九月一日。前日にすべて準備を終えたとウィーズリー一家は揃って満足げにしていたというのに、やっぱり朝から隠れ穴は大騒ぎだった。階段を駆け上がり、下り、右へ、左へ。ジョージがロンに、ロンがフレッドに、フレッドがジニーに入れ替わる。
僕、これ知ってる。子供たち(いや、孫だったかな?)にせがまれて、クリスマス旅行に手違いで家族みんなから置いていかれたアローンな子供が、様々な意味で泥棒と最高のクリスマスを過ごす映画を何度か観たんだ。クリスマスに。その映画の朝の風景だ。
あれはもうマグルが使う魔法といっても差し支えないほど見事な仕掛けだった。……今回置いていかれるのはケビンじゃなくてハリーだけどね。ハハハ、笑えない。
バタバタのまま車へ乗り込めば、案の定子供たちが次々に忘れ物を叫ぶ。アーサー氏は行っては引き返し行っては引き返しをくり返させられた。不憫な人だ。
けれども、ジニーが日記を忘れたと叫ぶことはなくて僕は一人安堵していた。
……日記、持ってないよね? 今度こそ、脳がどこにあるかもわからないのに一人で考えたりする怪しいものと、魂をかけて遊んだりしてないね?
「マリア?」
「酔っちゃった?」
きっと顔が蒼いだろう僕を片手ずつ握って心配してくれる未来の弟夫婦に、愛しさが爆発してぎゅうぎゅうと抱きしめてしまった。
どうかそのままでいてくれよ、僕の天使たち。
キングス・クロス駅の例の柵を前にした時、残す時間は五分に迫っていた。パーシーから始まり、ウィーズリー一家が順々に柵の向こうへと消えていく。
「ロン、先に行って。僕とハリーは一緒に行くから」
「オーケー」
今回も彼を盛大な遅刻の旅へと付き合わせてしまうのは申し訳ないので、さりげなく被害が僕らの中だけで収まるよう誘導する。
ドビーは『これ』を百パーセントの善意でやってるからややこしいのだ。……これだけ家にこだわるって、もしかしてドビーったらハリーの血の守りのこと、知ってたのかしら。
「行こう、マリア」
「うん……」
前回の反省を活かし、二人分の荷物をまとめた一つのカートを二人で押していく。
──ガシャーンッ!
ひっくり返ってしまったヘドウィグを咄嗟にキャッチして、よろけたハリーもどうにか受け止める。荷物はしかたがない。壊れるようなものは入ってない。
呆然とするハリーと何事かと駆け寄ってくる駅員の姿を確かめながら、僕は肩を落とした。時刻は十一時を過ぎていた。
ドビーの善意は……ちょっと命懸けなんだ。
***
カートに再び荷物を積み直して、人混みから離れた駐車場にてハリーと腰を下ろす。アーサー氏のフォード・アングリアはなくなっていた。
「僕、どうしたらいいんだろう……」
「ヘドウィグに手紙を持っていってもらおうよ」
「それだ!」
ハリーが膝の上でせっせと羊皮紙を広げるのを見守る。届ける先はハグリッドかダンブルドアか──マクゴナガル先生は新入生の組分け補助に忙しいだろう。校長が歓迎会を抜けるわけにはいかないだろうし、ハグリッドは──外見が、マグル界にはちょっとだけ、適さないかも。フリットウィック先生も同様だ。となると──となると──?
「頼んだよ、ヘドウィグ」
ハリーの指と僕の耳を甘噛みして、ハリーが預けた救助要請と共に美しい雪梟は飛び立っていった。夜が更けきる前に誰かが迎えに来てくれるといいんだけど。でないと、大荷物を持った子供二人なんて家出と間違われて補導されてしまう。
保険としてドラコへも通信紙に事情説明を頼んでおけば、現状できることがなくなった僕らはすっかり手持ちぶさたになってしまった。
「ねえ、ハリー?」
「なぁに、マリア」
トンッと軽い重みが肩に落ちる。ハリーのふわふわの頭が首筋をくすぐった。
「ジニー、どう思う?」
「ジニー?」
くりくりした緑の瞳が長いまつげを押し上げた。宝石みたいで綺麗だ。──『僕』の、自慢だった瞳だ。
「うーん、よくわかんないよ。僕、まともに話せてないもの」
「ああ、そっか」
「でも…………ちょっとだけ、さびしい」
「さびしい?」
質問の回答には適さない返答に、はて、と首をかしげる。
「……マリア、彼女を妹みたいにかわいがるんだもの」
「…………」
パチパチと瞳をまたたかせて。ぐうっと胸からなにかのかたまりが込み上げてきて、脳みその中で暴れる。
「ああ──ハリー、ハリー、ハリー! 君、もしかして────僕の弟はなんてかわいいんだ! 愛してるよ、ハリー!」
「わっ、苦しいよマリア……僕が兄だよ!」
「ジニーだって愛してるけど──僕の兄弟は君だけだとも!」
「もう、マリアったら。そんなの当たり前のことじゃないか」
「ふふ、ふふふっ」
……当たり前じゃない。当たり前じゃないんだよ、ハリー。
額をコツリと合わせて、ふにゃふにゃ笑い合う。ただ座っているだけの退屈な時間になると思っていたのに──兄弟がいるだけで、いつだってどこだって幸せな気持ちになれるのだ。
「大好きだよ、たったひとりのマリア」
「大好きだよ、たったひとりのハリー」
大好きだよ──僕の愛する人たち。
***
夜だった。トランクを椅子にして、カートは駅へ返してしまって、なるべく人気のない公園を選んだ僕は星を見上げていた。膝にはハリーの頭があって、気持ち良さそうに寝息をこぼしていた。ふわふわな髪の完璧な指通りを楽しむ。
街明かりに殺された星はなんだかみすぼらしくて、本物でなくてもキラキラ魔法で輝く大広間の夜空が恋しかった。今度こそジニーの組分けだって見たかったし、胃がしもべ妖精たちの傑作のご馳走を求めていた。
「ハリー……」
星の明かりを諦めて、体温を分けてくれるいとけない寝顔を見つめる。ちょっと頬をくすぐってみる。モリー母さんのおかげで膨らみを取り戻しつつあるそこはやわらかくて気持ちいい。唇にも悪戯に触れてみる。弾力があってふわふわだ。まだまだ子供だ。
「気持ち良さそうな顔しちゃって。……僕まで、眠くなっちゃうな」
「──それは困ったものですな。十二歳の少年少女が抱えきれぬ荷物を持って野宿とは。いかにも、危機管理がなってないと見える」
ハリーに触れていた指が体ごとかたまった。──いや、いや、そんな気はしてたんだ。消去法で。そうなるんじゃないかなって。
でも──まさか──ほんとうに──
「スネイプ……せんせい……」
「姉も、……兄も、ホグワーツの名誉ある教授を送迎に使うなどと、大胆かつ大それた要求をご所望されたわけだが──そのご本人がたは、随分と有意義な時間を過ごされたようだ。結構、結構。我輩も、わざわざロンドンの街をこの身一つで歩き回された甲斐があったというもの。……さっさとその傲慢な間抜けを叩き起こして立ちたまえ」
「は、はい! ハリー、ハリー起きて! 先生が来てくれたよ!」
冷え冷えとした銃口の瞳に慌ててハリーを揺する。おそろしいくらいに機嫌が悪い。減点をたんまりと言いたげな顔だ。誰かグリフィンドール生がすでに問題を起こしたのだろうか。このままだと寝ぼけたハリーを蹴り上げるくらいはしてしまいそうだ。
「ハリィ……ねえ……」
「……ん、うん? マリア? おはよう」
マリアとなってからは多少は改善されたが、ハリーは低血圧だ。すぐに覚醒できない。僕はそれを知っている。だから朝は、同時に目覚めたとしてもハリーが動き出せるようになるまで、僕らはじゃれ合うのが常だった。
くり返そう。──ハリーは寝ぼけていたのだ。
ちゅっ。
まずは鼻に。次は額に。瞼に。そして頬にキスが贈られる。僕らにとっては慣れたスキンシップで──
バキッ。と。前方から聞こえた音の発生源が誰からだなんて、考えたくなかった。
「ハリー! 起きて! いつもならいいけど今日はダメ! 先生が見てる──スネイプ先生だぞ!?」
「ほう……いつもと。麗しき兄弟愛での目覚めは日常のひとつであると。はてさて、ホグワーツはいつから乳幼児預かりも可能となったのか。我輩にはとんと覚えがないのですがねえ。──ああ、ミスポッター? そう焦らずともかまわんよ。乳離れのできぬ子供はぐずるものだ。ミスポッターも勉学に加え子守りの日々にさぞお困りでしょうな? 本日は僭越ながら我輩が起床の手伝いをさせていただこう」
「ひえっ……け、けっこうです」
「遠慮はいらぬとも。我輩とて、生徒が困っているとなれば杖を振るおう」
反射的にウソつけ! と叫びかけて──飛び起きたハリーに僕とスネイプ先生は揃って口をつぐんだ。
「あの、アー……おはようございます、スネイプ。……先生」
「…………さっさと貴様の精神に通ずるひねくれ曲がった頭を整え汚ならしい面をまともにしたまえ。ホグワーツに戻ったら罰則だ」
「「…………ハイ」」
今回ばかりは、理不尽だとは叫べなかった。