今この瞬間、ここホグワーツでもっとも授業を心待ちにしている生徒は、自分だとはっきりいえるだろう。
──ルーピン先生による闇の魔術に対する防衛術がやってきたのだ。
人当たりのいい笑顔を浮かべて、みすぼらしいローブをどうにかまといながら先生が告げた「教科書をしまって」の言葉に、昨年の惨事を思い出した生徒たちは不安げだった。格好もあいまって、ポンコツが続いてしまったのかと落胆の色がありありと表れていた。
僕はほくそ笑む。さあ刮目するがいい。──ルーピン先生の授業は、僕が知る七年間で一番、最高だったんだ!
「ワディワジ」
悪戯をしていたピーブスの鼻の穴にチューインガムがヒットする。実に愉快な光景だった。胡乱気味だった空気は期待へと変わり、即座に、ルーピン先生を見るみんなの目が輝いた。
職員室まで引率されて、途中、スネイプ先生の嫌味をかわしながら、古い洋タンスの前へといざなわれる。タンスはなにかを訴えるようにガタガタと揺れていた。
「これの中に今──
コツン、とタンスを叩いた先生は、ボガートの説明にハーマイオニーを指名した。ハーマイオニーは相変わらず教科書そのもののように答えた。
そういえば、ずいぶん前にドラコがハーマイオニーのことを歩く辞典だとか殴ってくる叡智だとか呼んでたな……酒を引っかけつつ。そして有言実行されていた。おもに殴るの部分を。
なんて、過去の思い出に意識を飛ばしている間に、ネビルがタンスの前へと立たされていた。誰もがこれから起こることにワクワクしていた。……実践に指名されたネビル以外は。
「ネビル──大丈夫、できるよ。だってネビルだもの」
「マリア……」
退りかけていたネビルの背をルーピン先生に向けて押し出す。ルーピン先生は勇気を褒めるように微笑んでいて、ネビルもそれに震えながらもしっかりとうなずいて返した。
こわいものはなにか──スネイプ先生。
おばあさんの格好はなにか──緑のドレスに、赤いハンドバッグに……。
問答が続き、ボガート・スネイプ先生がどのように変身するかを想像した生徒たちから既に笑いが上がっている。こんな軽快な空気の中──失敗なんておそれるに足りない。
「リディクラス!」
ボガート・スネイプ先生が滑稽なドレス姿へと変わる。今度こそ、どっと笑いが溢れた。
「リディクラス!」
ミイラ男が自身の包帯につんのめった。
「リディクラス!」
バンシーから自慢の歌声が奪われた。
「リディクラス!」
手首だけのなにかがネズミ捕りに捕らえられた。
「リディクラス!」
ロンが想像した大蜘蛛は脚を失って転がった。
ハリーの前に蜘蛛の残骸がやってくる。──あ、だめだ。
「ハリー!」
ハリーの前へと飛び出す。ディメンターに変身しようとしていたボガートはみるみるうちに縮んだ。──縮んだ?
────え?
陽気な空気は冬の夜のように凍てついて、辺りを困惑が包んだ。
「なに……あれ……?」
誰の声だっただろう。
みにくい赤子だった。懸命に身を小さくして、光から逃れたがっていた。まるで皮膚を剥がしたかのような痛々しい姿で──哀れで──ちっぽけで────
死に向かう駅で置き去りにしてしまった、かわいそうな子供。
ハリーが傷を押さえて呻いたと同時に、ルーピン先生が前へと飛び出す。僕を押し退けると、哀れな赤子が満月へと変化していく。
「リディクラス!」
最後はネビルが仕上げた。再びスネイプ先生が現れて、ドレスに変わったスネイプ先生へと大きな笑いが向けられて──リディクラス! ばかばかしい!
興奮冷めやらぬ中、授業は終了した。皆、奇妙な赤子のことなんて忘れて思い思いに最高の授業のことを語った。ネビルはいつまでも顔を真っ赤にしていた。
「見たかよ──あの蜘蛛! こうだ! リディクラス!」
ロンもハーマイオニーもご機嫌だった。なにも言えないのは──僕たち双子だけだった。
***
どこにいるのかと尋ねた通信紙には一言、図書室と浮かんでいた。なので、特に予定のなかった僕はまっすぐに図書室へと向かっていた。
ハリーは僕になにも聞かなかった。僕もハリーになにも言わなかった。言えるはずがなかった。──僕の恐怖の象徴として突き付けられた赤子の正体なんて。
傷が痛んだ時点で、もしかしたらハリーには察しがついてしまったかもしれないけれど。
言えるわけない。この世界の誰にも。──『僕』の言葉は、『彼』にしかわからない。
「ドラ──コ──」
揚々と上げた片手は、一瞬で迷子になってしまった。──彼の隣に座る、美しい少女によって。
黒にも見える深い茶色の髪をしていた。瞳は茶色だった。顔は細長で、上品に整っていた。貴族らしい少女だった。
彼女が──アステリア・グリーングラス。
『僕』がアステリアを──アステリア・マルフォイを直に見たのは十にも満たない数で、そのうちに彼女は写真だけの存在になってしまった。残されたものたちの苦悩は、父子両方から聞かされていた。
スコーピウスが──ドラコが生涯に渡って乞い求め続けた女性。
ドラコはどうやら彼女のレポートだかを手伝っているようで、同じ本を覗き込みながら、愛しくてたまらないと瞳を溶かして彼女に微笑みかけていた。彼女もまた、ドラコを慕っていると全身で表しながら寄り添っていた。
邪魔、できるわけがない。
あんなに──あんなにも、しあわせそうなのに。
「マリア?」
ふと、彼が顔を上げてしまった。ぽつりと立って、きっと迷子そのものみたいな顔をしている僕は、どれほど間抜けだろう。滑稽だろう。
笑えばいいのに。そんな──心配そうになんてしなくていいのに。せっかく、君が焦がれていたアステリアが隣にいるのに──どうして僕を見つけたんだ。
「すまない、アステリア。ここまでにしよう。彼女とは約束をしていて」
「いや、いいよ、ドラコ。たいした用じゃないんだ」
「マリア? だが、君──」
「いいんだ!」
声が大きくなってしまって、慌てて口をふさいだ。近くのレイブンクロー生には睨まれ、マダム・ピンスからするどい視線をいただいた。けれどなによりも、目を丸くした彼と見つめる少女の瞳にいたたまれなかった。
アステリアの目は真っ直ぐだった。好奇も嫌悪も──嫉妬すらも浮かべず、僕を見ていた。ハーマイオニーが真実を見極める時の目に似ていると思った。
「……ごめん、僕──」
「──マリアはあたしと約束があるの」
凛とした声が僕の腕を取りながら彼らへと──そして僕へと向けられた。ね? そう悪戯げに微笑む少女は世界で一番愛くるしいと僕には思えた。
「ジニー」
赤毛の最愛の人は、勝ち気に口角を上げてドラコへと凄んだ。
「ごめんあそばせ、スリザリンの王子さま。マリアとの約束は今度にしてもらえる? あたし、今、とっても姉さんに甘えたい気分なの。どうぞあなたは後輩への指導をお続けになって」
僕の腕を取ったまま、ジニーがそっけなく礼をして図書室を後にする。僕はすっかりなすがままだった。ジニーはある程度のところまで歩くと、足を止めて僕を見上げた。
「マリアが、つらそうに見えたから。……いけなかった?」
愛が底を知らない少女の気遣いに、ゆるゆると首を振る。
「ううん。ありがとう、ジニー。……ほんとうに、ありがとう」
僕の顎ほどまでしかない身長の彼女を抱きしめる。ジニーは、腕を伸ばして全身全霊で抱きしめ返してくれた。
「いいの。あたし、マリアの味方だもの。ドラコ・マルフォイはスリザリンにしてはいいやつだって聞いてるけど……マリアがかなしむなら話は別よ。あたしの姉さんをかなしませるやつは、マリアがゆるしたってあたしがゆるさないのよ。知らなかった?」
コロコロと彼女は笑う。強気な言葉には溢れんばかりの愛情が込められている。
すきま風にさらされていた心にほんのりと熱がともった。
「ジニー、愛してる」
「あたしだって愛してるわ。あたしの姉さん!」
やわらかい体温に包まれてなお──すきま風を通す穴は埋まらなかった。
追いかけなくてよろしいのですか?
少女は隣の儚げな少年を見上げて囁いた。少年は立ち上がりかけた姿勢のまま、瞳を揺らして決めかねていた。
「……いや、ジニー・ウィーズリーが傍にいるんだ。僕は邪魔だろう。勝算のない勝負はしないタチでね」
「あら」
黒のような髪と共にコテリと頭を倒した少女は笑む。計算され尽くした──淑女としての教育の確かさを思わせる清廉な笑みだ。
「意気地無しですね、ドラコお兄様ったら」
「アステリア……」
「ドラコお兄様がよろしいのであれば、アステリアが申し上げることはありません。課題の続きを見てくださいますか?」
アステリアは微笑む。先程に邂逅してしまった赤毛の少女を脳裏に焼き付けながら。ただただ、微笑む──
「あれが、マリア・ポッター」