ねえ、ドビー。ベッドの上で呟いてみれば、パチンッという音と共にしもべ妖精の友が現れた。
「マリア・ポッター! 生きている! マリア・ポッターは勝った!『名前を呼んではいけないあの人』にマリア・ポッターは勝った!」
キーキー声で涙しながら小躍りするドビーに、落ち着いて、と肩を叩く。そして、マルフォイ邸にルシウスと共に帰らなくていいのか尋ねてみる。
「マリア・ポッター……ドビーは自由な妖精です。もうドビーは縛られないのです。ハリー・ポッターが解放してくださった! ハリー・ポッターの靴下はドビーの宝物になりました」
どうやら、今回も同じ手段をもってドビーの解雇に至れたらしい。……やっぱり泥だらけのソックスが宝物ってどうかと思うよ。
「それなら、ドビー──もう、話せるかい?」
ドビーにかけて、と言えば、ドビーはあの日のように感動に震えたりはせずベッドへ腰かけてくれた。
「ドビー、君は、なにを知っていたの?」
「ドビーは、ドラコ坊ちゃまの持つ日記がよくないものだと知っていました。日記はとてもおそろしかった……しかし坊ちゃまは手放さなかった。そして今年の夏に、『名前を呼んではいけないあの人』がご主人様と──いいえ、いいえ! もうご主人様ではないのです!──お屋敷でお話をされた……」
「『名前を呼んではいけないあの人』は尋ねた。日記はまだ息子が持っているのかと。ご主人様──いいえ、ルシウス! ルシウスはもちろんと答えた。その時、ドビーは見てしまったのです。ドビーは給仕をしていましたから、見えてしまったのです。──『名前を呼んではいけないあの人』は笑った! おそろしく! 残忍に! そしてこう言った! 同時に始末できそうだ──と。ドビーにだけ聞こえていた……」
ドビーはベッドの上で立ち上がり憤慨した。蝙蝠の羽のような耳がパタパタと振られた。
「『名前を呼んではいけないあの人』の敵はハリー・ポッター! 我々の希望、ハリー・ポッター! ドビーはこのままではいけないと思いました。ドラコ坊ちゃまがホグワーツに戻れば、恐ろしいことが起こる……」
「ドビー」
僕はそっと呟いた。
「君は────ドラコのことは、どうでもよかったんだね」
「? いいえ、どうでもよくなんてありません。
語り終えたドビーに、僕はなにも言えず沈黙した。
たとえばここで、ドビーを人でなしと罵ったってどうしようもないのだ。だってドビーは
ホグワーツ内への姿現しを無効にする法が妖精には効かないように、人間の法は当てはまらない。
「ドビー……君たちって──残酷だね」
大好きな友達を抱きしめる。大好きな──人でない僕の友達。
ドビーは、魔女がドビーを抱きしめた! と飛び上がると、そして不思議そうに目をまたたかせた。
「ドビーは人間以上に残酷な生き物を知りません」
ほんとうに、正直で残酷だ。
***
それから二日してようやく、マダム・ポンフリーから退院の許可を得た。マダム・ポンフリーは渋っていたが、これ以上勉強の遅れを取らせるわけにはいかないとマクゴナガル先生が説得してくれた。ハーマイオニーもまったく同意見で、その分彼女は普段の生活で十分に僕を気遣ってくれた。
もう腹の傷も引きつったりはしないんだけどな。心優しい彼女にいつだって僕は甘えてばかりだ。
待ち合わせへ向かう際、スネイプ先生とすれ違った。彼は、もはや僕の後ろ姿を見ることすらなくなっていた。僕らの溝は、あまりに深くなっていた。
きっと、僕が怪我をするたび──僕が死を予感させる姿をさらすたび、あの人の心はこれからもどんどんと離れていくだろう。
僕という存在は、セブルス・スネイプに過去の傷を開かせる猛毒なのだ。
わかっているのに──無謀を止めない僕は、あなたの言うとおり、傲慢だ。
待ち合わせ場所に彼はすでに座っていた。ハリーから目立った怪我はないと聞いていたけれど、薄く見える背中はやっぱり心配になる。
「見舞いにもきてくれないなんて薄情じゃないか」
「医務室を破壊しない自信がなかったからな」
「ワーォ」
隣へと腰を下ろす。湖を眺める横顔はやっぱり蒼白かったけど、もう死人の色ではなかった。
「……もう、大丈夫なのか」
「三日前から大丈夫だったさ。マダム・ポンフリーが大げさなんだ」
「大げさにもなる。君──ほんとうにひどかった」
声はかすれていた。あと少しで、彼は泣き出してしまうんじゃないかと思った。
君に泣かれるのは苦手なんだ。──だから。
「ドラコ、喧嘩しよう。冗談とかじゃれ合いじゃない、真っ向からの勝負だ。あ、魔法や殴り合いはなしで。さすがに今は僕が負ける未来しか見えない。それはフェアじゃないだろ?」
「…………君、秘密の部屋に脳みそでも置いてきたのか」
「へえ? 言えるじゃないか。ああ、そういえば狡猾で目的のためなら手段を選ばないスリザリンはフェアプレーは大の苦手なんだっけ? 情けないなあ? スリザリンのマルフォイ?」
ドラコが立ち上がる。ほんと、プライドだけは高いお坊っちゃんは挑発に弱い。
「言ってくれるな、ポッター。守るだの助けるだの救うだの──口ばっかりが達者でまともに実力も追い付いてない無謀のグリフィンドールが」
「その無謀に救われたのは誰だよ。日記に書き込みなんかしやがって。自分なら大丈夫だと思った? かしこいドラコお坊っちゃんはヴォルデモートの記憶くらいなら掌握できるって? 思い上がりもはなはだしい」
「ああ、ああ、そうだよ! どうにかできると思った! 僕がどうにかしなくちゃ──君に会うまでに少しでも手柄を立てていなくてはならないと思ったんだ! 君に記憶があるかどうかもわからない、いざとなれば一人で立ち向かうしかない──予防を張るのがそんなに悪いか!?」
「悪いね、最悪だ! マルフォイがこんなにバカだなんて知らなかったよ。君、弱いくせになに一人で抗おうとしてるんだ。闇に惹かれてしまうくせに──ヴォルデモートがこわいくせに!」
「もう克服できたと思った! いやちがう、しなくちゃならないんだ。君の隣に立つのに──いつまでもこんなもの抱えていられない!」
「それが思い上がりだって言ってるんだ!!」
とうとう喧嘩は掴み合いへと発展した。胸ぐらを引き合って、額をぶつけて睨み合う。
ほら、また、熱い。
「僕だって──ずっと怖いのに!」
「────は?」
「僕だって怖いさ! 何度も何度も死にかけて、あいつの記憶に触れて、あいつとの共通点ばかり見せられて──強烈に誰かを憎んで、殺してやりたいほど憎んで、そんなときにいつもあいつがチラつく! 同じなんだって言われてるみたいで──僕だって、闇に惹かれてた」
「お前が……?」
「そうだよ。お前たちの英雄さまは、一歩間違えれば第二のヴォルデモートだったさ。ダンブルドアにだってそれを疑われた。僕たちは──双子みたいだった」
「…………」
「君なんかが、一人で勝てるわけないだろ。弱虫の意気地無しのマルフォイのくせに。僕らの情報なんかさっさと渡してしまえばよかったんだ。死にかけるくらいなら、逃げればよかったんだ。あの時だって──わかってたくせに『ハリー・ポッター』かわからないなんて言って、あんなに怯えていたくせにあいつに嘘なんてついて。親子揃って、君たちはバカだ……」
「……父上を侮辱するな」
「母親もだよ」
目の前の肩へ顔を押し付ける。
いやだ、泣きたくない。僕が泣いたら──君が泣けなくなる。
「僕たちは弱いんだよ。……ひとりで、めちゃくちゃするなよ」
「……無謀を騎士道だとか履き違えて美徳化するグリフィンドールにそんなことを言われるなんて」
「確証がないと絶対に動かない怜悧狡猾のスリザリンがこんなことをするなんて」
皮肉にやわらかさが戻る。背に彼の腕が回っていた。
「君の向こう見ずなところがきらいだ」
「うん」
「君はできないとわかっているのにやるんだ。できると思って失敗するならいい、それはただの馬鹿だ。でも、君は──ハリー・ポッターは、いつだってできなくてもやるんだ。できないと思っているのに、やらされるんだ。そして──できてしまうんだ。そんなの、おかしいだろ」
「そうかな」
「そうだよ。君のそういう、英雄性がきらいだ。──英雄は、遠すぎる」
首に彼の髪が当たった気がして、ゆっくりと座り込む。顔を上げて、彼の頭をかき抱く。
「遠くないよ。ここにいるだろ。──ちゃんと、ここにいる」
痛いくらいに腕は僕の体を締め上げていたけれど、それが心地よかった。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「君に泣かれるの、僕、苦手なんだ」
「泣いてない」
「じゃあこれ、鼻水かい?」
「…………」
「イタイイタイ! ごめんって、背中つねらないで」
ふはっと大きく肺から息が吐き出されて、なんだか久々に呼吸を思い出した気分だった。
「とりあえず、わからず屋のマルフォイに教えておいてあげる。君をうしなったら、僕、もう立てないからね。僕の命を握ってるのは君だぞ、ドラコ」
「そっくりそのまま返してやる。あんなとんでもない怪我しやがって」
「君なんて死体だったよ」
「目覚めた時のショック度がちがう」
「それは反論できないな」
クスクス笑って、僕の髪より軽い金髪を撫でる。いつもなら軽やかでいいな、なんて思うところだけど──今はひどく、儚い。
「……命を大切にしろ」
「うん」
「ハリーだって、ひどかったぞ」
「ハリーからは君が大変なことになってた、て聞いたけど?」
「ハリーの方がすごかった」
「愛されてるなぁ」
「当たり前だ」
ベシッと背を叩かれて、それが談話室へ戻った時に手紙を持って待機していたヘドウィグの羽ビンタに似ていて、ますます大きく笑った。僕もおかえしとばかりに数回叩く。
「──うん、よし、喧嘩終わり! クリスマスから長かったね。学生時代の七年間よりはマシだけど」
「……結局、君、なにを怒ってたんだ?」
「あ、やっぱり記憶ない? ……ビンタとかしなくてよかった」
「は? ビンタ?」
ドラコを解放しながら、ふと思う。
あれって、マリアとしてはどっちのカウントなんだろう。体はドラコだから──ドラコ? いやあ、でも、意思になかったわけだしなあ。……やっぱりリドルか。
「マリアのファーストキスがヴォルデモートになっちゃった、てだけの話だよ。超濃厚なね」
「………………は?」
「あーお腹すいた。ほら、立ってよドラコ。厨房でも覗きに行こう」
「待て。おい待て、説明しろ。──おい! マリア!」
***
また激動の一年が過ぎた。僕が寝込んでからハリーがすっかり過保護になったり、ロックハートの件で先生方が魔法省へ駆り出されたり、分霊箱の管理法について一悶着あったりと厄介事は絶えなかったが、おおむねそれからのホグワーツは平和だった。免除されることのなかった期末試験に追われる生徒たちの阿鼻叫喚は長く響いていたけど。
コンパートメントの窓から、マグル社会という名の現実へ戻る景色を眺めながら、僕は肩に乗る重みに頬をほころばせていた。
寝顔はほんと、天使だ。
彼にとってはひどい一年だったかもしれない。それでも、僕は言えるだろう。
「今年も、楽しかった」
「……そうか」
小さく返されて、この狸寝入りめ。と手の甲をつまむ。
どうか、来年も──最後には楽しいと笑える日々になりますように。