……はあ、マリアだ」
僕の手を己の頬へと当てたハリーは、そしてゆっくりと脱力した。いっそう、頭は父の枕に沈んでいった。手慰みに十一歳の彼のふわふわのほっぺをつつく。かわいらしい童顔が破顔する。うんうん、我ながら
「朝から仲が良くて羨ましいねえ、父さんを仲間には入れてくれないのかい?」
愉快そうな声と共に毛布を剥ぎ取られた。じゃれ合う僕らを、朝日を背にした四つの顔が覗き込んでいた。
「おはよう、父さん」
「おはよう。きちんと挨拶ができてえらいね、マリア。ほら、ハリーは?」
「……おはようございます」
「ウーム、堅い。もしかしてもう反抗期? そこのところ、お姉さんとしてどう思う? マリア」
「僕たちはいつでも反抗期だったよ。歯向かう対象はもっと大きかったけど」
それこそ、世界を巻き込んだ反抗だったわけだけど。
なんてこった……なんてわざとらしく頭を抱えているジェームズに、もぞもぞと枕へ逃げていたハリーが呟く。「……僕が兄さんだよ」
「はいはい、わかったからちゃんと起きてよ。兄さん」
「おや、もしかしてハリーは寝起きがよくないのかな」
「ジェームズそっくりじゃねーか。蹴った殴ったがないだけマシか」
「これには苦労したよ」
「ハリー」
ぐずるハリーを上から押さえて、まるい額へとキスを落とす。寝惚けながらも同じスキンシップを返してくれる。慣れたものだ。これが僕たちポッター兄弟の、十数年と変わらない朝の挨拶なのだ。ジニーともすっかり恒例化している。……そのうち、ドラコも輪の仲間入りを果たしそうだ。
「パパにはしてくれないのかい? ハリー、マリア?」
「「…………」」
涙混じりにとろとろした緑がぼんやりと父を見上げた。冗談のつもりだったらしい父さんが、リリーの目にうろたえたのが見えた。なので。
「わっ、おお──!?」
父さんの腕を掴んでベッドへと引きずり込む。ハリーとのあいだに挟んで、同時に頬へとキスを送る。腐っても双子、寝起きでも打ち合わせなどなくとも意思疎通は完璧だ。初代悪戯仕掛人の子供だもの、このくらいは朝飯前──てね。
「やられちまったな、ジェームズパパ?」
「シリウスパパもいかが?」
「おっ──おれは、いや、まあ」
「マリア、なんとなく予想はついてるけどシリウスよりも僕のほうがぜったいに良いパパだから。なつきすぎちゃダメ。顔に騙されないで」
至極真面目に親友をこき下ろしたジェームズにどっと笑いが起きた。ハリーも一緒に笑っていた。どうやら目は覚めたらしい。
「おはよう、マリア」
「おはよう、ハリー」
優しい目がいくつも僕たちを見守っている。父さんの腕が僕とハリーをまとめて抱き込む。
「おはよう、僕の愛する子供たち」
誰も昨夜についてなにも言わない。聡い人たちだ。未来で
「さ、ともかく朝食だ。マリアは着替えのためにも一度、女子寮へと戻らないとね。……リリーが拗ねてるから、よろしくね?」
これまで鏡の中にあった
今日も、ハリー・ポッターとマリア・ポッターの生ある限り叶わないこの場所で、両親との時間をすごそう。
「ところで、ハリーはいくつまでおねしょしてたんだい?」
「その話はやめてってば!」
***
ずるいわ!! ずるいわ……ずるいわ…………
朝の談話室を嫉妬でいっぱいの金切り声が飽和した。リリーだ。リリー母さんは僕らが起きてすぐの一連の流れをルーピン先生から聞き出して、それからすっかり拗ねてしまったのだった。
「ジェームズばっかりずるいわ! わたしだっておはようのキスしてほしいのに!」
「こればっかりは譲れないよ、リリー。ほら、僕ってばお父さんだから」
「わたしだってお母さんよ!」
微笑ましい痴話喧嘩の様子に一同が大きくため息をついている。しかし誰も止めないあたり、これが彼らの日常なのだろうと察する。昨日は萎縮していたハリーも、両親の子供っぽい姿にたえきれず笑っていた。
「どうしたの、リリー? あなたの癇癪が階段まで聞こえていたわ」
「ああ、聞いてちょうだい、メリー。マリアは姉であるわたしよりもジェームズがお気に入りなんだわ」
「そんなことないよ、……姉さん」
談話室へと下りてきたメリー・マクドナルドへ泣き付くリリーをハリーと共に捕らえる。今朝の再現のように母の手を引いてすべらかな頬へと唇を寄せる。……ちょっと、照れくさいけど。
「「おはよう、母さん」」
ささやけば、ハリーと同じ緑の瞳はみるみるうちに大きく広がった。そして次には女神もかくやな美貌が破顔した。
「おはよう、わたしのかわいい子供たち」
ぎゅうっとまとめて抱き締められる。母の腕の中でくっついたハリーとくふくふ笑う。その強さはモリー母さんを思い出させた。
「……あなたたち、そこまで進んでたのねえ」
「うん?」
「家族ぐるみ、てことでしょう? リリーはジェームズと、それならマリアはハリーと結婚するのかしら?」
冗談めかしたメリーの言葉に、ハリーと見合って吹き出した。──兄弟と結婚だなんて!
リリーは肩を震わせ、ジェームズは名案だ! なんてシリウスと一緒に悪ノリしていた。
「ハリー、これで僕たち、名実ともに家族になれるね」
「マリア……もう、バカ言ってないでさっさと準備してきて」
リリーと共に小さな腕に女子寮の階段前へと押し出される。母に連れられながら振り返る。ハリーは父さんやもう一人の父さん、恩師、その親友に囲まれリラックスしていた。──この様子なら、一人にしても大丈夫そうだ。
「マリア」
僕の手を引いていたリリーが寝室の扉を開いて立ち止まる。ニッコリと、迫力のある笑顔を浮かべている。たいそうな美人である。そして扉の向こうには────制服とブラシとハサミとヒラヒラした何かを手に持つ女性陣が、母同様、実にイイ笑顔で僕を待ち構えていた。
「しっかり、オシャレしていきましょうね」
***
かわいいという単語を、目覚めてからたった一時間のあいだに何度聞かされただろうか。──主に兄そっくりのこの男から。
「マリアはほんとうにかわいいなあ、僕の小さなプリンセスはきっと妖精が手ずから造り上げた秘宝だよ! あ、もちろん屋敷しもべ妖精じゃなくてゴブリンのほう。さあ顔をよく見せて……ああ、かわいい! なんてことだ、将来が楽しみなんてものじゃない!」
「…………」
「ハリーもよくよく兄弟を守ってやるんだぞ。悪い虫が付きそうになったらどんな手段を使ってでも払うんだ。パパだってママを得るために長い時間をかけてとある虫を──」
「ジェームズ」
「口が滑りました。ユア・マジェスティ」
「…………」
おお、今世ではまだ見ぬ息子のアルバスよ──お前も兄さんに絡まれてるあいだはこんな気持ちだったのかい。兄弟の微笑ましいたわむれだと父さんも母さんもお前を真剣に助けてやらなかったことを、今になってこんなにも後悔するとは。──これは、とても、うっとうしい! そりゃあ、ジェームズも弟に毛嫌いされるわけである。リリーは当然のように兄の愛情を受けてたくましく育っていたが。
「マリアって母さんには弱いんだ?」
母が一年生時に着用していた制服──のスカートを見下ろしてハリーがささやく。ちょっと笑った声なのに気付いて、やわらかい子供の頬をつねってやる。
「母さんと父さんに弱いんだよ」
整えられた赤い髪を肩から払って、ハリーだけに届くよう小さく答える。
ほんとうなら──母が、父がマリアと呼ぶ存在は、もっと別の、真っ新で無垢な子供だったのかもしれないのだから。
否、マリアを求め生み出したのは僕だ。だから、それはイフですらない空想論でしかないのだけど。──それでも。
叶えたい。母さんが
……だからといって、懇切丁寧に切り揃えられてしまった前髪だとか磨かれた爪だとかハーフアップに上げたツインテールを目立たせるリボンだとかが嬉しい気持ちは微塵も湧かないけど。いい歳して僕はなんて格好を……。
大所帯で大広間へと向かう。すれ違う生徒たちの珍獣を見る目付きを無心で振り払って歩く。朝から豪華なしもべ妖精力作の朝食前へと腰掛ければ、昨夜の再演のように視線が動いた。特にグリフィンドール生は面白いことがさあ起こるぞと期待に目を輝かせていた。
「さて、みなよく食べよく飲んだことじゃろう。このあと一番目の授業が魔法史の諸君は……ご愁傷さまじゃ」
ざわりと、生徒が座る四つの長机がどよめいた。ダンブルドアが朝にその席を立つのは珍しいことだった。再び、食事をはさむことでそれていた目がポッター兄弟の元へと戻る。それを確認して、ダンブルドアは鷹揚にうなずいた。
「昨日からホグワーツに新しい仲間が二名ほど加わっていることは、みなならとうに知っておろう。わしよりも耳の早い君たちじゃ。そこで、君たちの好奇心が新しい噂を生み出す前に、正式に紹介しておこうかと思っての。──ハリー・ポッター君、マリア・エヴァンズ嬢」
ハリーと共に立ち上がる。不安そうな両親を見下ろしてささやかに笑む。
打ち合わせなんてものはない。ダンブルドアが何を言い出そうとしてるかなんて知らない。けれど、ハリーとして──マリアとして生きた心がダンブルドアの求めるものを理解している。それほどに──『僕』はあの人と共に人生を歩んできたのだから。
「名からわかる通り、彼らはジェームズ・ポッター君とリリー・エヴァンズ嬢のご兄弟じゃ。見ての通り、ホグワーツに通うための
静かに、老人の声は落ちた。深刻そうにひそめられたそれに、誰もが息を呑む。そして。
「それはなぜか────わしが入学許可証を送り忘れたのじゃ!」
バーンッ──と。ダンブルドアの背景にいかづちの幻覚が見えた気がした。
うそでしょ。マクゴナガル先生があんぐりと口を開いた。スプラウト先生は飲みかけのかぼちゃジュースを盛大に吹き出してしまった。スラグホーンが何かを察しニンマリとして、フリットウィック先生は椅子からコロコロ転げ落ちた。
途端に空気がコミカルに崩れだしたのに、ハリーと合わせていそいそ座り直す。はずかしい。呼ばれたからといって訳知り顔で立っちゃったのがはずかしい。父さんと母さんの目が懸念から同情に変わったことすらいたたまれない。ぜんぶあのおじいさんのせいだ。
なお大広間内の空気を右へ左へ蹂躙した件の魔法使いは、己の頭をニワトコの杖で叩きながら「いかんのう……やはり歳かのう……」なんてうそぶいていた。憎めない人だ。
「よいかね。すべての責はわしにある。お叱りの吠えメールならばわしが受け取ろう」
──ふと、気付いた。僕ら含め誰もがダンブルドアに注目する中、暗いよどんだ瞳は一寸足りともそれることなく僕とハリーを射抜いていた。
……ああ、そうか。あなただけは誤魔化せるはずもない。ハリーも『マリア』も知るあなたなのだから。
「どうか少しのあいだだけ──みなの広く豊かな心で彼等をこのホグワーツに受け入れてやってほしい」
老人の威厳ある声に締めくくられて、朝食の席は解散となる。各々が一現目の授業のために駆け足で廊下をゆく。当然僕らも、自分だけの時間割りがある両親たちと別れて二人きりで過去のホグワーツを闊歩する。
「ダンブルドア、あれでよかったのかな」
「いいんじゃないか。さっき、言ってたろう。──少しのあいだだけ、て」
少しのあいだ──僕らが完全に消えてしまうまでの夢幻なのだから。いずれは元に通る。ホグワーツは未来からの異分子なんて迎え入れた記録も記憶もなく平穏な日常を取り戻す。
すべては、ハリーの選択次第だけれど。
「大体、ダンブルドアのことだ。ほんとうに管理不手際をなじるものが現れたとしてものらりくらりと逃げる準備はできてるさ。──ダンブルドア軍団の件を、忘れたわけではないだろう?」
「……ああ、そうだね」
ハリーは幼い顔に似合わず重く肯定した。良かれと立ち上げた秘密組織が結果的にかの老人を追い詰めたことは、まだ記憶に新しい。
ある程度まで歩いて、校庭を前に立ち止まる。声変わりも迎えていない男の子の声に呼び止められたからだ。
「きみたち──ポッター! エヴァンズ!」
振り返る。それから周りを見渡してきょとりとしてしまう。ハリーに小声で釘を刺される。「──エヴァンズって君のことだよ」
「君たち、特別授業があったりする? ないなら、一現目はスプラウト先生の薬草学だよ。昼からは飛行訓練があるからそのつもりでね」
きっちりと制服を着込んだグリフィンドールの男の子だった。どことなく、張り切りすぎて空回っていた一年生の頃のハーマイオニーを思い出した。いつの時代にもこういう子が一人はいるらしい。
「報せてくれてありがとう。行こうか、ハリー」
「これ、僕ら行く必要があるのか?」
「あるとも。君も僕も一年生なんだから」
「……マリア、妙になれてない?」
いわゆる、子供のフリってやつに。
暗に問われて得意気に鼻で笑ってやった。慣れてるに決まってる。ホグワーツの一年生をするのはこれで三度目なのだから。
「二人って仲が良いんだね。なんだか兄弟みたいだ。幼馴染みってやつ?」
言いえて妙な男の子の言葉に、くふくふと笑い合う。
「そうだね、ハリーは私にとって弟みたいなものだよ」
「そしてマリアは僕の妹だ」
「それって、君たちのお兄さんとお姉さんが恋人同士なのに関係してる?」
「「さーて、どうかな」」
親切でいたいけな少年をからかいつつ温室へと向かう途中、数人のレイブンクロー生とすれ違った。
「──じゃあ、グリフィンドールの姫さまはこのこと……」
思わず振り返った。当然のように。当然の顔で。つまりは反射であった。
「……マリア」
「…………あ。」
「ん? 君たち──ああ、そうか。これ、君のお姉さんのあだ名なんだけど、もしかして知ってた? 妹の君は──さしずめ、リトル・プリンセスってところかな」
────顔から火が出そうだ。
あれだけ恥ずかしくていたたまれなくて堪らなかったあだ名は、しかしいつの間にかマリアのものなのだと刷り込まれていた。
フレッドのせいだ。ジョージのせいだ。二人に教えたマクゴナガル先生のせいだ。ついでにドラコのせいだ。そしてなにより────父さんのせいだ!
「美人姉妹で羨ましいね。首席の姉さんみたいになれるよう励めよ、リトルプリンセス! ポッター君はくれぐれもお兄さんの真似はしないように」
カラカラ笑って大きな背の青ローブは去っていく。
「…………」
「えーと……エヴァンズ?」
誰とも目を合わせたくないのに、僕より拳ひとつ低い身長のハリーが母譲りの目をキラキラさせながら僕を覗き込んだ。手はしっかりと僕を捕らえていた。
「ほら、はやく行かないと遅刻するよ。──リトル・プリンセス?」
……今朝の仕返しってわけだね、兄弟。