目覚めた時、僕が一番に思ったのは──生きている、だった。
よく知る体温に手を繋がれて、その本人は僕が寝かされているベッドにうつ伏せに頭をおいて眠っているようだが、たったそれだけで生きている実感が湧いてくる。
くしゃくしゃの黒髪がごわついてる気がして、安堵と共に頭を撫でようと腕を上げて──全身へ走った激痛に体を跳ねさせた。さらに痛む。特に腹が。悪循環だ。
「──マリア?」
パッと跳ね起きたのは片割れも同じだった。痛みに声も出せない僕に大慌てでマダム・ポンフリーを呼んで、そのマダム・ポンフリーが見るからにイイ味のしそうな薬片手にやってくるのを、僕は処刑台の上の気分で待つしかなかった。
おそらく鎮痛薬なんだろうけど……わかってはいるんだけど……これがすでに拷問だ。
どうにか飲みほし(飲みほすまでマダムは絶対にその場から動かなかった。)背を起こして、また泣いてしまいそうな彼へ腕を広げる。
「ハリー」
「マリア」
「──おいで」
ハリーの手はおそるおそるだった。とても怯えていた。なので、こちらから精一杯力を込めて抱きしめることにした。
「マリア……マリア……」
「うん。君のマリアだよ。心配かけたね、ハリー」
「僕──こんなに、こんなに──こわいと思ったこと、ない。君──真っ赤で──ち、血だらけで──腹に穴があいていて──池みたいになって」
「うん」
「生きてるように、見えなかった」
「でも、生きてるよ。ゴーストはこんなにあたたかくないでしょう?」
「うん──うん──!」
震えている小さな体を受け止めて背を撫でる。腕が上がりにくいだとか体がだるいだとか、そんなことよりもハリーの心がボロボロであることの方がたえられなかった。
死ぬ気なんてなかった──けれど、死にかけてしまったのも事実だ。
「ごめん。ごめんね、ハリー」
「もう無茶しないで。僕をひとりにしないで。僕たち、一人ずつしかいないんだから」
「……うん」
ほんとうにごめんなさい。──今後も、その約束は守れないだろう。
君はきっと、この嘘は許さないだろうな。
「ねえ、ハリー? 僕、どのくらい寝てた?」
「今日で八日目だよ」
「ワーォ、寝坊新記録だ」
八日ぶりの飲食があの飲み物と称しがたいゲロみたいな薬だったとは。
抱きしめたまま、僕が昏睡していた間の八日間のことをハリーから聞く。
日記を剣で破ってすぐ、ドラコは目覚めたこと。僕の体を運んだのはドラコの魔法であること。ダンブルドアとハグリッドは無事に帰ってきて、ダンブルドアへの説明はすべてハリーが担ってくれたこと。(リドルと僕の会話を聞いていただけなのに理解できるなんて、やっぱりうちの弟はすごい。)パーセルマウスはヴォルデモートの力のものであること。特別功労賞が僕らに授与されること。明日にはマンドレイク薬も完成すること。
「マリアの傷は、残ってしまう──て。毒は残ってないけど……バジリスクの毒が広範囲に広がりすぎてしまって。だから、肌が溶けたようになっていて──もう、呪いのようなものになってるらしいんだ……」
「また呪いか。僕たち、呪いに縁があるね? さすが魔法使いだ」
「笑い事じゃないよ!」
腹をさすりながら茶化せば、ぷんぷんと怒られた。
位置的に、ペチュニア伯母さんと不幸な衝突があった火傷痕のところか。ということは、バジリスクの毒に上書きされちゃったのか。……それは、ちょっと残念。
「みんな、お見舞いにきたがってたよ。寮問わずだ! マリア、人気者だね」
「ハリーには負けるけど?」
「僕は人気なんじゃなくて有名なんだよ」
それはちょっとあるかもしれない。
咄嗟にうなずいてしまって、少しだけ気まずくなった。
「……あの、ドラコなんだけど」
「うん」
「リドルが消えてすぐ、目覚めたって言ったでしょう? 血溜まりの中にいるマリアのことを見て──すごく──その──つまりは──」
「取り乱した?」
「…………」
ハリーは、それもなんだかちがう気がする、と曖昧に首を振った。
取り乱すなんてものじゃなかった。もっと──まるで──
「……ごめん、やっぱり僕の口から言うことじゃないよ。ドラコにも、マリアが目覚めたって伝えておくね」
「ん、頼んだ」
不確かなものは語らないことに決めたらしいハリーを撫でる。通信紙も寮に置いてきちゃったし。
『僕』よりも無鉄砲さがないハリーは、『僕』よりもよっぽど懸命で信頼できる存在だ。
「マリア、覚えていてね。──君は、とても大切な人だよ」
「……ありがとう」
ロンが夕食の時間にハリーを呼びにくるまで、ハリーはずっと僕の手を握り続けた。生きていることを確認するように。
面会者の長居を禁ずるマダム・ポンフリーですら、ハリーを追い出すことはできなかった。
翌日。僕が深く眠っている間に、石にされた生徒たちは無事に蘇生したらしい。生徒でないもの、生きていなかったものも蘇生された。(それは蘇生なのだろうか?)
同じ医務室にいたため、軽く囲まれながら礼を言われる。監督生のペネロピー・クリアウォーターからは寮点十五点をいただき、ジニーからは大泣きされ、つられたハーマイオニーにも頬をつねられながら泣かれ、ミセスノリスには手首を甘噛みされ、ほとんど首なしニックからは深々と頭を下げられた。傾いた首から断面図が見えて色々と勘弁してほしかった。コリンはカメラに手をかけようとして、バジリスクに溶かされなくなった事実にしょんぼりしていた。僕らとしては散々無許可撮影された写真のデータが永遠に失われたようでなによりだ。
「それじゃあ、改めて聞かせてもらおうじゃないか? 抜け駆けツインズめ。双子ってのは二人いるから抜け目がないんだ」
「もうハリーが話したんじゃないの」
「君からも聞かなきゃ。それに、当事者のハーマイオニーが知らないなんて、そりゃないだろ? 親友」
石にされていた生徒たちが医務室を出てすぐ、ハーマイオニーの見舞いにやって来ていたロンに押しきられて(押しきられたのはマダム・ポンフリーだ。)面会者管理のごとく僕の側に居続けるハリーと共にハーマイオニーへと顛末を語って聞かせた。ハーマイオニーは時折息をのんだり、瞳を潤ませたりしながら聞き入っていた。
「それじゃあ、サラザール・スリザリンの怪物は間違いなく倒されたのね? ああ、あなたって勇敢だわ、ハリー。マリアはあの──『あの人』の過去と一騎討ちするなんて! 普段、ちっとも上手に杖を扱えていないのに。無謀だけど──生きようとしたあなたを尊敬するわ。ほんとうは、とってもとっても怒りたいけど」
「マリア、今、君の思ってることを当ててやろうか。──ハーマイオニーの説教は長くて勘弁」
「あぁら、お望みなら一日中だってお説教してさしあげますとも。ロン・ウィーズリー」
余計な口をついたロンを肘で小突く。そんなやり取りすら、ずいぶんハーマイオニーを失っていたロンは喜びを隠せずにいるようだった。微笑ましくてけっこうなことだ。
「それにしても……こんなことがあるなんて、マーリンの髭だ」
「マーリン? 大魔法使いマーリンがなんなの?」
「え、君たち言わないの? 驚いた時にマーリンの髭! とか、マーリンのパンツ! とか」
「マーリンのパンツがどうかしたの?」
マグル育ち二人には伝わらない慣用句をあたふたと説明しているロンに笑っていれば、ふと、茶目っ気あふれるブルーの瞳がキラキラと僕たちを見ていることに気が付いた。
「ダンブルドア先生」
戯れる孫を覗くように微笑んでいたダンブルドアは、ぎょっと振り返る子供たちを眺めて髭を撫でた。
「わしとしては、ダンブルドアの髭! も中々にイカすと思うんじゃがのう。おお、ダンブルドアの鼻! なんかもどうじゃ? この見事に折られた鼻が活躍する時じゃ」
相変わらずな人だ。まったく、いつからそこにいたのか。
「ご用件はなんでしょうか、ダンブルドア先生?」
「マリアはジジイの冗談に笑うてくれん……さびしいのう」
「先生」
よいよいと泣き真似をしてから、穏やかな瞳がゆうるりと子供たちの顔を見回す。
「マリア、君に客人がお見えじゃ。席を外してくれるかのう? ウィーズリー君、グレンジャー嬢────ハリー」
三人は一様に目を丸くしていた。
ハリーまでだなんて。ハリーはずっとマリアに付きっきりだったのに。
「僕、ここにいちゃダメですか?」
「ハリー」
星みたいにキラキラしているのに、どこか物静かな瞳が聞き分けろと訴える。
「ハリー、大丈夫だよ。そろそろ固形物が食べたいから、サンドウィッチとか持ってきてくれると嬉しいんだけど」
「マリア、でも」
「ダンブルドアの目の前で悪さできるやつなんて、この魔法界に存在するかい?」
「……いないかも」
拗ねたようなハリーを手招きして、額にキスを落とす。
大丈夫、大丈夫だよ。目を離した隙に死んだりしないから。……やっぱり、トラウマになっちゃったかな。わかりやすく過保護だ。
「わかった。なら、これ、渡しておくね」
そう、ハリーが僕へ握らせたのは、四つ折りされた羊皮紙だった。──通信紙だ。
「……ハリー?」
「僕、ちゃんとマリアのこと見てるんだからね」
してやったり。ニンマリ笑う顔は──『僕』にそっくりだった。
三人組が仲良く退室するのをダンブルドアと共に見届けて、微笑みを絶やさぬその人を見上げる。
「先生、お願いします」
「うむ、あまり拘束してはマダム・ポンフリーに恨まれてしまうからの。では紹介しよう。──ルシウス・マルフォイ氏だ。君たちが救ったドラコ君のことで、礼が言いたいそうじゃ」
医務室の扉が再び開いて、シルバーブロンドの凍った美しさを持つ男が入室した。
ドラコによく似ている。──あの、敵を見る時の心を切り捨てた眼差しなんて、特に。そして選択を迫られている時の、ほのかな揺らぎ方も。ドラコが彼に似たのだ。
「はじめまして、ミスターマルフォイ」
「……はじめまして、ミスポッター」
ルシウスはぶっきらぼうに返すと、先程までハリーが座っていた椅子へと腰かけた。医務室がなんて似合わない人だろう。
「では、わしはこれで失礼するとしよう」
「え──先生、ここにいてはくださらないんですか?」
「ルシウスは君と内緒話がしたいようでな」
パチンッ。星々の目からウィンクが飛んだ。
ダンブルドアの姿が扉の向こうへと消えて、仲介役を失った僕ら二人の間に気まずい空気が流れる。
「──まず、礼を言おう。息子を救ってくれたこと、心から感謝している」
不遜にルシウスが切り出した。本当に昔のドラコ──マルフォイと呼んで喧嘩ばかりしていた頃のドラコにそっくりで、感動すらしてしまいそうになる。なんて似た者親子なんだ。
「かまいません。元々、こんな巻き込み方をするつもりじゃなかった────今回、誰が裏にいたのか、ご存知ですか」
「…………」
ルシウスが沈黙する。薄っぺらそうな瞳に少しの動揺が見える。──やっぱり、これが本題か。
「なぜ、あなたは死喰い人になったのです」
長い髪が踊るほど勢いをつけて、ルシウスは顔を上げた。
「なぜ……」
「──家族を、守るためでしょう」
ルシウスのもっともな疑問には答えず続ける。
「後ろ指を指されようとも、面従腹背とそしられようとも、スリザリンらしい狡猾さであなたは選んだ。──もっとも家族を守れる方を。常に優勢の影を」
誹謗中傷は当たり前だっただろう。それこそ、仲間内からも。いつだって引き返せる場所に居続けた彼は、卑怯ものの臆病者に見えたにちがいない。──こんなにも、勇敢で愛情深い人なのに。
「しかし、現実はどうです。あなたの息子は危機にさらされた──殺されかけた。死を突き付けられた。あなたの主によって」
あなたの判断が、あなたの失敗が──あの日のマルフォイを追い詰めたんだ。
「あなたの主は──ヴォルデモートはあなたの家族を、守ってはくれませんよ。あなたの守りたいものを、慈しんではくれません。彼は愛を知らない」
ルシウスの手を取る。長袖の上品な服の下にある、証へと手を置く。
「これは、あなたの守りたいものを捨ててまで刻む価値のあるものですか。──あなたが本当に守りたいのは、誰ですか」
ルシウスは答えなかった。
彼だってまた──ただひとつの為に悩んで、悔やんで、苦悩して、間違えたりしてもがいている、普通の人間だ。父であり夫であるだけなんだ。
「あなたが本当に守りたいもののために、闘ってください」
ルシウスは一つたりとも答えてはくれなかったけど──グレーの瞳の揺らぎは、なくなっていた。