「ドラコ!!」
ハリーが眠る彼の元へと駆け出す。拍子に、こぼれ落ちていった杖を代わりに拾った。
「ハリー、杖はなくしちゃダメだ。君は魔法使いだろう?」
「あ、ご、ごめん、マリア。ねえ、ドラコが……僕たちだけで運べるかな。誰かを呼んだ方が……? でも、その間にもしもバジリスクが来たら……」
「──バジリスクは来ないよ。呼ばれない限りね」
ひんやりとした声だった。そのくせ、声は言葉の裏で笑っていた。
遠くに立つ、輪郭がかげろうのように揺らめいて見える美しい少年。黒い髪に黒い瞳、こんな状況でさえなければ、なんてハンサムな人だろうと感嘆の一つでもこぼしていたかもしれない。
ゴーストともちがう、
「……君は?」
「トム・リドル」
ハリーの問いに答えた僕に、リドルはうっそりと笑った。
「やっぱり、僕を知っていたか。僕は君のことを警戒していた。マリア・ポッター? ここへの招待状はハリーにしか渡していないはずだけど」
「ハリーに関わりのあった人間ばかりを襲うのが、招待の証?」
「……ずいぶん、頭が回るね。そんなところまで、そこの彼とお似合いとは」
彼──とドラコをせせら笑ったリドルに、拳を握りしめる。
「マリア……トム・リドルって……T・M・リドル──? 特別功労賞を取った──?」
「おや、ハリー。君は僕のトロフィーを見てくれたのか。感心だ」
好青年の皮をかぶって微笑んだリドルに、ハリーが安堵の息をついたのがわかった。
相変わらず人の心の隙間に入り込むのが上手い。特に、ハリーとは一蓮托生であるがゆえに。
時間を──時間を稼がなくちゃ──
「僕を警戒していたから、十二月からバジリスクをけしかけるのをやめたのかい?」
「ああ、そうだよ。一目でわかった。──君は厄介だ」
「……あの日の『確認』にはなんの意味があった」
「うん? ……ああ! あれか。だって君、パジャマで彼のベッドの上になんているんだもの。そういうことかなって。……そこまでの関係には至ってなかったようだけど」
「──そして、僕がドラコの中の君に気付いてるかどうかも確認した」
「…………ほんとうに、無駄に回る頭だ」
ほんの少し余裕が崩れたのにたたみかける。
「聞かせてくれる? ──いつから、ドラコに巣食っていたの」
リドルは加虐的に残酷に笑った。心の底から、人の絶望を、怒りを愉しむ顔だ。
「いつから──いつからだったかなあ? とてもとても、昔から──彼がルシウスから日記を渡された日からだ。彼は七歳だとか、そのくらいだったんじゃないか?」
「────」
そんなに、前から──?
「彼はすごいよ。僕をもってして、油断ならないと思わせた。わかるかい? 彼ってば……七歳そこらでこの僕と化かし合いの駆け引きをしようとしたんだ。僕から何かの情報を得ようとしていた。決して心を開かなかった──だから、こんなにも時間をかけることになってしまった」
「……七歳から、ずっと、やり取りを?」
「ああいや、それはちがう。七歳で開かれ、数回やり取りをした後に彼は僕を封じた。退屈だったさ。もう永遠に日記を開くことはないだろうと思った。──けれど、封は再び解かれた。去年のクリスマスにね」
「──!」
……ティアラだ。ティアラを入れるために、封印を解いたのがきっかけになってしまったんだ──!
「
拳だけでなく、唇も噛みしめる。
ああ、ああ──こんな空回りが、あるものか。
「それから彼はハロウィンが近付くにつれ毎日封印を解いた。そこからは簡単さ。触れてしまえば、数年かけて馴染んだ僕の欠片が彼に日記を開かせる。残念ながら、心までは完全には開いてくれなかったからね、彼自身から情報を得ることはできなかったけど──君たちは、とても有名だった。彼の体で歩けばそれだけで君たちの噂が得られた」
そこで、リドルはハリーを見た。ハリーは静観する中、その視線を確かな目で受け止めた。
「ハリー・ポッター、僕は君に会いたかった」
「……なぜ?」
ドラコへ添えていた手を放して、ハリーが立ち上がる。
「聞きたかったんだ──ちっぽけで何の力もない君が、どうやって『未来の僕』を打ち砕いたのか!」
文字が浮かぶ。
TOM MARVOLO RIDDLE ── I AM LORD VOLDEMORT
リドルの目が真紅に変わった。
「ハリー……僕と君はよく似ている。境遇、才能──なんだかほら、容姿まで」
リドルとハリーの問答が続く。トム・リドルの過去、ハグリッドの冤罪、そして──ヴォルデモートの呪いを破ったのは母の愛であること。
それを固唾を飲んで見守りながらも、僕は気が気じゃなかった。
まだか──まだなのか────フォークス!
「──ダンブルドアは、君の思っているほど遠くには行ってないぞ!」
ハリーの辛々の叫びに応えたのは──歌声だった。
美しい鳥だ。炎のように赤くて、金色の嘴と澄み渡るような黒い瞳の鳥だった。
トム・リドルが──ヴォルデモートが焦がれた不死の象徴。
フォークスはハリーの肩に留まると、ボロボロの古帽子を足元へと落とした。そして静かな瞳で僕を見た。
──うん。それで正しいよ。僕には──忠誠の剣は抜けないだろうから。
「組分け帽子……」
ハリーの呆然とした呟きに、リドルの理性的で狂気的な笑い声が部屋中にこだました。弾かれたように彼は笑っていた。
「ダンブルドアが送ってきたのはそんなものか! ああ──さぞ心強いだろうな、ハリー・ポッター? さあ、その
彼の口からシュルシュルとおぞましい音が吐き出される。きっとハリーには明確な言葉として届いているだろう。
石像の口が大きく開いていく。ずるりと、巨体が這い出る。
千年を生きた蛇。孤独に眠り続けた蛇。取り残されてしまった可哀想な蛇の王──バジリスクのおでましだ。
ハッと顔を上げかけたハリーの前にフォークスが羽を広げ、皆の注目がバジリスクへ向かっている間にドラコのローブを開く。
僕は知っている──彼はいつだって、ここに杖をしまっていることを。
「もう一度、『僕』と闘ってくれるかい?」
──君の力で、ヴォルデモートに立ち向かわせてくれ。サンザシの杖よ。
「ハリー! 目を見ずに下がるんだ! 距離を取れ!」
「でも、ドラコが……!」
「──モビリコーパス!」
ハリーの腕を取って後退しながらドラコを浮かせる。ドラコの体を壁の凹凸の隙間へ滑り込ませる。不幸中の幸いだが、今のドラコは死人同然だ。体温を知覚して獲物を狩る蛇に悟られる心配はないだろう。
「おや、君は杖が使えないんじゃなかったかな」
「……自分の杖はね」
フォークスが再びハリーの手へと組分け帽子を差し出す。
「受け取って、ハリー」
「使い方がわからない」
「大丈夫。君ならできるよ。ダンブルドアが、君にならって託したんだ。──蛇を任せる。フォークス、お願い!」
フォークスが大きく鳴いてバジリスクの頭上へ旋回したのを見届けてから、高みの見物とばかりに佇立するリドルの前へと立つ。
「ご指名のハリー・ポッターは見ての通り忙しくしていてね、差し支えなければ僕がお相手させてもらっても? ついこの間、決闘を習ったばかりなんだ。習ってすぐのものって、試してみたくなるでしょう?」
「決闘! これはこれは……僕は杖を持っていないのに? フェアじゃないんじゃないかい?」
「ハンデってことにしてよ。僕、二年生だよ?」
「なるほど、ハンデか。寮違いの後輩がこんなにも勉強熱心で、先輩として実に誇らしいよ。これでも教師を目指していたこともあってね。……よろしい。君が今、誰を前にしているのか──跪かせてわからせてやろうじゃないか」
ギラギラ光る血の色をした瞳に、なつかしく苦々しい死の緊張を思い出す。
深々と礼をする。杖を剣のようにしてかまえる。彼は後ろ手に手を組んだまま微笑んでいる。
一──二──三────
「クルーシオ!」
「インペディメンタ!」
躊躇いなく飛んできた拷問の呪文を避けながら弾く。たったそれだけで体が重くなる。走り出す。急速な疲労感に襲われる。
力も杖のコントロールも十分だというのに──体が追い付かない。
「インセンディオ!」
「アグアメンティ」
「デューロ──レダクト!」
炎を掻き消した津波のごとき水の怪物を固めて砕く。駄目だ、遅い。目眩が襲う。頭は次の呪文へ回っているのに体から引き出される魔力量がまったく追い付いていない。
連続で魔法をくり出すのは無理だ。体が持たない。
「……ツ、ぁ!」
軽々と飛び越えたつもりの瓦礫に躓いて転がる。その上を閃光が抜けていく。ローブやズボンが擦りきれていく。
ああ──頭の中の展開予想と身体能力が噛み合っていない!
「ずいぶん不様じゃないか!『体術には覚えがある』んじゃあなかったかい!? マリア?」
「うるっさいなあ……ッ! フリペンド!」
憎たらしいことに、リドルはその場から一歩たりとも動いていなかった。駆け回るのは僕ばかりだ。向こうは杖なしだっていうのに──能力の差が圧倒的すぎる。
「コンフ、リンゴ……! ッディセンド!」
頭がクラクラする。既に魔力の底が見えていた。もはや絞り出しているに近かった。
柱を砕いてリドルの上へ落とすも、割って回避された破片が飛ぶのを避ける力すらない。
もう少し──もう少しだけ──耐えてくれ、サンザシの杖!
「──マリア!」
「なんだ、まだ生きて────ッ!?」
ようやく、ここにきてリドルの嘲笑が剥がれ落ちた。反対に、僕は緩む口角を抑えることができなかった。
さすがだ──ハリー。
ハリーの持つグリフィンドールの剣が、バジリスクの首を深々と刺していた。
「……時間稼ぎか」
「思いの外……夢中になってくれて助かったよ。リドル」
ハリーがそのまま、誰に教えられるでもなくフォークスが運んできた日記へと剣を突き立てる。バジリスクの毒を含んだ剣は、間違いなくリドルを殺した。
リドルは、前回とは違って日記からドクドクと血のインクを吐き出しながら笑っていた。──僕を見て嗤った。
「マリア、最後に教えてあげよう。本当に大切なら──人質から意識を離すべきではない」
「────」
リドルの口からシューと音が囁かれたと同時に僕は駆け出した。ハリーは気付いていない。
バジリスクは盲目のまま──最期の命を使って牙を唸らせた。
「────プロテゴ」
ぐちゃり。
「…………マリア?」
手からイトスギの杖が落ちる。もう魔力はなかった。きっと──プロテゴは僕の命から引き出された。
やっと君が理解できたよ。──僕の杖。
「バジ……リスク……」
なんとなく、腹が熱いような、冷たいような、不思議な感覚だった。すぐそこにある、目を喪ったバジリスクを指先で撫でる。
きっと君の目を見られたのは僕らがはじめてだ。──なんだか、それってちょっと、サラザールに申し訳ないな。
「サラザールは、もういないんだ。……おやすみ、バジリスク」
たった一人の友を待ち続けたさびしい蛇は、ようやく、瞳を閉じることができた。
バジリスクが倒れたと同時にドラコへかけたプロテゴは割れ、
「──ッマリア!! マリア──マリアぁ!」
ハリーの叫ぶ声が聞こえる。そんなに大声を出したら喉が切れてしまうじゃないか。かすんだ視界に炎がちらつく。フォークスかな。泣いてくれてるのか。傷はふさがっても、毒は消え失せても、たぶんこれ、血が足りない。出血多量ってやつだ。ハリー、泣いてるな。ごめん、こわがらせた。こわいよね、僕もとってもこわかった。
やっぱり、泣かれるのは苦手だ。
君ってば、案外僕より泣き虫なんだもの。そのくせ、死にかけの僕を見つけるのって、いつも君だ。
君って時々、ものすごく運がない。
僕よりよっぽど死にそうな顔してるくせに、僕よりずっと泣くんだもの。目がとっても熱いんだ。
いつもは冷たい色をしてるくせに。こんな時は氷が溶けるみたい。
ああ、やっぱり──君に泣かれるのは苦手だ。
「ハリー、君、死ぬのか」