「ほしい?」
「え?」
とあるショーウィンドウの向こうへ視線を奪われているハリーへと問い掛けてみる。僕だってなんだか頬が熱かった。
──ファイアボルトだ。ニンバス2000に続く相棒が、ガラス窓の光でつやつやと輝きながら誇らしげに飾られていた。
「……うん。素敵だなって思うよ。でも、今はいいかな。そんなお金ないよ」
「あるじゃないか、金庫に」
「父さんと母さんのお金は、僕たちが生きるためのものだ。僕のほしいものだけで空っぽにするつもりかい?」
「僕はそれでもかまわないけど」
「マリアは時々すっごくバカだ」
小突かれてクスクスと笑い合う。……あ。
「ハリー」
「うん?」
「君、背、伸びたね」
「……ああ、ほんとだ」
ショーウィンドウに並んで写った僕たちに、身長差はなくなっていた。一年だか二年だか前は僕の方が拳ひとつ分ほど高かったのに。
「男の子はずるいな。そのうち抜かされちゃうのか。姉さんは悔しいよ」
「なんたって兄だからね」
いつもの冗談を交えて、名残惜しいショーウィンドウから離れる。
……きっと、また会えることを祈ってるよ。ファイアボルト。
ハリーのつんつるてんな制服を直して、次に新しい教科書を買いにフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へと向かった。ハグリッドが誕生日プレゼントにと贈ってくれた『怪物的な怪物の本』が檻の中で壮絶なバトルをくり広げていたので、店主に、背表紙を撫でるといいですよ、と会計時に添えておいた。帰りにはアイスクリームを味違いで買って、宿題をしながら半分こしたりした。
漏れ鍋での生活は実に充実していた。
新学期が近付くと、ダイアゴン横丁にホグワーツ生の姿がぐんと増えた。ハリーはロンやハーマイオニーと合流できたし、バカンスを楽しんだ二人からの土産話に聞き入っていた。ロンなんかは、パパが当てた賞金でお下がりでない自分だけの杖を手に入れられて、珍しく授業が待ちきれないようだった。
ふと、見慣れた金髪が遠くにかすめたので、雑談に花を咲かせる子供たちに断って追ってみる。──ああ、やっぱり。
「ドラコ」
「マリア」
ひとりでいた彼は少し驚いた風に振り返った。
「こんなところで奇遇だな」
「そっちこそ。……やっぱり、一人?」
僕の中では、小さな彼にはクラッブとゴイル、外では両親がいつだってくっついていた印象が色濃く残っている。なので、一人の姿を見るとどうにも落ち着かないのだ。お坊っちゃんだっていうのに、お付きの人もいないのか。
「揃えるべきものはすべて済ませたからね。今は自由時間だ」
「……なら、残りの時間は僕とデートなんてどう?」
「……喜んで」
下手くそな誤魔化しに乗って隣を歩く。きっとルシウスもナルシッサも、彼を愛しているのに変わりはない。あの日のルシウスは間違いなく親の顔をしていた。
こんなにも、愛の深い人たちだ。──きっと、ここから少しずつだって変われる。
「──デートってのは、このボロくさいパブで茶を飲むことか?」
「味があるって言ってよ」
漏れ鍋の店主トムにただいまの挨拶をして、宿泊室へと上がっていく。
「……おい、マリア」
「素敵なカフェでのデートなんて、お坊っちゃんのマルフォイには飽き飽きだろ? ──室内デートなんて、いかが?」
後ろ手に鍵を閉めて、ニンマリと笑った。
「レディのお誘いにしては、大胆かつ強引だな」
「僕たちの話は人に聞かれていいようなものじゃないだろう?」
「……シリウス・ブラックか」
「ご名答。──会ったんだ、シリウスに」
彼に椅子へ座るよう促し、僕はベッドへと腰を下ろす。出掛けている間にトムが補充してくれていた茶葉で簡単に紅茶を淹れる。
「まだあの鼠はウィーズリーの元にいるのか」
「もちろん。僕が逃がさないよ」
出来る限りの監視はしているさ。
「──そもそも、なぜ捕まえないんだ? チャンスなんていくらでもあったろう」
もっともな問いに、紅茶で喉を潤しながら答える。……ああ、ちっとも味がわからない。
「ロンはあれでスキャバーズを大切にしてるからね。いきなり奪いあげたら、築きあげた信頼がたちまちにパーだ。……それに、時期じゃない」
「……ふぅん? 時期、ね」
「今、あの鼠を捕まえて魔法省につきだしたところで──シリウスは解放されないよ」
僕のつたない紅茶をティースプーンでひと混ぜしていたドラコは、片眉を上げて僕を見た。
「……なぜ、そう思った? シリウス・ブラックは冤罪なんだろう?」
「そうだよ。冤罪も冤罪、ひどいもんさ。調査はずさん、状況証拠すらあやふや、真実薬による取り調べ・尋問もせず、直前呪文の確認だってなかった。こんなの、子供だっておかしいと気付く。──はじめから、魔法省は『シリウス・ブラック』を捕まえる気だったんだ。彼が犯人でなければならなかった」
目だけで続きを促すアイスグレーに目で返す。何度紅茶を飲んでも喉の渇きはなくならなかった。
「考えてもごらんよ。当時の魔法省は闇の陣営にずいぶんしてやられてた。ここいらで成果の一つでもあげて評判を持ち直したいところだったろうさ。そこにシリウス・ブラックのスキャンダルだ。これを利用しない手はないだろう? ヴォルデモートの配下の一人──まるで右腕とまででっちあげて──を捕まえた栄誉、友を裏切った魔法界の王族という話題性、最後のブラック本家当主の犯罪露見によって得られる財産押収の旨味……メリットしかない」
肩をすくめて、脳内に浮かんだファッジの顔へと唾を吐き捨てる。僕はあいつが嫌いだ。もっと嫌いなのはアンブリッジだけど。
「真犯人なんてどうでもよかった。シリウスを犯人とできればそれでよかった────そこにのこのこ真犯人という完璧な証拠をつきだしてもみろ。存在ごと揉み消されるのがオチだ」
「だから──時期を見ていた?」
「そう。ようは魔法省が揉み消せないくらいの事件が起こればいい────例えば、ホグワーツ教師のような信頼のおける大人や、過去の事件に一切関与のない生徒からピーター・ペティグリューを見たという証言が上がった。……だとかね」
息をついて、何度目かの紅茶を口に含む。ドラコは、どことなく満足げに瞳を細めていた。
「……どう? 君の考えと一緒だった?」
「おおむね」
なんともない顔で返されて、やっぱり試されてたか──なんて皮肉に笑った。性悪め。
「ここまでが表向きの理由」
「うん?」
今度こそ、真から不思議そうにドラコは顔を上げた。
「ほんとうは──こわかっただけ」
触れただけで骨の形がわかる彼の体の感触を思い出す。毛は泥にかたまり、まさしく死を匂わせた死神のような相貌だった。
「ずっと、考えないようにしてた。スキャバーズのことも、監視はしていたけれど、それ以上は目に入れないようにした。……シリウスを、思い出すのが苦しかった」
中身のなくなったティーカップを手放して、膝の上で拳を作る。
「彼の存在は生々しくて、彼のことを考えてしまったら──それだけで動けなくなりそうで。『僕』が死なせてしまったみんなが──」
「マリア」
固い声が僕の告解をさえぎった。
「君は、なにを勘違いしているんだ?」
「え?」
勘違い──?
「誰も君のせいでなんて死んでない」
「は……?」
ドラコもまた、ティーカップを置いて冷たそうな色の目で僕を真っ直ぐに見すえた。
「あの時代に死んだ君の身近な人間といえば、シリウス・ブラックにリーマス・ルーピン、それから、アルバス・ダンブルドア、あとは──セブルス・スネイプか」
「……そう、だよ……僕が──僕のせいで、みんな、」
「わからないのか? ──
「…………」
怪訝なさまを隠しもせず眉を寄せてしまう。……なにが、言いたいんだ?
「はあ……これだから英雄さまは。当時の君はいくつだ? 成人すらしていなかった。最終決戦時ですら、成人そこそこ。君の言う『犠牲者』たちは君より年上の大人ばかりだ。──全員、自己判断で君と共に闘い、君を守った」
「────」
「本来君は前線に立つ必要なんてない、守られるべき子供だ。それを……あー、予言だったか? そんなもので無理やり英雄なんぞに仕立てあげられ矢面に立たされたんだ。むしろ怒ってしかるべきだろう。君を命をとして守った大人たちは、自分の判断で、自分の意思でそこに立ったんだ。つまり死んだのだって自業自得だ。自己責任。彼ら自身が負う責任だ。それを──君はなにを勝手に奪ってるんだ。傲慢め」
吐き捨てられて、頭が真っ白になった。
そんな──そんな都合のいい言い訳があるものか。
「責任というのは義務と選択の上に発生する。大人には子供を守る義務がある。だから君は守られて当然だった。それがなんだ? 英雄ならば子供であろうともすべてを守らねばならないと君は言いたいのか? 叶わなければ君のせいか? それこそ──思い上がりもはなはだしいぞ、ポッター」
かつてのマルフォイの顔で──まさしく軽蔑の眼差しで嘲笑され、カッと血がのぼる。
「──ッでも! シリウスが死んだのは僕の判断ミスのせいだ! 僕が騙されたからだ! 周りの忠告を聞かなかったからだ! フレッドだって──セドリックは完全に巻き込まれただけだった──!」
「そうだ。君が判断を過ち──それにシリウスが乗ったんだ。だろう? 僕はグレンジャーからそう聞いているが? フレッド・ウィーズリーだって、戦うと決めたのは本人だろう。あの戦争の中、強制だった人間がいるのか? 僕らのように──逃げていいとあらかじめ道は与えられていたのに。残ったならば、残った人間に覚悟はあったはずだ。なかったとしても、それは残った人間自身の責任だ」
「セドリック・ディゴリーに関しては巻き込んだというのは正しいのだろう。だとしても、少なくとも本人には全校生徒の代表として選ばれるだけの実力があり──命懸けの実践経験はなかった点を置いたとしても──君に守られる立場ではなかった。大体、巻き込んだそれは君の意思によるものか?」
「…………」
細まるアイスグレーと薄い唇から静かに吐き出される言葉は、決して慰めなんかではなかった。
心から──ドラコ・マルフォイは自惚れるなと僕を責めていた。
「もう一度言わせていただこう。──思い上がるなよ、ポッター。守れなかったという言葉はな、相手を守るだけの力を持っていながら足掻ききれなかった人間だけが口にしていい言葉なんだ。守られるべきだった君にそれを言う資格も権利もないぞ。自分のせいで死んだ? ──ちがう。誰もが自分の意思で死をもって君を守ったんだ。その言葉は君を想って戦った大人たちへの侮辱になる。英雄でありたくないくせに英雄を気取るな。自分から英雄になろうとするな。……僕は、君に心まで英雄でいてほしくない」
「ドラコ……」
目の前の唇は引き締められ、頬に低い体温の指が滑る。
「言っただろう。……君の英雄性が嫌いだと」
「……うん」
指は僕の目尻を撫でていた。
「こわいんだろう?」
「うん」
「君は、弱いんだろう?」
「うん」
「英雄なんかに、なりたくなかったんだろう?」
「うん……っ」
いつの間にか目の前は白ばかりで、清潔なにおいがした。トクトクと彼の心臓の音がした。
「君は確かにすごいさ。並みの魔法使いじゃ叶わない。バジリスクなんて化物を倒して、誰もが恐れる相手と闘い何度も生き延びて──でも、それは『当然』なんかじゃない。英雄のハリー・ポッターなら当たり前、なんかじゃない。……僕は君に追い付きたくて必死なのに、これ以上遠くへいくな」
あの、祈る瞳を向けられて、時が停まったような感覚に落ちた。
氷のようなのに、あつい。
「マリアは──英雄なんかになるなよ」
「────」
……ああ、なんだ。君──また、泣きそうなのか。
「……僕、死なせたくないよ」
「ああ」
「誰も、死なせたくない」
「それが叶えば、奇跡だろうな」
「だって、僕らは『知ってる』のに──止められるのに──! もしも、もしも判断ミスで前回生きていたはずの人を死なせてしまったら──? ロンや、ハーマイオニーが死んでしまったら──? それは間違いなく僕の責任だ! だって、知ってる僕らはそれだけ選択の余地があるのに!」
「ちがう」
彼の否定の言葉は、なんだかさびしげに聞こえた。
「
「あ……」
「君が言ったんだぞ。僕たちは弱いって。……ひとりで、めちゃくちゃするなよ。僕の責任を、勝手に奪うな。……僕はスリザリンだからね。権力と権利を横からかすめ取られるのは我慢ならないんだ」
鼻を突き合わせて憎たらしく笑う彼に、ようやく喉の渇きが癒えた心地だった。
「……君って、そういうところばっかり大人なんだね」
「庶民とはちがう教育を受けてきたものでね」
「そのわりに嫌がらせは幼稚だったぞ、マルフォイ」
「…………ちゃんと最後は我が身に返ってくるってわかってたさ。現に一生トラウマもののしっぺ返しを食らったろう」
「ウソだね。あの頃の君にそんな脳があったなんて思えない」
「ぐっ……お前は本当にポッターだな!」
「なんだい、そのわけのわからない悪口」
カラカラ笑うたび、胸の淀みが流れていく気がする。
おそらく、シリウスに会えばまた僕は思考と後悔の深みにはまっていくだろう。僕は傲慢で、癇癪持ちで、頑固だ。一度で理解も納得もできるほどかしこくないし、素直でもない。
そしてドラコは──そのたびに同じ言葉を言ってくれるのだろう。
思い上がるなと。──ひとりで、背負うなと。
「……君がいてよかった」
小さく呟いた声に、彼は答えなかった。