おおむね、滞りなく試験は終了した。ほとんど付け焼き刃だったハリーとロンはようやく得られた解放感からぐったりとしていて、その横でハーマイオニーは「案外やさしいものだったわ」なんて言葉でさらに二人を疲弊と恐怖に陥れていた。この調子ならば今回も学年トップを飾るのはハーマイオニーで間違いないだろう。……僕達は、まあ、ちょっとだけ手を抜いていたりするし。
僕とドラコは存在自体がズルなのだから、知識量の差で子供たちの可能性を上から潰すなんて大人げない真似はしないと互いに決めたのだ。それに、試験が簡単なのは今だけだ。元々が並みだった僕なんて、五年生の辺りから実力の上でハーマイオニーに負かされるだろう。
若葉もすっかり育ちきり真夏に差し掛かったこの頃。暖かな日射しを目指して校庭へ駆け出す三人組を、くすぶる父性に突き動かされるまま微笑ましく見守っていると、ポンッと肩を叩かれた。最近では、その仕草ひとつで相手が誰だかわかるようになってしまった。
たとえば、女の子を相手にするみたいにやわらかく手を置くのはセドリック。腕を回す勢いなのがレイブンクローの彼。ハリーは羽根でもそこにあるのか、みたいな軽さだし、ロンはちょっと乱暴。それをハーマイオニーに「レディの扱いがなってない!」と叱られるまでがセットだ。そのハーマイオニーは肩を叩く前に飛び付いてくる。ちなみに授業中だとかに気を向けさせたい時は指でつついてくる。いじらしいものだ。
そして、心の底から気軽で、彼にしては女扱いを感じさせないこの叩き方は、
「ドラコ」
スリザリンの狡猾な王子さま一択だ。
「試験はいかがでした、グリフィンドールの姫君」
「あなたのご想像通りかと存じますわ、スリザリンのプリンス」
兄弟そろってホグワーツ中の嫌われものとなった今ではほとんど呼ばれないバカげたあだ名を鼻で笑ってみせる。僕が振り返る前に当たり前に僕の隣へと並んだ男と日課じみてすらある皮肉を交えながら、木陰に寝転び秘密の作戦会議を開いている子供たちを眺める。
少しの沈黙──互いの思考は一致している。
「今夜だな」
「今夜だよ」
学生にとって一大課題である学期末試験も無事に終えたというのに、僕たち二人の緊張は、むしろここからが本番だと言わんばかりに高まっていた。
試験までの間、ハリーと僕は毎日談話室で同じ毛布にくるまって眠っていた。遅くまで二人で試験勉強をしていたから、ではない。──ハリーの傷が、時・場所選ばずしてじくじくと彼を痛め付けるのだ。制御不能の呪いに苦しむ弟を、どうして放っておけようか。
無論、僕が側にいるからといってハリーに対して何ができるわけでもない。僕がこの子の手を握っていれば痛みがマシになるだとか、悪夢を見なくなるだとか、そんな素晴らしくわざとらしい奇跡は起きない。その日その夜、ポッター家の運命の日に何が起きたのか未だ真相はわからずじまいだけど──おそらく僕はこの身に死の呪いを受けていない。そんな
けれど、それでも──『僕』はこの痛みを知っているから。
今夜だ。今夜、奴の魔の手を払いきれば、ハリーの寝顔にも安らかさが戻る。……当分の間は。
「頼むね、ドラコ」
「ああ」
再三繰り返してきた僕の確認作業に、涼しい顔で事も無げに返すドラコに小さく笑む。
ドラコには、以前から三人への
そこに過度な庇護の手は必要ない。ハリーなら何があったって石を守りきれる。かつての僕にすら出来たことだ。『僕』なんかよりもよっぽど優秀で心優しいハリーを信じられない筈がない。──けれど、だからといって、それがあの子たちへの心配を手放す理由にはならない。保険はいくらかけたって損にはならないのだから。
そうして、僕の我儘から重い役割を担うことになったドラコは、しかしそんなことは些事だとばかりに呆気なく頷いてくれた。ハリーと共にあればある程に、『あの人』の目に触れる危険性は高まるというのに。……ほんとう、これだから実力のともなった見栄っ張りは頼りになって困る。
──では、現場をドラコに任せてまで今夜僕が成さねばならない事とは。
試験明けに浮かれトチ狂ったテンションのまま問題用紙を握って芝生を駆け回る生徒や、羽根ペンで大イカの足をくすぐっているどこぞの赤毛の双子から離れて、暴れ柳の近くまで移動する。
『彼』との待ち合わせに場所の指定はしなかった。きっと君が僕を導いてくれると信じていたから。夏の青空を割って飛ぶ、雪のように真白い君が。
「こんにちは──ダンブルドア先生」
「こんにちは、マリア。試験の調子はいかがかな?」
生徒も教師もそう簡単には近付けないこの場所で──目の前のこの人がいなければ、きっと僕も暴れ柳に問答無用でなぎ倒されていたことだろう。簡単に近付けない、とはこういう事だ──真っ白のふわふわを腕に、ひん曲がった鼻に引っ掛けているだけのこれまたズレた半月眼鏡の向こうの瞳がきらきら輝く。
「この子は……非常に賢い子じゃのう。思わずフォークスの餌皿から餌をいくつかやってしもうた。フォークスが拗ねておらねばよいが」
「では、こちらをフォークスに。きっと気に入ると思います」
試験中もポケットの中に隠し持っていたヘドウィグお気に入りのオヤツの小包を一袋、待ち合わせ相手のその人──ダンブルドアへと手渡す。すると、伝書の役割を完璧に果たしてくれた頼れる相棒が、留まっていたダンブルドアの腕伝いに不満げに僕の指をつついた。
「イタッ、イタタ! ごめんって、ヘドウィグ。この後ちゃんと君にもあげるから」
ホー。不機嫌を示すため白い胸をたっぷり膨らませつつも、主人の愚行を許す寛大さも併せ持つ僕の空飛ぶレディは、最後にダンブルドアの髭を啄むと彼の元から僕の肩へと戻ってきてくれた。あ、ちょっと毛並みがよくなってるな? どうやらダンブルドアは本当に惜しみなく彼女のことをかわいがってくれたらしい。
「ヘドウィグの面倒を見ていただいてありがとうございます。ダンブルドア先生」
「いいや、いや、礼には及ばんよ。校長室の外で、わしが出てくるまで根気よく待ち続けてくれた子じゃ。わしは健気な動物は一等甘やかしたくなるのじゃ。……さて、マリア。そうまでして『これ』を寄越した理由を、話してもらえるかのう?」
そうしてダンブルドアのシワだらけで優しげな指が懐から取り出したのは、簡素な封筒だった。差出人は当然僕で、中身もごく単調な相見願いの手紙である。
ダンブルドアのスケジュールなど知る由もないヘドウィグには苦労をかけてしまったが、しかし僕には今日どうしてもこの人に話しておかなければならないことがあったのだ。
「まず、透明マントのこと、ありがとうございます」
「……ふむ」
微笑みを浮かべたままわざとらしく髭を掻くダンブルドアに苦笑する。
天文台からピーブズによってどこぞかへ投げ捨てられたというのに、いつの間にかハリーの部屋に戻ってきていた透明マント。そして、そこに添えられた『必要な時のために』のメモ。
ハリーは一体誰がここまで届けてくれたのだろう、マント自体にそういう機能があるのかしらと心底不思議そうにしていたが、その答えを僕は知っている。
「──なぜ、わしじゃと?」
「あれは、死の秘宝ですから」
そう答えた僕の確信と断言を受けて、はじめてダンブルドアから笑みが消えた。底の見えない青い瞳が好々爺の顔を捨てて僕を見る。
「……君は……」
「今日、先生はホグワーツを出られますよね。そして──然るべきときに戻ってくる。私、そんな先生にお願いをしにきたんです」
「……ふむ、聞こうかの」
「ハリーの元へ行くとき、私も一緒につれていってください」
僕の突拍子もない懇願に、ダンブルドアは否定も肯定も拒絶もしなかった。ただ、沈黙し、そして長く長く僕を見つめた。お茶目なだけのやさしい老人のさまは最早そこになく、彼のブルーアイズはまさしく、心の中の秘密までもを見透かそうとする魔法使いの目であった。
嗚呼、ゾッとする。偉大な魔法使いを前に緊張で胃がひっくり返りそうだ。まぜこぜになった尊敬と畏怖が僕の心臓を鼓動と同じリズムで殴る。情けなく腰が引けてしまう。けれど──彼に気圧されてばかりいては、始まるものも始まらない。マリア・ポッターはこの先に進めない。だから。
「今夜、なにが起こるか、君は知っていると?」
「はい」
「ならば、君は……ハリーと共に『そこ』へは、行ってやらんのかね?」
「みぞの鏡の元までたどり着けるのは、一人だけですから。スネイプ先生の罠が、そう作られているでしょう?」
あからさまに先読みして挑発的に返す僕に、ダンブルドアは応えなかった。ジィ……と。どこまでもひたすらに僕を見ていた。
「確かめる必要があるんです。そして、やらなくちゃいけない。──ハリーでなく、僕が」
「……では、わしも今ここで、きみに確かめてよいかの?」
「はい。なんだって」
試し、見定め、告げる──ゆっくり時間をかけて瞬きした魔法使いの青く輝く瞳は、ともすれば断罪を与える刃のきらめきのようにも見えた。
事実、この人は迷いもなく──あるいは迷い苦しんだ末に、それができるひとだ。だから、この答えだけは決して間違えてはいけない。
「君は、ハリーの味方かね?」
「世界中の誰よりも」
息を吸うよりも早く、はっきりと頷いた。迷いはなかった。戸惑いもなかった。
この世のなによりも────僕の味方は僕に決まってる。
「今夜は、談話室で起きていなさい」
少女を定め終えた魔法使いの目元にようやっと柔らかなシワが戻る。そして、眼鏡を傾け手慰みとばかりに曲がった鼻を掻いたかつての老師は、それだけを指示に残すと優しくヘドウィグの頭を撫でてから密会場所を後にした。
「……これって、第一関門はクリアってことかな。どう思う? ヘドウィグ」
ホウ。すっかり足腰の力が抜けてへたり込んでしまった僕へとダンブルドアに撫でられた頭をすり付けて慰めてくれるヘドウィグの毛並みは、やっぱりつやつやで気持ちよかった。
***
「──ネビル、もう寝たら?」
ちょっと困ったふうに、そう男の子に声を掛けたのはハーマイオニーだ。
誰も彼もが試験明けにはしゃぐ中、口少なに夕食を掻き込み寮の談話室に戻ってからも思い詰めた顔でだんまりを決め込んでいた三人は、消灯時間を迎え次々に寝室へと向かう寮生達を見送って最後にパーシーとマクゴナガル先生の就寝点検をかわすと、ついに賢者の石を守護する為の隠密行動に移ろうとした。そこに、先ほど就寝した筈のネビルが現れたのだ。僕はそれを、談話室の、誰かが机に積み上げっぱなしにした本の裏から見ていた。
ああ、ネビル。君はいつだって勇気に溢れているんだ。この時の
「僕、僕──君たちと戦う! もう君たちは深夜に寮を出ちゃだめだ!」
「ネビル、バカはよせ」
「これ以上、規則は破っちゃならない!」
「ネビル……僕らが減点されたとき、君は慰めてくれたじゃないか。僕と、マリアを。お願いだからそこを退いて。僕たちはやらなければいけないんだ」
ハリーが困り果てた顔でいきり立つネビルを宥める。しかしハリーの言葉を聞いて、ネビルはなおのことカッと目を大きく見開いた。腕も唇も緊張にぶるぶると震わせているのに、立ちふさがる少年の瞳にはこの場にいる誰よりも強い意志がともっていた。
「僕だってやらなくちゃならない! マリアが──そのマリアが言ったんだ! 僕のこと、尊敬してるって! 僕には勇気があるって! マリアが信じてくれた僕を、僕は信じる! 僕を信じてくれるマリアを僕は裏切らない!」
「……っ」
咄嗟に自身の口をおおっていた。そうしなければ、叫んでしまうと思った。
ネビル、ネビル、君は、なんて────
「ネビル……ほんとうに、ごめんなさい」
ハーマイオニーの杖から光が走る。無防備にその身で術を受けたネビルが不自然な体勢のまま硬直し、やがて床へとバタリと倒れる。全身金縛りの魔法だ。それにハリーたち三人は罪悪感いっぱいにもう一度だけネビルに謝ると、透明マントをかぶってそそくさと談話室を後にした。
少しだけ時間を置いて、三つ分の足音が遠くに消えた頃にようやくポケットから通信紙を取り出せば、紙面には彼の文字で『グリフィンドール寮の下で待機中』と浮かんでいた。道中、何事もなければじきに三人とドラコは合流できるだろう。
「……ネビル」
そうっと、荷物のように床に転がされてしまった、ハリーと同じくらい勇敢な男の子の元へと足を忍ばせる。
全身金縛りの魔法は対象者に苦痛を与えるものではない。ただ身体の動きを封じるだけだ。ゆえに、その人の意識を刈り取ったりもしない。──ネビルは全部、わかっているのだ。歯を食い縛った状態の彼からかすかに見える涙がその証拠だった。
「フィニート・インカンターテム」
僕の命に杖は応えた。呆気なくネビルから見えない拘束が消える。
「マ、マリア、三人が──あ、ありがとう、でも、三人が!」
友達に拘束魔法を仕掛けられたり、その場にいなかった友達が突然現れたりして、すっかり混乱しているネビルの目尻を拭って彼の涙を払う。
「ネビル。かっこよかったよ。君の正義はいつだってまぶしい。──そんな君を、僕は尊敬してる。心から……心の底からだ」
「マリア……」
「どうか、今夜の君を誇ってくれ。……おやすみ」
何度か、眠れぬ子供──かつて我が子にそうしたように、ネビルの背を緩やかなリズムで撫ぜてやれば、やがて肩から徐に力が抜けていった。コテンと倒れたネビルの頭をマリアの華奢な肩で受け止める。耳を澄ませて男の子の健やかでやさしい寝息を確認する。運ぶのには少々苦労したが、ネビルの身体を床からソファへと移動させて、ここ数日ハリーと共に世話になっていた談話室の共用毛布をかける。
なんだ。こんな時ばっかり、言うことをきくんじゃないか、君。
今だけは素直な杖を振って、ネビルへと悪夢払いのまじないをかける。そうして彼の眠りを見届けたところで、ふとハリーが自室に連れ帰っていたヘドウィグが僕に対して足を差し出しているのに気が付いた。──手紙を掴んでいた。
否、手紙なんて大袈裟なものではない。便箋一枚のメモだ。ハリーの字だった。
『親愛なるマリア
君が起きた時、朝だったならいいと思っています。
けれど、もしも夜中に起きたなら(君って、僕が起きると起きるんだもの!)
どうか僕とロン、ハーマイオニーをさがさないでください。
僕たちは賢者の石を守りにいきます。(マリアのことだから、賢者の石の説明をしなくても、なにが起きてるか知ってるよね? 君っていつもそう。)
もしかしたら、僕は生きて帰れないかもしれない。生きて帰られたとしても、きっと退学だ。
そのときは、マリア、君はホグワーツに残って。それで、手紙で君のこと、魔法のこと、教えてください。
黙っていた僕を、どうか許して。あなたの元へ帰れるように祈っていてくれる? 愛してる。
君のただ一人の兄、ハリー』
「……ほんとうに、もう」
読み終えた手紙を大切に、丁寧にたたんで、通信紙を忍ばせているポケットとは反対側のポケットへとしまう。お利口に片脚を差し出し続けているヘドウィグに「ご苦労さま。これに返信は無いから、自由にしてかまわないよ」と告げてから褒美のフーズを与え彼女の羽を労る。
「君のご主人さまは愛情深いね」
ホウ────
夜に向かって、梟が啼く。
ハリー。たったひとりの兄弟。
一度目も二度目もない、本当にただ一人だけの僕の兄弟。
僕は、この先になにがあったとしても──君を守り抜いて見せるよ。