ドラコと少女と黒犬の話
なんの気もなく古ぼけた羊皮紙を開いた少年は、はた、と固まった。強気に己一人でやり遂げると背を向けた彼女──否、この場合は彼だろうか。
彼から助けを求める言葉がそこにあった。
「ドラコお兄様?」
少年の駆け出しかけた身を止めたのは、少女の鈴のような声だった。暖炉に近い横長のソファ、そこに慎ましやかに座する少女は、少年──ドラコ・マルフォイにとって、最愛といって差し支えない存在であった。
大広間ではなく、ここ、談話室でしもべ妖精の運んだ食事を終え、彼女の姉ダフネが所用で席を外している今、具合の悪い彼女を放って一人にしてしまうなどドラコには思い付きもしない愚行だ。そのはずだった。──だがしかし。
彼女に見えない位置で再び用紙を見る。殴り書きのような筆跡だ。事は急を要するのだとありありと文面が伝えている。
せめて──せめて、そう──ダフネが戻ってくるまでは────
「マリアに何かありましたか」
ドラコはハッと少女へと振り返った。
「ドラコお兄様が顔色を変える事案など……わたくしにはマルフォイ家のこと、そしてマリア・ポッター関連の他に思い付くものがありません。もしくは双子のハリー・ポッターでしょうか。ドラコお兄様はポッター家のお二人贔屓でいらっしゃいますもの。……困った方」
見透かすように清淑に笑まれて、ドラコはどことなく気が抜けて再び腰を落ち着けていた。──彼女の隣はいつだってドラコの為に空けられている。
「マリアは、なんと?」
「……手伝ってほしいことが、あるみたいだ。ダフネが戻ってきたら、」
「ドラコお兄様」
少女の両手が、膝の上で拳を作っていたドラコの片手を包んだ。
「──アステリアが、このままわたくしの側に居てくださいましとお願いしましたなら──ドラコお兄様はきいてくださるかしら?」
「アステリア……」
「マリアではなくアステリアを選んでくださるかしら?」
それは懇願ではなかった。ちょっとした謎かけをするような──この世界ではよりかたくなに育ってしまった彼女の、親しい者だけに見せる悪戯な部分だった。
ドラコを想うアステリアだからこそ、決して口にはしない類いの願いだった。
「──行くよ」
アステリアのほっそりとした手を包み返して、ドラコは立ち上がった。
「あら、ざんねん。わたくしを放っていかれるのですね」
「ああ。ここでうなずいたりしたら────君、怒るだろう」
「────」
アステリアは茶の瞳をパチパチと幼げにまたたかせた。そして次には──くしゃっとさらに幼く子供らしく笑った。
「ほんとうに──あなたたちって、ずるいわ。二人そろって、ひどいんだから。……わたくしのお友達をお願いしますね、ドラコお兄様」
杖をたずさえ談話室を抜ける階段へと差しかかるドラコに、アステリアは嫉視こそ呑み込んだものの、寂しさを隠しきれない瞳で背中を追っていた。
彼女にだって、好きな人を独り占めしてしまいたい欲は当然ある。十一歳だ。わがまま放題に喚いたって許される歳だ。──しかし、それをよしとしないのがアステリア・グリーングラスだった。かなしいほどに、彼女は高潔だった。
「君もたいがい、マリアに甘い」
ドラコは振り返らなかった。
「あの人、ずるいんですもの。わたくし、まんまと策略にはまってしまいましたの。……友達とは、助け合うものなのだそうですわ。ですから、お友達として、当然のことをしたまでです」
「特に贔屓するんだろう?」
「……一番のお友達ですから」
アステリアの声は照れくさそうだった。ますます、振り返られないな、とドラコは苦笑した。
「わかった。君がこんなにも心を砕いていたと君のお友達に伝えてこよう。グリフィンドールのお転婆姫にいいように使われてくるよ。いいかい、アステリア。君はベッドに入るんだ。僕を待っていたりするなよ」
「…………」
こんな時ばかり、アステリアの良い子のお返事はない。ドラコはこれ見よがしに肩をすくめた。……まったく、頑固者め。
地下への階段を出てすぐ、ドラコは街灯なんてある筈もない道を懸命に見渡していた。目を皿のようにして、とはまさしく彼の状態だった。
場所の指定はない。時間の指定もない。すでに辺りは真っ暗だ。頼れるのは、消灯まで燃え盛る出入り口左右の松明灯だけだ。
呼吸を整えて、いつでも呪文を飛ばせるよう杖を持ち直す。
……きっと、鼠を逃がしてしまってもマリアは怒らない。かつてのハリー・ポッターならば癇癪の一つくらいは起こしていたかもしれないが、さすがにそこは互いに大人になった。……大人になった彼はスリザリン向きの冷酷さも手に入れて──なお、本人は元々持ち合わせていたと語る──さらに一筋縄ではいかない厄介なモンスターへと育ってしまったが。
だが、結果シリウスの解放が叶わなければ、彼は極端に落ち込むだろう。シリウス・ブラックの救済は、彼が人生をかけて掲げる切願の一つだったのだから。
シリウス・ブラックは──それほどに、ハリー・ポッターの『特別』だった。
セブルス・スネイプと、セドリック・ディゴリー、そしてシリウス・ブラック──
ハリー・ポッターに並々ならぬ執着を持っていたドラコ・マルフォイにとって、この三つ名は彼同様に忘れられぬものだった。
例の戦争において死した彼の身内は多かったが──特に彼を縛ったのはこの三人だとドラコは踏んでいた。それは、ハリー・ポッターを様々な視点から見続けたドラコ・マルフォイだからこそ発見せしめた歪みだった。
死人には勝てない。ゆえに──生かさねばならない。今度こそ。
死なんて遠いところに心を持っていかれれば、追い付くことも狡猾らしくかすめ取ることも不可能なのだから。
──自身の心に、生涯アステリアが住みついたように。今も、彼女の影を手放せずにいるように。
再び深呼吸をする。その時を待つ。
失敗はできない。マリアのためではない。ハリー・ポッターのためでもない。────自分のために。
そして。
「──ステューピファイッ!」
赤い閃光がまばゆく闇を切り裂いた。