隅に寄せていた身を起こして、改めて地図を開く。切り替えた僕に、ハーマイオニーも意識の先を替えたようだ。理知的な瞳で地図の名前を追っている。
スネイプ先生が拾った透明マントは僕の仕業だとわかった。あのマントがなければルーピン先生かシリウスにスネイプ先生は即座に見つかっていただろうから、あそこで抜け穴前のマントを拾ってもらうことは必須だ。
となると、次に起こるのはスキャバーズを追い詰めるクルックシャンクスの件か。それまで透明マントで身を隠し、三人と二匹が叫びの屋敷へと引き入れられてからマントを置いていく、という流れが無難そうだ。
「クルックシャンクスはどこから現れたの?」
ホグワーツ城からハグリッドの小屋までの道のりを、地図上からも確かめつつ伺う。
「それがわからないのよ。試験期間だから特に、寮で留守番させていたはずなのに。ほんとうに突然──」
はた、と。何度目になるかわからない曖昧な表情で僕とハーマイオニーは顔を見合わせた。
「……まさか」
「……まさかでしょ」
──これも、僕の仕業だったりしますか。
***
クルックシャンクスを抱えて、透明マントを押さえる役割はハーマイオニーに任せて走る。ハーマイオニーが急かす。地図の上ではすでに三人がハグリッドの小屋を出て城へ向かおうとしているところらしい。
まずい、間に合わないなんてそんなこと──あってはならない。
「──見えたわ! わたしたちと──スキャバーズよ!」
小声でハーマイオニーが前方を指す。あまりに小さな影だけれど、はっきり見えた。
「頼むよ──クルックシャンクス!」
腕から放り出せば、クルックシャンクスは颯爽と駆けた。なるほど。これは、クルックシャンクスが突然現れたようにしか見えないだろう。言葉通り、透明だったのだから。
ロンがスキャバーズの名を叫びながら追う。ロンに捕らえられる前にとクルックシャンクスが奮闘している。着々と混乱した一行が暴れ柳へと近付いていく。──黒犬が、暴れ柳の根元からロンへと飛びかかった。この時間のハーマイオニーが悲鳴を上げた。ハリーは困惑していた。見覚えのある姿に、どうしていいかわからないようだった。
ロンが、抵抗むなしく服の襟首を咥えられて穴へと引きずり込まれていく。
「あれは……ひどいよね」
「どうあっても食べられると思ったわ」
見えないのをいいことに、現場の混乱っぷりを客観的に眺めて頬がひきつった。
とうとう、三匹と三人が穴の中へと消えた。──さて、ここからだ。
まず、透明マントを穴の前に脱ぎ捨てて死角へと隠れる。──スネイプ先生がやってきてからでないと、ややこしくなる。
走ってきたスネイプ先生がマントを拾った。姿が完全に見えなくなってしまうのでここからは憶測でしかないが、おそらく穴の中へと入っていっただろう。その後をこの時間の僕が続く。
「あなた、このタイミングで来たのね」
「スネイプ先生のストーキングをしていてね」
肩をすくめて、僕らに関わる面々の姿が一人もなくなったところで、ハーマイオニーを連れて城へと戻った。
「なにをするつもりなの?」
透明マントがない心細さに、不安そうにしているハーマイオニーに悪戯っぽく笑う。
「──保険を、頼ろうかと」
たどり着いた先は魔法薬学教室とその準備室だった。隣り合う扉を見比べて、杖を取り出す。……可能性があるとすれば準備室の方だろう。
「アロホモーラ」
戸は開かない。
「わたしがやるわ」
完璧な発音と素振りでハーマイオニーが施錠解除を唱えるが、やはり効果はない。予想はしていたが、アロホモラ無効の魔法がかけられているらしい。
それもそうだろう。魔法薬はもちろん、その素材にだって劇薬はあるのだから。……そう考えると、一年生のアロホモラ程度で開いてしまった例の四階は、開けてもらうことを前提にしていたとしか思えない。あの狸爺め。
さて、どうしよう。二人で鍵を睨んでいると、胸元から名状しづらい鳴き声がした。
「……あ」
すっかり僕のベストとカッターシャツの間に住み着いていたボウトラックルだった。
「……これも、手伝おうって言ってくれるの?」
ボウトラックルは元気に鳴いた。
「……僕、いつか魔法生物を飼う機会があったらボウトラックルにするよ」
「奇遇ね。わたしもそれを考えていたところよ」
気の抜けた冗談を言い合ってる間に、カチリと余裕綽々で鍵が開けられた。ボウトラックルが得意気に鍵穴から顔を出していた。
今回のMVPはまちがいなく君だ──ボウトラックル。
***
魔法薬学準備室にて本命を済ませ、最後の仕上げに夕食時にもらった悪戯仕掛人たちからの土産を城の玄関先で爆発させた。そう──あの傍迷惑な糞爆弾と爆竹花火だ。
これで間違いなく教師の誰かがやってくるだろう。希望としてはマクゴナガルだが、この際、教師ならば誰でもいい。それこそトレローニーだってかまうものか。──ダンブルドアとファッジさえ呼び出せるなら。
時間が迫ってきている。僕とハーマイオニーはひたすら走った。──タイムターナーを回した場所まで。
「わたしたちが見えてきたわ」
「ディメンターはまだだね」
「ええ……」
タイムターナー発動時から少し離れた場所で、ハーマイオニーは真っ直ぐに見ていた。すべてから逃げ出した男──ペティグリューを。
「……今なら、間に合うわね」
「でも、そうすれば『この時間の僕たち』に姿を見られるのは確実だろうね」
「ペティグリューをこのまま見逃すの?」
僕は目を丸くして、そしてうっそりと笑った。ハーマイオニーが僕の笑みに目を見開いた。
「──まさか」
逃がすわけない。──僕は、信じてるからね。君が、信じろと言ったんだ。
「ハーマイオニー、あいつが変身してどの方向へ走っていったか、覚えてる?」
「……ええ、あのときのわたしたちから見て左だったわ」
「左には何がある?」
「クィディッチの競技場?」
「その前には?」
「……寮があるわ」
──そう、寮があるんだ。
スリザリンの寮が。
たとえば、彼がもしも医務室にいたならば、間に合わなかった。僕と共にいたならば、追えなかった。
彼が今、寮にいると確信できるから──この作戦は成立する。
「僕らにできないことなら──この時間の人間にやってもらえばいい」
信じてるよ────ドラコ。
ディメンターの影がこの時間の僕らに向かって集まる。おどろおどろしく囲んでいる。狼と鼠が走り出す。僕の錯乱した声とロンのうめき声が悲壮感をただよわせている。そして────四つの光が銀に輝いた。
「エクスペクト・パトローナム」
イトスギの杖から霧のように放出された銀は、牡鹿を模して駆けた。やはり、夢心地な幻想のような光景だった。
「あなただったのね、マリア。試合のときだって」
「秘密にしてくれるかい?」
ハーマイオニーはちょっと変なものを見る目をしてから、クスクス笑った。夜空の星でも見るように、牡鹿と雌鹿の行方を見守っていた。
「仕方ないんだから。……こんなところまで、あなたたちって双子なんだわ。────牡鹿と、雌鹿だなんて」
二匹の僕の牡鹿と──スネイプ先生の雌鹿、そしてハリーの『雌鹿』が寄り添い合う。きっと誰が見たって美しいとため息をつける光景だった。
この時間の僕とハーマイオニーが死角までやってきて、ハーマイオニーのタイムターナーが回り出す。二人が消えるのを見届けてから、すっかりディメンターの払われた面々たちの元へと駆け戻った。
「あれ? マリア? ハーマイオニー? 今、君たちどこから──」
「ただいま、ハリー!」「ロン!」
「へ? お、おかえり……?」
「君、なんでそんなに元気なんだ? ディメンターがいたっていうのに」
ハーマイオニーにならい、ハリーに飛び付いて、もうすっかりよろめくことのなくなった彼の体を抱きしめる。
ずいぶんと気力を奪われる一日だった。けれども、ぐったりしながらも僕は笑いがこらえきれなかった。だって──
「これは──これは何事ですか!」
最高のタイミングで、そして最高の布陣で教師陣が駆けつける。マクゴナガル先生にフィルチ──きっと糞爆弾の苦情を受けてだ──ダンブルドアにファッジ……この上なく必要な人物が揃っていた。
「あなたたち、なんて姿で────シリウス・ブラック──!? ああ、セブルス、あなた──あなたが──?」
マクゴナガル先生がシリウスの姿を捉えて息をのむ。ファッジが狼狽えながらもディメンターを呼び戻そうとして──『彼』がそれをさえぎった。
「ええ、そうです。マクゴナガル教授。──『真犯人』を、捕まえたのです」
闇の空に負けない、輝かんばかりのブロンドをなびかせて、動かぬ鼠を捕らえた少年は美しく微笑んだ。
「ドラコ!」
「マルフォイ!」
ハリーとロンが驚愕の声をあげる。僕は言葉にならなかった。
信じてた。信じたつもりだった。けれど、ほんとうに────
「──ふむ、ずいぶんと、事情が絡む様子じゃのう? ここはひとつ、わしの部屋でなつかしい友と茶とでも洒落こまんかね?」
「ア、アルバス? なにをおっしゃるのです?」
「そ、そうだ、ダンブルドア! すぐさま、刑を執行せねば──」
「今宵の子供たちの勇気を、わしは無下にしとうないのじゃ」
わけがわからないといった顔でなおファッジは言い募るが、ダンブルドアの傍若無人っぷりを知る面々は即座に諦めて従った。この老人とまともに付き合おうと思うと、柔軟にならざるを得ないのだ。ダンブルドアは打算的なお人好しなのだから。
鼠を、瞳孔が開いていて実に恐ろしい形相のスネイプ先生へと手渡したドラコが僕の隣に並ぶ。手を繋がれて、意図を悟った僕は静かにハリーたちから離れた。
「……アステリアは?」
「寝てる。と言いたいところだが──起きて待っているだろうな」
「アステリアらしいね」
「心配していたからな。──君を」
立ち止まりかけて、ドラコの手にいざなわれるように引かれて再び力なく足を進める。
「君に振り回されることは、慣れたものとはいえ──今回ばかりは肝が冷えたぞ。なんだこのめちゃくちゃな要求は」
ドラコがポケットから取り出した通信紙には、『鼠逃走』『スリザリン寮の前』『捕まえて』『返信はしないで』とあった。
急いでいたとはいえ、我ながらひどいものだ。今だって、レポートに関してはまとめ方の点で先生方に注意をされる僕だ。もう根っこから論点をまとめるという行為が苦手なのだと思うしかない。
改めて、ドラコと分かれてからの一連の騒動を語る。ドラコは、聞けば聞くほど眉間のシワを深く刻んでいった。
「つまり、通信紙はまだスネイプ先生の机の中で──」
「勝手に消えてたら面倒なことになるだろ」
「君は、結局、タイムターナーを使って──」
「それしか方法がなかったんだ。未来の僕がなにかしたってわかったんだから、なぞるしかないじゃないか」
「君は──ハァァ……」
これ見よがしにため息をつかれる。
わかってるさ。僕だって──まさかあれほど自戒したタイムターナーに頼ることになろうとは。
「僕らは親子でタイムターナーと縁があるのか」
「良縁でないことは確かだね」
軽口を叩いて、調子を取り戻す。前方では、ハーマイオニーも同じように教師陣から離れて先ほどの大冒険を語っているようだった。
「……正直、君が来てくれるかは五分五分だったんだ」
独白する。
信じていた。けれど──来なかったとしても、僕は、うなずいていた。
「……ほんとうは、迷った」
ドラコが遠いものを見るように瞳を細めて呟いた。
「迷っていたんだ、僕は。それを──アステリアが、叩き出してくれた」
「…………」
「マリアは友達だから、贔屓するんだそうだ」
頬はほころんでいた。優しすぎる少女が、この結末に導いてくれた。
「お礼、しないとね」
「お礼などされるいわれはありません。──なんて、言われるのがオチだろうな」
「ウーン、容易に想像がつく」
校長室を前に、ハリーに手招かれる。ドラコが手をほどいて背中を押してくれる。シリウスが僕を見ている。優しい目だ。
ぐらぐらと頭が揺れるのを感じた。背にある手がなければ、立っていられない気がした。
────あ。
どうしよう。